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「助けて」と言えることは尊い。

「私、子育てが本当にしんどかったときに、誰かに相談することってなかったんだよね。でも『しんどい』って誰かに言えたら楽だったかも」

何年か前、友達から突然そう言われて驚いたことがある。

専業主婦だった彼女は、子育てを楽しんでいて悩みはないように見えた。だけど実際には「死にたい」と思うほど、つらい時期があったという。

誰かに相談したりするのは弱さを見せることで、他人に頼ることは恥ずかしいこと。

そう感じてしまっている人が少なくない。それが「しんどい」とか「助けて」と言うことを阻んでしまっている。

思えば、僕も「弱さを見せないように」と思って生きてきた。弱音を吐かず、なるべく誰かを頼らないように、とも思っていた。

誰かに相談するという発想がなかったし、しんどいときに「しんどい」と言わなかった。言えば助けてくれる人はいただろうけど、言えなかった。

だけど、1年ほど前からあるNPOの活動に関わるようになり、「助けて」と言えることの尊さをはじめて知った。

同時に、一介の主夫に過ぎない「ふつう」の自分でも、できることがあると知れた。

誰かに相談をしてみる。「助けて」と言ってみる。

それらは本来「ふつう」のことのはずだった。なのに「ふつうじゃない」と多くの人が思う世の中になってしまった。

だからこそ、誰かに頼ることをいかに「ふつう」にしていくか、していけるのかが今の社会に問われているのだと思う。

前出の友達はこうも言っていた。その言葉に、僕は親としてヒントをもらっている。

「私は相談できずにしんどい思いをしたから、最近子どもには『何かあったらお母さんとか先生とか、周りの大人に相談してね』と言うようにしている。そして私もよく誰かに相談しているんだよね。だって私が周りの人に頼る姿を見ていたら、子どもも他人に相談するのが『ふつう』と感じてくれるようになるでしょう?」

ふつうじゃないことが「ふつう」になっている

2022年3月。

毎年この時期に発表される前年の自殺者数、つまり2021年の日本国内の自殺者数(確定値)は「2万1007人」だった。11年ぶりに増加に転じた2020年からは74人減ったという。

このニュースを見るたびに、いつも思い出す言葉がある。以前取材した自殺対策に取り組む団体の人の話だ。

「当たり前ですが、自殺者数が『減る』ということはないんです。ある年の自殺者数が前年よりも減少したとしても、実際には何万人もの人が新たに亡くなっているわけですから。1年間で2万人もの人が自死に追い込まれるこの異常事態を、私たち一人ひとりがどれだけ『異常事態』として捉えられるかなんです」

例年ニュースとして報道される「年間の自殺者数」でフォーカスされるのは、前年と比べてどれだけ増減したか。この10年は減少傾向にあったのが、コロナを機に潮目が変わった。

ただ本来、自殺者数に関するニュースの肝は、たった1年で2万以上もの人が自ら命を絶っているという事実そのもののはずだ、とその人は言っていた。

たしかに、それは「衝撃的なこと」のはずだ。にもかかわらず、その数字にもはや誰も驚かない。

1日に平均したとして約60人、単純計算すれば30分に1人が自ら命を絶っている。コロナによる死者数より自殺者数のほうが圧倒的に多い。

日本という社会では、自殺者数が2万にも上ることが「ふつう」になってしまっている。慣れてしまって何とも思わなくなってしまった。

自殺の多くは「追い込まれた末の死」だ。

毎年発表される数字は、「もう生きられない」「死ぬしかない」という状況に至るまで苦しみ、追い込まれ、自ら死を選んだ人の数を意味する。

さらにこの数字の背景には、実際の自殺者数の何倍もの「自殺未遂」があり、その何十倍もの人が「死にたい」という感じていることが推測できる。

自分の周囲にいる誰かしらがそうした状況にあるかもしれない、ということだ。

「異常事態」に慣れてしまっているのは自殺問題に限らない。

極寒の中、路上で寝起きする人がいることが「異常」ではなく、もはや「日常風景」になってしまっている。

耐え難い寒さの中で自分が寝起きする姿を想像すれば、同じ人間として「ふつう」じゃないはずだし、他人であっても「ふつう」だと思ってはいけないことがわかる。

僕自身、こうした現状をどこか「ふつう」と捉えていた。

ただこの1年、NPOに関わりながら自殺問題について学び、またはじめて異国の地で暮らすことで、それらを「ふつう」だと無自覚に受け止めちゃいけないと、強く感じるようになった。

