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村田陽一 2019年オフィシャルインタビュー Vol.2 (interviewer: 内田正樹)

このテキストは村田陽一のキャリアを紐解くオフィシャルインタビューである。後編となるこのVol.2では、主に2000年代のディスコグラフィーを中心に、彼の多彩な音楽変遷を振り返る。そして、現在、自作の販売を自ら行っている意図についても語ってもらった。(内田正樹)


 ── プレイヤーとアレンジ/プロデュースの両立は、いつ頃から、どのようなバランスで成立し始めたのでしょうか?

「世間のバブル景気が終わった、30歳でしたか。仕事部屋が欲しくなって、当時の自宅にスタジオ的なスペースを設けて。そこで制作をするようになってから、プレイヤーと同じぐらいの比率でアレンジやプロデュースをするようになっていましたね。その頃、僕はビクターの専属プレイヤー/アーティストだったので、主にビクタースタジオを使っていた。まだPCも発達していなかったので、宅録という概念もほとんど無い頃でした」

 ── ここからは村田さんのディスコグラフィーにおいてキーとなる何枚かのオリジナルアルバムについて駆け足で聞いていきます。まずは1999年の『HOOK UP』について。これはバキバキのファンクネス・サウンドですね。

「はい。『HOOK UP』は、いわゆるレアグルーヴの走りみたいなサウンドで、まさに『俺、ファンクやりたいな』と思って作ったアルバムでした。まずアメリカで録りたかったんですが、ひと口にファンクと言っても、いろんな場所で育ち、派生している音楽なので、1カ所では括れないなと思い、じゃあ3カ所でやろうと(笑)。まずニューヨークでは楽譜が読めるバリバリのスタジオミュージシャン系。で、アトランタはジェームズ・ブラウンの直系的な、楽譜なんて読めませんという人、それとLAに関しては、職業演奏家というよりはバンドの人を中心にしようと、リズムセクションは初期のオリジナルのタワー・オブ・パワーの人とやりたいと。そうしたらリクエストが全て通っちゃって」

 ── すごい。何という贅沢な。

「タワー・オブ・パワーのオリジナルのキーボードだったチェスター・トンプソンは、カルロス・サンタナのバンマスになってしまったこともあって他のメンバーと演れていなかったらしく、『このメンバー揃えてくれてありがとう』と逆に感謝された(笑)。隣のスタジオにTOTOが入っていて、ドラムがサイモン・フィリップスだったんだけど、TOTOにしてみるとタワーの面々なんてアイドルだから、リハをやめてずっと俺たちの練習を見ていましたね(笑)。アトランタでは貸しスタジオみたいな狭いスペースにプレイヤーがぎゅうぎゅうで詰め込まれる大部屋状態で録って、ニューヨークはきっちりとした譜面モノ中心でね。3都市で、ウィル・リー、アンソニー・ジャクソン、ハイラム・ブロック、リッキー・ピーターソン、ドン・アライアス、デイヴィッド・サンボーン、ボブ・ミンツァー、フレッド・ウェズリーなど、もう自分としてはドリームメンバーでした。ニューヨーク2日間、アトランタ2日間、LAはミックス含めて1週間というタイトなスケジュールだったので、その後、身体を壊しちゃったんですけど、このレコーディングがきっかけで、今度は彼らからオファーがくるようになったんです。ウィル・リーが日本に来る時も、『まずはYoichiに頼もう』とファーストコールをくれて」

 ── あらゆる意味で良いご縁を生んだアルバムだったんですね。

「ええ。いろんな意味で、我ながらもっと広く認知されてもいいアルバムだと思うんですが、ジャケットの装丁がわりと凝っていたとかいろんな事情があって、『再プレスはミニマム何千枚じゃなきゃ作れません』という状態になって、現状、残念なことに廃盤扱いではないけど売り切れ状態なんです」

 ── 続いては2003年の『ABSOLUTE TIMES』。こちらはデジタルサウンドも含めて、実験的な要素も多いアルバムという印象ですが。

「この『ABSOLUTE TIMES』までがビクター専属というスタンスでした。ビクター原盤時代のアルバムで自分がこだわっていたのは、必ずひとり、自分が憧れている人をゲストに迎えるという縛りだったんです。だから、ビクターの力もあって、デイヴィッド・サンボーン、マイケル・ブレッカー、ランディ・ブレッカー、マーカス・ミラーらと共演することが出来た。でも、9.11が起こった時、『ああ、何だか何かが終わってしまった』という気分になって。だから『ABSOLUTE TIMES』はゲストなしで、その頃に自分がやっていたプロジェクトの人たちだけで作った。曲ごとに全く編成が違ったりするんですが、ゲストどうこうではなく、ここで自分の音楽のパターンの総まとめをするつもりで作りました」

