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『ドライブ・マイ・カー』 演じるという行為

 一部あらすじを含みます。映画を未鑑賞の方はご注意ください。

 9月最初の週末、最も近い地元の映画館で濱口隆介監督『ドライブ・マイ・カー』の上映期間終了が迫っていた。8月末から感染警戒レベルは5のままで,早く観たいと思いながら躊躇してきたけれど、もはや限界。感染対策を万全にして入館。映画館としては苦しい状況だと思うが,幸い観客は数人で密にはならずに済んだ。

 『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の同名短編小説が原作だが,収録されている短編集『女のいない男たち』(2014年初版)の『シェエラザード』『木野』など複数の短編のエピソードが,部分的に取り込まれて脚本化されている。カンヌで脚本賞を受賞した本だ。

 主人公の家福悠介(かふくゆうすけ)は舞台俳優。妻の心の闇と直接向き合うことを恐れた家福は、悔いを抱えたまま妻と死別する。激しい喪失感を抱いた家福は舞台で役を演じることが困難になる。数年後、広島で開催される演劇祭で、かつて自分が主役を演じていたチェーホフの『ワーニャ叔父さん』を舞台監督として上演することになった家福は,そのオーディションのため長年大切に乗り続けてきた愛車の赤いサーブ900で現地に向かう。契約で演劇祭開催中の運転を主催者側に止められ、代わりにドライバーの渡利みさきを紹介されるが、若い女性で無愛想なこのドライバーを家福はすぐには受け入れられない。しかし、その確かな運転技術と立場をわきまえて必要以上に相手の心に踏み込もうとしない彼女に対し、家福は次第に信頼感と安らぎを抱き始める。原作にはない新たな登場人物やエピソードが、物語を繋ぎ合わせて意外な展開へと導いて行く。それぞれの喪失感をありのままに受け入れた二人は、生きるための意志を獲得する。そして家福は再び俳優として舞台に立つ。上映時間3時間を超える大作である。


 物語の骨格を支えるのが『ワーニャ叔父さん』の舞台。現実の世界と平行して、主役を演じながら苦悩する家福の姿や、広島での本読みの様子など要所要所に挿入される。また、サーブの中で家福が繰り返し聴くのは、生前に妻がカセットテープに吹き込んだ脚本の台詞。家福の台詞の部分が空白となっており、死んだ妻の声を相手に台詞の練習ができるようになっている。テープの声はテキストの読み込みのため敢えて棒読みで録音されており、家福も感情を入れずに記憶している台詞を口にする。感情を抑制した二人の声は、愛し合いながらも互いに演技し隠し通した夫婦の心の闇を想像させる。また、ワーニャが苦悩する台詞は、そのまま家福の苦悩につながる。再び舞台に立った家福演じるワーニャに、唖者で韓国人の女優が韓国手話で語りかけるソーニャの台詞は、家福を立ち直らせる優しく力強いメッセージに聞こえる。

 原作では、カセットテープの朗読を繰り返し聞かされ興味を持ったみさきが、原作を読んで暗唱したソーニャの台詞を口にして「悲しい芝居ですね」と言う。家福は「救いのない話だ」と返す。結局人間にはどうしようもうない病のような側面があり、それは互いの理解を拒む。私たちはそれをそれとして受け止めるしかない。それでも私たちは生きていく。「そして僕らはみんな演技をする」というのが原作のラスト。一方、映画では家福の演じる舞台を観客席で見守るみさきが、ソーニャの語りかける「生きていきましょう」という言葉を静かに受け止め、生きる希望を見出す。演じられた台詞は救済と回復の物語を導くキーワードとして作用している。いずれにせよ、「台詞」と「演じるという行為」そのものが、生きることの意味を巡って登場人物たちの人生に深く絡んでいくように描かれている。


 コロナ禍の今ということもあるし、学校では夏休みが終わり2学期が始まるこのタイミング(10代の自殺者が増える特異点)というのもあって、どんな困難があったとしても「生きていきましょう」というソーニャの言葉は、この長い映画全体を貫くテーマとして強く響いてくる。一方で『ワーニャ叔父さん』のこの台詞をソーニャの遺言として捉える解釈もあるようなので、そんなに単純な理解は的外れだという気持ちも湧いてくる。原作者の村上春樹も死者となった妻の声と対話を続ける家福の、解決不能な困難を抱えたまま生きていくしかない姿を描いている。

 ならばなぜ、抑制された魂を持つ「みさき」が登場するのか。家福の死んだ娘が生きていれば丁度同じ年頃の彼女は、やはり「ソーニャ」的な配役を与えられていると考えるべきだろう。映画のラストで描かれるみさきとサーブ900はさまざまな解釈が可能だが、広島での出会いに導かれ、新天地で粘り強く生きるみさきの姿だと解釈したい。静かに、寡黙に、この映画は語り続ける。きっと「僕たちは大丈夫だ」と。

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