子どもの「なんで?」に、親はどう答えるか。

この数ヶ月、4歳の上の子からはすべてのことに「なんで?」、2歳の下の子からはあらゆるものに「これなに?」と聞かれる毎日を送っている。

「ねえ、なんでライオンはにくしょくどうぶつなの?」「なんでさかなはフランスごで『ポワソン』てゆうの?」「なんで4がつは30にちまでなの?」

「これなに?」はまだいいとして、「なんで?」の波状攻撃を一日中受け、それにまともに答えようとするほど、「もう勘弁してくれ〜」という感じになってくる。

『子どもは40000回質問する』という本によれば、子どもは2〜5歳までの間に40000回(!)の質問をするらしい。

質問を受ける側の親からすれば途方もない数だ。本には、こんなことも書かれていた。

子どもにとって質問をすることは散発的な行動ではありません。質問することは子どもであることの最大の証と言ってもいいくらい本質的な行動なのです。

「質問することは子どもであることの最大の証と言ってもいいくらい本質的な行動」であるにもかかわらず、子どもは次第に問うことをしなくなっていく。

延々と続く圧倒的な問いの数々に対し、それに答えるはずの大人がうんざりして疲れ果ててしまうからだという。

たしかに、親や先生などは「覚えたことを答えること」はほめる一方、「質問すること」をほめることはほとんどない。

でも、質問をすることが子どもにとっての「本質的な行動」ならば、子どもの問いにもっと着目してみてもいいのかもしれない。

そんなことを思っていたら、いくつかの発見があった。

「ねえ、なんであの子は裸足で歩いてるの?」

少し前、靴を履かず裸足で歩いている子どもを見ながら、4歳の上の子にそう聞かれた。

2021年に引っ越してきたアフリカ最西端にあるセネガルには、子どもにとって自分とは違う境遇にある子どもを見かけることが少なくない。

着ている服がボロボロだったり、体が痩せ細ってしまっていたり、道で寝ていたり、物乞いをしていたり。

自分と同じくらいの年齢の子どもが、自分とはまったく違う境遇にいる光景を、少しずつ不思議に思うようになってきたらしい。

それが「質問」というかたちで日々表出することが増えた。

セネガルに来て半年が経つけど、僕もまだ目の前の現実を咀嚼できていないことが多い。

だから正確に答えられるわけじゃなければ、答えらしい答えをそのまま言うのが正しいことかもわからない。

少なくとも言えるのは、子どもの問いに着目してみたら、親である自分が「何をどう答えるのか」を否が応でも意識するようになった。

「ねえ、なんであの子は裸足で歩いてるの?」という子どもの問いに、僕はうまく答えられなかった。

「うーん、わからないけど、セネガルには靴を買えない子どもがいて、靴を買えるのは当たり前じゃないんだよ。だけどね、靴を買えないからといって、それはかわいそうというわけじゃないんだよ」

そもそも4歳の子どもが貧富の差を実感すること、それをどこまで理解できるのか、あるいは今の段階で理解することの意味が僕にはまだとらえきれていない。だから、なんとも曖昧な答えになってしまう。

「でもさあ、靴が買えないのはかわいそうでしょう?」

「うーん、そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよ。だってさ、かわいそうかどうかは他の人が勝手に決めることじゃないんだよ。自分がどう思うかだから」

「なんで?」

「だって、楽しいとか悲しいとか他の人が勝手に決めたら嫌でしょう?」

そんなふうに答えたものの、理解も納得もしてなさそうなまま、別の話に変わってしまった。

自分にとってはあるはずのモノかもしれないけど、それがないからといって不便とは限らない。不幸というわけでもないかもしれない。少なくとも他人が何かを断定することはできない。

もちろん想像する、想像しようとすることは大事だし、想像できないことにも思いを馳せられる子どもになってほしいなと、親としては思う。

でも、そう伝えたところで、今はまだわからないだろうなとも思う。

それでも、子どもが知識を増やしていく過程で、また子どもの無限の想像力が育まれていく上で、親の役割はきっと大きい。

子どもの問いに親がどう答えるのか、何を答えるかは、子どもの「好奇心」にも大きな影響を及ぼすからだ。

『子どもは40000回質問する』では、好奇心を「情報の空白に対する反応」と表現している。

人は知りたいことと、すでに知っていることの間に空白があると知ることで好奇心を持つ。

ある情報についての無知を自覚させられることで、さらに知りたいという好奇心が発動される。そして、好奇心に限界がないように、この情報の空白は質問することによってどんどん顕在化していく。

ここで重要なのが、情報が存在していないときに好奇心が生まれるのでなく、すでにある情報についての「空白」がカギになるということだ。

好奇心は「何も知らないこと」に対して湧き起こるもののように思われやすい。だけど、実際は「少し知っていること」に好奇心は反応する。

子どもにとっての「問い」も一見自然に生まれるものだと考えられがちだけれど、実際にはそうではない。

「何も知らないこと」ではなく「少し知っていること」に好奇心は発動する。

だからこそ、子どもの好奇心を育む上で必要なのは実は知識である、というのが本の主張だ。

つまり、好奇心が知識を身につける原動力になるというより、知識が好奇心を育む原動力になる。

そんな子どもが身につける知識、そのための「知る機会」をどうつくるかは、間違いなく親ができることの一つだ。

子どもは子どもなりに今ある知識を駆使しながら大人に質問し、その答えからまた新しい知識を獲得していく。

子どもにとって「認識しているけど、よく知らないこと」は好奇心の対象になりやすい。

だけど、よく知らないがゆえに、そこに「好奇」という言葉にはそぐわない現実があることも少なくない。

時に、それが無邪気に歪んだかたちで暴走してしまうことがある。

そう考えさせられたのが、以前に読んで強く印象に残っているこの記事だ。

ホームレスが生きる現実の“理不尽な過酷さ”を伝えるこの記事で、「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」の代表を務める北村年子さんはこう話している。

「お父さんも、お母さんも、学校の先生たちもホームレスを攻撃しろなんて教えていないと思う。でも、近づいてはダメよ、危ないから見ちゃいけない、と手を引っ張られた経験がある子どもは少なくない。そうした無関心の延長線上にある偏見や差別意識が、子どもたちの襲撃の背景にあります」

日本では、子どもによるホームレスへの襲撃事件が後を絶たないという。

その背景にあるのが、社会としての無関心、そしてその延長線上にある偏見や差別意識ではないか、と北村さんは問うている。

無関心に悪意はない。でも現実には、無関心が図らずも悪意に接続されてしまうことがある。

2人の子どもの親として、無自覚にでも偏見や差別意識を潜在的に植え付けるようなことをしていないか。

この記事を読んだことは、そう自問する機会にもなった。

また、これらのことはホームレスの問題に限らず、ジェンダーや生活保護、人種問題など、あらゆる社会問題に言えることでもある。

子どもの好奇心を育むことに、親は何かと意識を傾けがちだ。

一方で、親自身が目の前の現実について関心を持つ、持とうとすることも、それと同じくらいに大事なのだと思う。

このnoteでも書いたように、親は子どもの「鏡」であり、親の価値観や言動は無自覚のうちに子どもの価値観の形成や言動に反映されていく。良いところも悪いところも。

だから、子どもの「なんで?」にどう答えるかには、親として「どうあるか」、もっと言えば一人の人間としての「生き方」とか「スタンス」が表れるんじゃないかと感じている。

そしてたぶん、それが子どもの好奇心を育む土壌になっていくのかもしれないなと思う。

読んでいただき、ありがとうございます。もしよろしければ、SNSなどでシェアいただけるとうれしいです。