 ── そして2008年の『4BONE LINES 1』と『4BONE LINES 2』の2枚は、トロンボーン・カルテット“4BONE LINES”によるアルバムで、『1』はトロンボーンの可能性を追求するようなサウンドで、『2』は多彩なリズムアレンジを聴くことができます。

「この辺りからビクターとの契約が外れたこともあり、自分のなかでも縛りが無くなった。ずっとクラシックの人たちとアルバム作りたいと思っていたので、NHK交響楽団響や東京都交響楽団の仲間たちとトロンボーンのカルテットを作った。するとアルバムが出せるまでの出来になったので、当時の佼成出版からリリースさせてもらいました。やはりゲスト云々ではなく、その時点で形にすることの出来る自分の音楽の形を追求しようと作りました」

 ── さらに翌2009年には、『COMPOSITIONS』、『STANDARDS』と、“村田陽一オーケストラ”で2枚同時リリースをしました。ジャズもファンクもブルースもオーケストレーションも入って、言わば何でもアリアリの2枚でしたね。

「ここから自分で原盤権を持つようになりました。村田陽一オーケストラはビクター時代に活動していた“SOLID BRASS”と同じタイミングから活動していて、メンバーも割とダブっていたんですが、村田陽一オーケストラはギル・エヴァンスのマナーで演奏するというマニアックなコンセプトだったので、ビクターからは出させてもらえなかったんですよ(苦笑)。でも、せっかくこれだけやり続けてきたバンドでサウンドも熟しているんだから、『これは録らなきゃダメだ』と一念発起して、メンバーに『俺、自費で制作費を出すから、やろう』と頼んで2日間のみで集中してレコーディングしたら、ちょうどいい具合にカバーとオリジナルが半々の2枚分が録れちゃったという(笑)」

 ── 村田陽一オーケストラの動機というのは、やはりギル・エヴァンスマナーをちゃんとした人数で体現したいという思いからだったのですか?

「まさにそれでしたね。そもそもは新宿のピット・インで、ギル・エヴァンスの逝去(1988年)を受けてトリビュートをやりたいというところから始まって、サウンドが練られて変わっていくうちに、ピアニストが辞めたタイミングから僕がピアノも弾くというスタイルとなって現在に至っています。いまはトロンボーンよりもピアノがメインですね」

 ── ピアノはどこかで習われたんですか?

「独学です(苦笑)。ギル・エヴァンスのマナーって、合図が出たらBに行くはずがCに行くというコレクティブ・インプロビゼーションみたいな面白さがあるんですが、トロンボーンを吹きながらでは、メンバーに細かな指示ができないので。最初はトロンボーンのソリストとして目立ちたいという地点からスタートした自分が、それが“村田陽一のサウンド”と認知されてさえいれば、トロンボーンを吹くことに拘らなくなったんですね。その変化は、多分、自分なりにキャリアを重ねたことで、ちょっとは自分の音楽に自信が芽生えてきた表れだったんだと思います」

 ── そうして今年(2019年)にリイシューされた2010年の『Janeiro』を挟んで、2014年に『TAPESTRY』をリリースされています。このアルバムは、かなり内省的なサウンドと言いましょうか……。

「実はその頃、心身ともにかなり疲労していたんです。それもあって、自分の精神的なリハビリの為に、必ず毎日1曲書こうと決めたんですね。毎晩、お風呂上がりにとりあえずピアノの前に座って、思ったことを8小節でもいいから書いてみようと。実は『Janeiro』の収録曲はその中で生まれた曲だったんですよ」

 ── そうだったんですね。でも、するとどんどん曲が溜まっていくわけですよね?

「ええ。ダイアリーっぽい感じでね。2010年ぐらいがピークで、確か年間108曲書いた年もありました。数年間のトータルで300曲ぐらい。『TAPESTRY』も、その期間で生まれた曲をほぼ出来た順に並べたアルバムでした。内省的というのは本当に正解で、完全にひとりで作ったから暗いんですよ」

 ── でも、近年は心の平穏を取り戻されて、仕事も充実していらっしゃるように映ります。

「はい。まさか自分が庭いじりやコーヒーの焙煎をするような暮らしを迎えるとは(笑)。机に向かって譜面を書くことが増えたし、昔のように、プレイヤーとして1日に2つも3つもセッションを掛け持つような無理も、なるべくしないように心掛けています。気持ちのゆとりを大切にしています」

