景色のコトダマ V0l.1 見えなかった桜

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【色を失った公園】

家から歩いて5分のところに、大きな公園があります。敷地の半分は小高い丘で、子どもたちが勢いよく駆け下りたりしています。私にとっては一番身近な「季節を感じる場所」。駅に行くには遠回りになるけれど、この公園に吹く風を感じながら通勤しています。

10年前はもっと賑やかな公園でした。桜の季節は、バーベQを楽しむ人であふれてました。大人が酒盛りする横で、子どもたちがバドミントンを興じる。平和で牧歌的な日本の春がそこにはありました。

しかし、そのバーベQが、公園に隣接する人たちからのクレームで禁止になりました。ほどなくして、座り込んでの花見も禁止に。それでも美しい桜を眺めに大勢の人が、公園に訪れます。私もその一人です。

忘れもしません。ある冬の日、といっても節分を過ぎた頃です。桜木が開花の準備を進めているすんでのところで、すべての木が、幹から切り倒されたのです。「桜が咲くと、人が騒いでうるさい」「桜につく毛虫が迷惑だ」そういう声が執拗に区役所に届く。随分もめたようですが、あと少しで開花を迎える木を、「決められた期日」までに切り落としてしまったのです。私は、無常にも切り落とされた白くて柔らかな年輪をじっとみました。「痛いよう。ひどいよう」という声が聞こえるようでした。こんなことを平気でする人たちの神経を疑い、怒りが毛穴から吹き上げました。

その日以来、公園は色を失いました。吹く風はただの風になり、景色の匂いを運ぶのをやめたのです。

【見えない桜が見えた日】

コロナ・ウィルスの自粛要請がでて、ほぼ一週間。出歩く機会は、生活のための買い物に限られました。独り身の私は、大して買うものもない。しかし気持ちが塞ぐ一方なので、駅前のスーパーまでは歩くようにしています。

今月末で、36年勤めた会社を定年退職する。思い出の職場にも行けず、お世話になった方にお礼もできない。次の仕事の準備もできない。心がどんどん重くなります。それがイヤさに、少し遠くまで、ゆっくりと、空を眺め、新緑を、咲き始めた花を眺めて歩きます。帰り道には、この公園に必ず寄る。自粛疲れの子どもたちが、遊ぶ姿を眺めていると、少し心が軽くなります。

と、桜を見た。無残に切り落とされた桜に目が行きました。

「え?花が咲いている・・・」

チェーンソーで切られた桜。命の危機にさらされた桜は、そこから小さ芽をだし、葉を育んで、再び花を咲かせていました。その頃の大木に比べればかわいらしいものだけれど、それでも桜木。いのちの花びらが舞っています。

「どうして気がつかなかったのだろう」

それは簡単な話。私は長い時間、「この木は切られてしまったもの」と思い込み、観察を怠っていたのです。決めつけていたために景色が見えなくなっていた。脳がつくった景色の中で生きていたのです。

「見えなかった桜が、見えた」

そのきっかけは、コロナ・ウィルスでした。目に見えないウィルスが私の生活に思いっきりブレーキをかけた。活動のすべてを止め、思い出も未来への夢も、何もかも、一切合切、「待て!」と言ってきた。しかし、そのおかげで私は、この桜に気づいたのです。日々の生活で見えなかったものを、見ることができたのです。

4月22日で還暦を迎える。その前に、これまでの人生を振り返れ。内省し、深く考え、しっかりと計画をたてよ。そうすれば、見えなかった花が見えてくる。

もしかするとコロナ・ウィルスは、私にこう呼びかけているのかもしれません。見えなかった桜が、それを私に語りかけてくれたのです。

まだまだウィルスとの戦いは続きます。しかし、切り落とされたように見える未来は、必ず息を吹き返し、景色は色を取り戻す。

それを信じて、私はしばらく内省を続けます。