何気ない日常と、地続きにあるもの。
最近読んだ『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』という本の中に、こんな一節があった。この本が出版された2010年当時、日本国内の自殺者は3万人に上っていた。
それが10年以上の歳月をかけて少しずつ年間自殺者数は減少傾向になり、この数年は2万人台前半を推移、2022年は2万1881人だった。
自殺の多くが「追い込まれた末の死」であり、個人の問題ではなく社会の問題だという認識は、ここ数年でそれなりに理解が進んだ。
日本社会で「生きづらさ」を抱えている人が多くいることも、以前よりはるかに広く知られるようになった。社会は、本当に少しずつではあっても前進しているな、と思える要素はいくつもある。
一方で、たとえば10年前と比べて、本のタイトルにある「生き心地の良い社会」になっているかといえば、それはわからないなと感じる。
「生きづらさ」を抱えた人が多くいることは知られても、社会状況が以前よりもマシになったとしても、個々人の「生きやすさ」に直結するわけではない。
「生き心地の良い社会」という言葉を正面から捉えようとするほど、それを実現するのはとてつもなく難しいことなのだろうなと想像してしまう。
とはいえ、難しいと言っているだけでは何も変わらない。実際に多くの人が20年近くにもわたってこの自殺問題に取り組んだことで、自殺者数は減少傾向にある。
自殺者数は社会状況に合わせて自然に減少していったわけではない。自殺対策をしてこなければ、減ることはなかったかもしれない。実際に自殺対策をせず自殺者が増えている国は、世界に少なくない。
WHO(世界保健機関)が「自殺はその多くが防ぐことのできる社会的な問題である」と言明しているとおり、自殺は「防ぐことができる死」というのが世界の共通認識だ。
だから日本の自殺問題にしても、どうにかできる余地はまだまだある。
それは個人にも言えることで、僕自身、いまは家族の事情でアフリカのセネガルで暮らしているけど、この2年半は専業主夫のかたわらで自殺問題に取り組むNPOにボランティアとして携わってきた。
活動を始めた当初は、無力さを痛感してばかりだった。でも2年と6ヶ月、一週も欠かすことなく経験を積み重ねていくことで、「微力であっても無力ではない」と思えるようになった。
活動の詳細は書けないけど、1年前にこのnoteを書いたとおり、「助けて」と言うこと、言ってもらうことで救われる命は確実にあると、身をもって感じることができた。
そして、自殺対策に関わるようになっていろいろと学ぶ中で得たのは、自殺対策が「自殺を防止する」だけでなく、「生きる支援をする」という視点だ。
「死にたい」という言葉が発せられる背景には、「もう生きられない」と感じることの蓄積がある。
自殺は「死ぬ権利の行使」と捉えられることもあるけど、「生きる権利を行使できなかった結果」と捉えるほうが実態に近いと感じる。
だからこそ、自殺対策とは「生き心地の良い社会」をつくっていくことなのだと理解することができた。
今もまだ年間2万人以上もの人が、日本社会の生きにくさに見切りをつけて死に追い込まれている。自殺未遂も含めればその何倍、何十倍もの人が「死にたい」と感じている境遇にある。
そして、そんな現実は自分たちの何気ない日常と地続きにある。
『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』にそう書かれているように、僕も仲の良かった友人に「まさか」が起きた経験がある。それが起きて10年近く経っても、いまだに「まさか」という気持ちは拭えない。
「まさか」は誰にでも起こりうるし、もしかしたら自分にも起こりうる。
何気ない日常と、自殺という問題は地続きにある。ただ一方では、苦しみを抱えながらも生きる道を選び取る人が、自殺をする人以上にいる。それもまた、何気ない日常と地続きにある現実だ。
「つらいけど、自分は自分でなんとかできる」「苦しいけど、まだ大丈夫」「死にたいけど、誰にも相談したくない」――。
そう思っていたとしても、「助けて」と声をあげてみる、誰かに頼ってみることで、抱えている悩みや不安に光が差し込むことがある。
身近な人や以下のような窓口に相談することで、「気持ちが楽になった」という人を数えきれないほど見てきた。だからそう遠くない将来、「人に頼ること」がもっと当たり前の世の中になっていてほしいなと思っている。
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