 ── 様々なレコーディングやライブでご活躍中ですが、いわゆるレギュラー的な近年の現場として挙げられるのは、椎名林檎さん、JUJUさん、福山雅治さん、渡辺貞夫さんなどの現場でしょうか。

「そうですね。あと、ここ1、2年で急に増えたのは、大人数の吹奏楽や、レコーディングを前提とする学生への指導です。いい刺激をもらう分、自分が教えられることは精一杯出し切るようにしています。ここ5年くらいは、椎名さんをはじめ、皆さんのお陰で本当に充実した時間を過ごさせてもらっています。とても感謝しています。でも、この恵まれた環境が当たり前だと勘違いしないように、毎回、『もし、これが最後でも悔いを残さないぞ』というぐらいの気持ちで、全力で取り組ませてもらっています」

 ── 先ほどの原盤権にかかるお話としてうかがいます。村田さんは現在、基本的にはアルバムの原盤権をご自身で所有し、配信も原則的には行わず、CDを一般的な流通経路やストアには卸さず、ご自身のWebサイトとライブ会場のみで販売されています。この意図についてお話しいただけますか?

「幾つかの理由があります。まず、ストリーミングを行わない理由は、単に僕の活動の規模だとそれほど得策じゃないという判断と、ストーリー性のある作品が多いので、ちゃんとアルバムとして練り上げて考えた曲順で、全曲を通しで聴いてほしいという思いからです。ただ、村田陽一オーケストラについては、今後ストリーミングにのせてもいいかなと思ってはいるんですが。ライブ会場で売るのは、単に自分たちの演奏を観てもらった上で、気に入ったら買っていただけるというシステムがとても健全だと感じられるからです。レコーディングならある程度は取り繕えても、ライブではそうはいかないですからね」

 ── 確かにそうですね。

「ビクター時代は世間も好景気だったので、音楽誌に広告を打ってもらい、素晴らしいキャスティングも組んでもらいました。それはとても感謝しています。ですが、やはり何十万枚と売れるアルバムではないので、何年か経つと入手が不可能になってしまう。自分に原盤権がないと、そのコントロールも叶わない。ビクターに限らず他のメーカーでも、例えば倒産でもしたら、やはりそこから出したアルバムは入手不可能になってしまいます。だったら、『このアルバムのコアなリスナー5,000人かな? いや3,000人かな?』とシビアにリサーチをして、自分で制作費を捻出して、原盤権を所有して、聴いてほしい方々に届けようと努力をすれば、やって出来ないことはないと分かったんです。どれもせっかく本気で作ったのならば、ちゃんとアーカイブにしていきたいですし、長いスタンスで届けていきたい。あと、たくさんCDを作って聴かれないのはショックじゃないですか。しかし、だからと言って売れ易い方向性を意識するつもりも全くないし、そうしなければならない理由も、自分なりの規模でやれていれば殊更に無いわけです」

 ── そうですよね。

「一方で、インディーズで発信するにあたっては、赤字であってはならないと僕は考えています。制作費も売り上げも、たとえ小規模でもビジネスとしてリクープが出来なければ難しくなっていきますからね。あと、これは僕のプライドなのですが、いろいろな物事を極力値切らず、ちゃんと筋を通す。『自費だからごめん』というのは、仕事自体の格を下げることになりますからね。そりゃメジャーな規模のギャラは無理ですが、それが大人数のビッグバンドでも、安いながらもギャラを捻出しています。権利関係も同じです。海外の曲って、驚くぐらい許諾料が高いんですよ(苦笑)」

 ── そのようですね(苦笑)。

「でも、それもきちんとクリアしています。現在はリスナーのかたからメールオーダーをいただき、代金の振込みを確認すると、必ず、『ありがとうございました。ぜひライヴにもお越しください』といった一筆を添えて、自分で発送をしています」

 ── 僕の元に届いた『Janeiro』も、まさにその一筆が添えられていました。多忙ななか、ご自身で発送までやられていると聞いて、ちょっと驚きました。

「そうすることで少なくとも1往復はリスナーの皆さんとやりとりが生まれる。これは僕にとってかけがえのない関係性なんです。『椎名林檎さんがきっかけでした』とか『息子がトロンボーンをやっています』とか『20年前からSOLID BRASSを聴いています』という情報も知ることができる。その情報は、何より自分のモチベーションに繋がるんです」

 ── では最後に、“村田陽一サウンド”を楽しむリスナーの皆さんに向けて、メッセージをいただけますか?

「今後もこうした形で作品を届けていこうと思っていますので、よろしければ聴いていただけたらうれしいです。そして、ぜひライブにもお越しください」

(了)

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