「助けて」と言えることは尊い

「オレは何があっても、死んでも生活保護には頼らない」

以前取材した路上生活者の中には、そう言った人が一人でなく何人もいた。

何らかの事情で生活が行き詰まってしまったとき、日本には生活保護を利用するという選択肢が誰にでもある。

ところが、「生活保護なんて」と頑なに拒絶する人が少なくない。誰にも相談しないし、したくないという人もいる。

なぜかと問えば「国や人様に迷惑をかけたくないから」とか「男としてのプライド」などの答えが返ってくる。

それらは、生活保護に対する偏見やいびつなイメージが先行した発言で、聞きながらいたたまれなくなった。

背景には「男は男らしくあれ」とか「母は強くあれ」といった古びた価値観がいまだに社会に粘着していること、それらが「人に頼るのは恥ずかしいこと」といったスティグマとして社会に底通していることが大きい。

社会にこびりついたそのスティグマは、個人が抱える苦しみや悩みをさらに重層化させ、多様な問題への連鎖を招いて問題を肥大化させていく。

最近読んだ『望まない孤独』という本には、こんな一節があった。

ワンオペ育児や孤育てをしている親から、「子どもを虐待してしまいそう」という相談は毎日のように寄せられる。虐待や暴力を受けている子どもからの相談もひっきりなしに寄せられる。虐待を受けながらも、先生はおろか、家族にも話せないという子どもが大勢いて、日常生活の中で誰にも頼ることができず、ひとりで孤独な環境に耐えている。被虐待児が望まない孤独を抱えて誰にも頼れなかった結果として虐待死などに追い込まれたとき、孤独によってまた新たな社会的課題が発生してしまう。さらに、児童虐待で亡くなる子どもの多くは0歳児だが、これにも母親が望まない妊娠などで誰にも相談できない孤独を抱えていたケースが多々ある。このように、望まない孤独は連鎖的に社会的課題を生み続けてしまっている。

誰にも頼れないと感じることで、自ら命を絶とうとしたり、あるいはその鬱憤の矛先が他人に向いてしまうこともある。

不安やつらさを紛らわそうと、SNSをはじめとするネット上で他人に誹謗中傷を繰り返すこともそうだ。

誹謗中傷は深刻な被害を生むし、間違いなく対応が必要だ。

とはいえ、加害行為をした人を単に「ヤバい人」などと社会から排除すれば、排除された側の問題はさらに深まっていく。

誹謗中傷の加害者を厳しく取り締まることと、その人を悪魔化して社会から排除するのが同義になってはいけないし、暴力的かつ攻撃的な言動をしてしまう人たちこそ支援を必要としていることは少なくない。

そう思うのは、過去に事件の加害者となった人たちに取材する機会が何度もあったからだ。そのたびに、事件や事故を防ぐためには、そうした人たちが「助けて」と言えて、それに応答する環境づくりの重要性を実感してきた。

