「クリエイティブ」って言葉が嫌すぎて

更新をサボっていた。忙しかったのである。

定期で仕事を請け負っていると、時に「いつもの5倍はもらわんと割に合わないやろこれ……」という仕事に出くわすことがある。

もちろんおいしい思いをすることもあるので、別にクライアントを非難しようなんて意図はまったくない。たまたま、「やってみたら想定以上に大変だった」という不幸が起きることがある、というだけである。

ライターの仕事は、基本的に表現活動などではない。情報収集と整理が9割である。必要な情報を整理することに長けていれば、表現力とか個性なんてものはいらないし、むしろあるだけ邪魔な要素だ。

そういう意味で、ライターの仕事というのはいくらでも替えがきいてしまう。もしライターという職業の社会的ステータスが国家公務員とかと同等であったなら、きっとライターのほとんどは東大・京大卒になる。ぼくはそう確信している。

ぼくは「クリエイティブな仕事」という言葉が嫌いだ。前職で「開発課」と名指されていたものが「クリエイティブ課」と名前を変えたとき、その場で辞表を叩きつけたくなった。

なんやねん「クリエイティブ」って。「開発」でも「制作」でもいくらでもあるだろうに。「人とは違う才能や技能を持った人の特権領域」みたいなニュアンスが鼻持ちならない。

なんというか、クリエイティブという言葉が、アート領域へのコンプレックスに満ちたものとして響くのである。

世の中でクリエイティブとされている仕事のほとんどは、実際のところ他にはない何かを創出=createするようなものではなく、与えられたものをテンプレートに従い処理するだけの仕事である。蔑んでいるのではない。なにかをつくるというのはもともと、煌びやかな個性の表出などではなく、そういうものだからだ。

「クリエイティブ」という言葉は、この実態を覆い隠してしまう。自分の仕事が替えがきかないものだと錯覚してしまうのだ。さらに悪いことに、そこに誇りみたいなものを見いだすことによって、上のようなルーティンワークを安価に請け負ってしまうわけである。要するに自ら進んで「やりがい」を搾取され、喜んでいるのだ。

何度でも言うが、なにかをつくるというのは個性の表出などではない。それらはすべて、「替えがきく」し、「あってもなくてもいい」ものだ。この代替可能性と根本的な無価値さは、むしろなにかをつくるうえでの前提であるとさえ言っていい。

表現というのは我を出すことではなくて、譲ることだ。誰でもできるけど、あなたの代わりにやっておきました、どうでしょう、と試してもらうことだ。クリエイティブなんて、おこがましいのである。

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