“森喜朗氏の「女性蔑視発言」はフェイクニュースである”という記事の見出しにぼくが爆笑した理由

世界に誇れる日本の国技として、権力者への忖度を原動力とした「アクロバティック擁護」がある。完全に身動きがとれなくなったはずの体勢から、針の穴ほどの逃げ道を見つけ出し、それをどうにかこじ開けようとする涙ぐましい姿には、我が国の美点が凝縮されているかのようだ。

あらゆる採点競技がそうであるように、アクロバティック擁護もその「難度」によって点数が決まる。「誰がどう見てもアカンやろ」という状況から、「まさか」の視点でもって擁護を展開していくこと、これが秀逸なアクロバティック擁護の条件である。

そのような意味で、先日アゴラが森喜朗の女性差別発言に関して繰り広げたアクロバティック擁護は、まさにウルトラC級のものだった。

森喜朗氏の「女性蔑視発言」はフェイクニュースである

この見出しを見て、私は虚を突かれ、「フェイクとはなにか」についてしばらく逡巡した。これこそまさに、秀逸なアクロバティック擁護が引き起こす反応にほかならない。思いもよらない角度からトマス・クーンもびっくりのパラダイムシフトを起こそうとしてくるので、思考が追いついていかないのだ。

一応、辞書を確認してみる。大辞林によれば、フェイクニュースは「虚偽の内容を含む報道」だという。虚偽。ぼくの認識が間違っていなければ、「本当ではない」ということを意味しているはずである。

すなわち、この記事の見出しは「森喜朗氏が女性蔑視発言をしたことは本当ではない」ということを言っている。何かしらのコペルニクス的転回が生じたのでなければ、であるが。

さて、「森喜朗氏が女性蔑視発言をしたことは本当ではない」という文には、2通りの解釈の方法がある。

1.森喜朗氏がした発言は女性蔑視ではない
2.女性蔑視をしたのは森喜朗氏ではない

1のパターンは、Twitterなんかでちょこちょこ見るヤツだろう。「え、女いると会議長くなるじゃん、正論言って何が悪いの?」的なパティーンである。しかし、仮に森喜朗氏が忠実な学問の徒として「会議における女性比率と会議時間の相関性」について明確なデータを持っていたとしても、「うちの恥」とか「5人か、10人に見えた」とか、冗談の種にしている時点で「蔑ろにしている」ことは明白なわけである。「わきまえております」についてはもはや触れる必要もない。

そうすると、2のパターンだ。実際、アゴラを読むと「女性蔑視をしたのは森喜朗氏ではない」の筋でアクロバティック擁護を展開しようとしているようだ。その掛金は、「森氏は他人の言を引用し、冗談を言ったに過ぎないのに、NYタイムスはその発言の主語を森氏に置き換えた」というところにある。実際に見てみよう。

該当する箇所の森氏の発言は以下の箇所の後半部分にあたる。

女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、「女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困る」と言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。

この「発言の時間をある程度規制しておかないとなかなか終わらないから困る」の部分を、NYタイムスはこう訳した。

“You have to regulate speaking time to some extent,” Mr. Mori said. “Or else we’ll never be able to finish.”

森喜朗氏が誰の意見かぼかしながら、主語のない文で語っているところを、明確にMr. Moriを主語に据えた文にしている。なるほど確かに、これは誤訳と言ってもいいだろう。

すなわち、「森喜朗氏が『女性の発言時間を規制すべき』と発言した」というニュースは「フェイク」といって差し支えないわけである。

ところが当然、「女性蔑視」の箇所はここだけではない。が、そろそろ当たり前のことを繰り返すのも飽きたので、この話はやめにしよう。

この、「反論するために当たり前のことを繰り返さなくてはならないので、意欲を削がれてしまう」という点こそが、アクロバティック擁護の優れたところなのである。

どういうことか。私はこれ以降のことを言いたくて、ここまで長々と遊んできたわけである。

「アクロバティック」は、「偏差値の急落」を意味している

もう一度、アゴラにおいて「女性蔑視ではない」とされている森喜朗氏の発言を見てみよう。公平性を鑑み、アゴラに引かれている部分をそのまま引くが、べつに読む必要はない。

女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますがラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(一同笑い)。5人います。

女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまり言うと新聞に悪口書かれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、「女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困る」と言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。

私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を射た、そういうのが集約されて非常に我々役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

さて、これを読んで、「森喜朗氏の伝えたかったことを50字程度で要約しなさい」という問題を出されたら、人々はなんと答えるだろうか?私ならこう答える。

女性が多いと会議が長引くので、割合を増やすのなら時間を管理するか、無闇に発言しない女性を選ぶべきだ。(50字)

これは捻くれた解答だろうか? むしろ、文脈から発話者の意図を察するのに長けている人間ほど、このような解答に行き着くのではないか? 無数の言葉に触れ、多種多様な文体に触れてきたエリートほど、このように読み取るのではないだろうか?

当然、私は自分がエリート代表だと言いたいわけではない。忖度は、このような読解力の高さによって生じるのである。仮にこの発言が、「組織において女性の割合をどの程度とすればよいか」を決定する場において、最高権力者によって発されたものだったとしたら、彼の側近たちはまちがいなく「女性の割合をなるべく少なくする方向」に奔走するにちがいないのである。

この度アクロバティック擁護を見せつけてくれた池田信夫氏は東大卒とのことだけれども、まさかこの文脈を誤読しているはずはない。何のしがらみもない状態で、上の引用文を読まされ、「50字で発話者の言いたいことをまとめろ」と言われたら、私のものとそう変わらない解答を提示してくるのではないだろうか。

何が言いたいか。忖度にもとづくアクロバティック擁護の本質には、意図的な偏差値の急落がある、ということだ。途端に、「競争意識が強いって確かに言ってますけど、『優れているところ』って付言してるじゃないですか~」とか言い出すわけである。急に「そこに文字として記してある意味」しか読み取れなくなるフリをするのだ。結果、当たり前のことを繰り返し説明しなければならず、なんかもうこっちがバカのように見えてくるわけだ。

内々に対しては類まれな読解力の高さを発揮し、上層部の意向を忠実に汲み取りながら、その問題を外部から指摘されるやいなや偏差値30のフリをして「え、そんなこと書いてないですけど?」とやるわけである。このような転身の早さこそが、アクロバティック擁護がアクロバティックたる所以なのだ。

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