誰であろうと「排除」するのではなく、「支援」や「包摂」をしながら社会をつくっていかなければ、それぞれの社会問題は拡散していってしまう。

誰かに相談をしてみる。「助けて」と言ってみる。

「たったそれだけ」で、たとえひとまずでも死を選ばない命がある。

だからこそ「助けて」と言えることは尊いのだと思う。

「ふつう」の人でもできること

「死にたい」と感じる人の多くが、自分に対して、こうでなければ価値がない、消えてもいい、死んだほうがいい、などと感じている。

そう感じている人が決して少なくないことを考えると、「そう感じさせてしまう社会」とは一体何なのだろう、と思う。

とはいえ一方で「何か自分にもできることがあれば」と思っている人が多くいる。

そう思いながら、僕も長らく一歩を踏み出せなかった一人だ。

これまでしてきたメディアなどの仕事を通じて社会問題に関する発信をしてきたけど、「伝える」以上のことができず、そこに限界も感じてきた。

また仕事としては幅広く社会問題を取材などしていたがゆえに、一つの領域についてより深く継続的に関わることが難しかった。

せめて少しでも実態を知れればと、仕事後に路上生活者に声かけを行う夜回りに参加していたけど、コロナになり、また家族の都合で海外に移り住むことになった。

それでも、自分のような「ふつう」の人でも「できること」は思いの外あり、少しでも誰かの何かの参考になればなと思い、以下にあげてみる。

■問題をより深く知る

あらゆる物事はまず「知る」ことから始まる。

自殺を取り巻く問題についてより深く知るために本を1冊だけあげるのならば、これを推したい。

このnoteを書いたのも、この本を読んで触発されたからだ。2022年3月に発売されたこの本には、日本社会が抱える幅広い社会問題を考える上でのヒントが数多く詰まっている。

「望まない孤独」が多くの社会問題といかに連関しているか、どうすれば問題を解消できるかの道筋が示されていて、多くの学びを得られた。

また以下のサイトでは、「死にたい」と感じたことのある当事者のリアルな声を知ることができる。

死にたいほどつらい気持ちを抱えながらも死ぬ以外の道を選び、いまを生きている人たちの物語は、誰にとっても「死にたい」と思うことが決して遠いものではないと教えてくれる。

ただ「知る」ことについてあえて言うのなら、社会問題についてより深く知ることは勇気を試されることでもある。なぜなら、知った以上は「どうするか」が問われるからだ。

「どうするか」のアクションの仕方はもちろん人それぞれだけど、自分に過度な負担がかからないことを前提にしつつ、「何ができるか」を少しでも考えてみてもらえたらなと思う。

■身近な人の違和感に気づく

身近な人が思い悩んでいるとき、「そっとしといてあげよう」と思うか、「どうしたんだろう、と聞いてみようかな」と思うか。

どちらもやさしさだし、関係性や距離感などにもよるのだろうけど、一つの事実として「周囲の身近な人」が果たせる役割は意外と大きい。

身近な人に何か違和感を覚えたとしたら、もしかすると苦しさを抱えているサインかもしれない。その人はたった一人で苦しみに耐え続けているのかもしれない。

それに気づけたら、心配する気持ちを伝え、話を聞かせてもらえないかと聞いてみるといいかもしれない。あるいは、以下のようなサイトを紹介することも一つだ。

いくつかの質問に答えることで、状況に合った支援制度や窓口をチャットボットで探すことができるサイトもある。

「死にたい」という気持ちが高まった状態では、専門機関に頼るより、まず身近にいる周囲の人たちに何らかのサインを発することが多い。

そのサインを見逃さず、拾って声をかけられるかどうかは周囲にいる身近な人たちにかかっている。

■身近な人の相談に乗る

違和感に気づくことができて、実際に相談に乗るとしたら、具体的にどうすればいいのか。

重要なのは、傾聴だ。

傾聴とは、相手の気持ちに寄り添いながら話を聴くこと。傾聴はコツを押さえれば誰にでもできる。それは誰でも「支え手」になることができることを意味する。

今すぐに相談されることがないとしても、傾聴について学んでおくことは、今後誰かに相談されたときの備えになるかもしれない。

傾聴についてはいくつかの本を読むのが理想だけど、僕が勉強した内容を以下にまとめているから、少しでも参考になれば(傾聴は仕事にも生かせる「スキル」でもある)。

また傾聴を重ねても、自分だけで解決するのが難しいケースも多い。その場合は、精神科や心療内科、行政などの必要な支援につなぐことも必要だ。

ちなみに、身近な人の相談に乗るとき、自殺という言葉に触れることはタブー視されがちだけど、それは誤解でもある。

「悩みを抱えている人に自殺とか死という言葉を出すことで、潜在的な自殺願望をあおってしまうことになりかねないんじゃないか」

以前、僕もそう思っていた。だけど、いまや多くの研究で自殺についてはむしろオープンに話すことが、煽るどころか抑止効果があるとされている。

文部科学省が作成した「子供に伝えたい自殺予防(学校における自殺予防教育導入の手引)」(2014年)でも、自殺予防教育の授業を行う前にアンケートを実施して「死にたいと思った」「友だちに死にたいと言われた」経験の有無を尋ねておくことが推奨されている。

