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集団で作るカレーが不味い

#社会人1年目の私へ  のタグ間違えじゃないかって?
「〇〇のキミへ送りたい」みたいなタイトルじゃない?
いいえ、あってます。これはどう考えても、社会人1年目の私へ伝えたい
文章です。

カレーが好きだ。
食欲を妙にそそるあの匂い、ご飯を掻き込む為に生まれてきたんじゃないかと常日頃思う。
ホテルのレストランだろうが、見知らぬの土地のボロい喫茶店だろうが、総じてカレーは裏切らない。
これはまさに料理の優等生だ。
しかし、なぜだろうか?集団で作るキャンプとか地域の集いで振る舞われるカレーは総じて不味いのである。これは集団カレー理論として、定義できるんじゃないかと心から思うのだ。

集団の何がこんなにカレーを不味くするのか?

先にも書いた通り、元々カレーは料理の優等生のはずである。上手くは無くてもルールさえ守っていれば、食べられないことはない。
実際、散々不味い不味いと書いてきたけれど、集団カレーも全く食べられないことはそうそう無い。しかし、それでも残念な感じなのである。
三人寄れば文殊の知恵は嘘か真か、何故たろうか?

集団心理が生む負の連鎖

そもそも、集団とは個人の意識が働きにくい、もしくは、ある特定の人の意識が加速する傾向にあると思う。特に集団を先行する者の意識が特に働きやすい。
最近はめっきり見なくなったけれど、暴走族なんかはそうなのかもしれない。
「今日はどこどこの国道走って〜」
「はーい」
ぶおーん、ぱへらぱへらみたいな。

まぁ、ここまで書いといて何ですけど、会社なんかがそうですよね。
でも、カレーを作る集団が暴走族とか会社の様な仕組みなら、あの代物は出来ないと思うんですよね。
多分、上の料理作る奴が出てきて
「ゴォオラ!人参は300gやろが、ボォケ!」
とか、
「玉ねぎもっと炒めろや、シャリシャリさせんな、死ね」
みたいなやり取りで、そこそこ美味いのが出来て、
たまたま、来てた怖い人が目をつけて、カレー屋をオープンさせて、気づけば、
「カレーも暴走も一緒だ」とか言ってるかもしれない。
まぁ、そんなことはないだろうけれど、不味いカレーを作る集団はそういうリーダーが居ないことがわかる。

カレーを作るリーダー無き集団

そもそも、何故集団で作る料理がカレーなのだろうか?唐揚げでも、バーニャカウダでも良いはず。
しかし、どうだろうか。集団で鶏の唐揚げを作るには多岐に渡る選択肢を決定しなければならない。
肉はもも肉なのかムネ肉なのか、それとも手羽先か
衣は片栗粉か小麦粉か、卵入れる?
などなど、選択肢が多すぎるのである。
結果、片栗粉派と小麦粉派が両者譲らず、町は2分化して、
「山田さん家は片栗粉派だから遊んじゃだめ」
「田中家は小麦粉派だから。不憫」
といった争いが生まれる。
そのうち、武闘片栗粉派が生まれ、たまたま会合で衣をつけてた奥さんが実はコーンスターチ派だった事が発覚し、リンチが起こり、
あの時の唐揚げの肉は実は・・・という事件が発生しかねない。
だから、唐揚げではダメなのだと思う。ってか、武闘片栗粉派がカレー作ったら美味いんじゃないか?そんな気がしてきた。

カレーという共通認識

そういう意味ではカレーは万能だ。ルーの好みという問題はあるにしても、辛さという障害がある。辛すぎるものは苦手という人も多いのだ。
結果、みんなが辛すぎるものは苦手という人に忖度して、当たり障りの無いルーを選ぶので、自然と選択肢が決まってくるのである。更に、カレーの具を知らない人は少ない。大体が「玉ねぎ、人参、じゃかいも、肉」と答えるだろうし、それ以外のアレンジは取り敢えず予算の都合もあり、自然淘汰される。必然とカレーの材料は決まってくるのだ。作り方の手順も大雑把に言えば、大体一緒。なんだ、カレーって優秀じゃないか。
じゃあ、何であんなに不味いんだ。料理できないのか。だんだん腹が立ってきた。

強力過ぎる共通認識が仇となる

先にも書いたとおり、カレーにはほぼ万人といっても良いほど、材料と作り方の共通認識がある。地区の集まりでインドカレーを作ってナンを焼くことはしないだろうし、取り敢えず共通認識の範囲で無難に作っとけとなる。
材料・作り方を全員が理解していることは、意識の低い集団にとって非常に都合が良い。リーダーを立てる必要がないからだ。

リーダー無き集団は責任を意識的に薄くし、
行動が受動的になるが、無言の圧力がある。

カレーの作り方の共有認識には
「具材いためて、水入れて、灰汁とって、ルー入れる」みたいなものがある。しかし、美味いカレーを作るのあたって重要なのは、各工程の詳細のなのだ。玉ねぎは親の仇かと思うくらい炒めたほうが良いし、灰汁とりもしっかりやったほうがいい。
しかし、共通認識はそれをすっとばすのだ。中には個人レベルで玉ねぎはしっかり炒めたほうがと思う奥さんもいるかもしれない。でもそれは、
「めんどくせーしサッサと作ろうぜ」みたいな圧力にかき消される。
具材の量や水の量だって同じ、律儀に守ろうとする奥さんは、だいだい、テキトー目分量で作る奥さんの圧力に屈してしまうのだ。

結果、シャバシャバで水っぽくて、味もしないくせに、
具材だけはそのまま残っている不味いカレーが完成するのである。
作る方は責任持って全部食え、食わされる身になってみろと声を高らかに
叫びたい。

これ以上、不味いカレーの悲劇を産まないために

結局、意識の低い集団が行動を起こすとロクなことがない。
それはカレーに限ったことではないはずだ。
そこまで、カレーをみんなで食べたいのであれば、レトルトカレーを
温めて食べたほうが100倍良い。きっとそう思ってる人も絶対居る。
そもそも、集団でカレーなんか作りたくない。でも言えない。
みんなみんな、生きているのだ。忖度して生きているのだ。
そんなことを過去の社会人1年目の私に伝えたい。


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