■ボランティアやプロボノをする

相談窓口事業を行う組織にボランティアやプロボノで関わることも一つかもしれない。

たとえば、以下のような団体がボランティアを募集していて、自宅などにいながらオンラインで完結するボランティア形態も台頭している。

匿名・無料で24時間相談できるチャット相談窓口を運営するNPO法人あなたのいばしょ

18歳までの子どものための相談窓口を運営する特定非営利活動法人チャイルドライン支援センター

ボランティアをする動機が「自利(自分のため)」でも「利他(他者のため)」でもどちらにせよ、多くの場合は自分にも他人にも利するし、やってみて僕は自分の世界や視野を広げるきっかけにもなっている。

また最近はじめて知ったのは自殺対策に関わりたい人員をなかなか確保できない、という課題だ。募集をかけても必要な人員が集まらないのだという。

ただこのnoteを読んでみると、これまで自殺問題に取り組む機会のなかった人でもスキル次第では大きな需要があることがわかる。

■少額でも寄付をして支援する

NPOなどが運営する相談窓口は寄付によって成り立っているケースも多く、寄付することでその一助になることもできる。

たとえば以下のような組織だ。

匿名・無料で24時間相談できるチャット相談窓口を運営するNPO法人あなたのいばしょ

自殺総合対策・自死遺族ケアの推進などを行うNPO法人自殺対策支援センター ライフリンク

寄付は「応援」をかたちにしたものだ。たとえ少額の寄付でも「何もしない」よりはるかにいいし、個々人は少額であっても広く多く集まれば大きな額になっていく。

個人的な経験として、寄付をすることは「お金の価値」について改めて考えるきっかけにもなる。

「でも、そもそも寄付ってどうなの?」と思う人には、以下の記事をぜひ読んでみてほしい。

■自分のつらさを誰かに相談してみる

「ふつう」の人でも、つらさや苦しさを感じることはままある。

そんなとき、一人で抱え込まずに誰かに相談してみるのも「できること」の一つだ。

「いや、でも自分なら自分でなんとかできる」「まだ大丈夫だから」

多くの人が、そして僕もそう思っていた。でも、誰かに頼ることはまったく恥ずかしいことじゃない。

躊躇してメンタルを崩壊させるほうが危険だ。一度メンタルが壊れてしまうと回復までに時間がかかることが多いと聞く。

たとえば、チャット相談の窓口なら、悩みを文字として書き出すことで自分が抱えているつらさを客観的に理解することができる。

相談してみることで気づけることは多くあるし、何より気持ちが楽になったりもする。

相談窓口の選択肢は多数ある。どんなに些細に感じることでも「相談すること」は選択肢として考えてもらえたらと思う。

2023年3月に向けて

数年前、子どもを自殺で亡くした遺族の方々に取材する仕事をしていた時期がある。

「今も毎日が地獄です」

残されたある遺族は、数年経ってからもそう表現する現実を生きていた。その言葉が今も頭から離れない。

「死にたい」という気持ちになるほど追い込まれ、死を選んでしまう人が2万人以上いる社会。その何倍もの人が「死にたい」と感じて苦しんでいる社会。

子どもでも大人でも、誰かが、それも決して少なくない人たちが苦しむそんな社会は、どう考えても「ふつう」であるはずがない。

自殺という問題は、個人ではなく社会の問題だ。だからこそ、社会をつくる一人ひとりにも「何ができるか」が問われているのだと思う。

3月は「自殺対策強化月間」でもある。

例年3月は月別自殺者数が最も多いという。今この瞬間に自殺を考えている人が一定数いるのだろうし、そうした人たちに何かできないかと思っている人も少なくないはずだと想像する。

一年後の2023年の3月にはまた、2022年の自殺者数が公表される。いまこの瞬間から、その数を一人でも減らすことはできなくはないし、それができるのは「ふつう」の人たちでもあるのだと思う。

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