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なぜヤフコメは「コンテンツ」になっているのか

だいぶ前から議論はあったけど、ここ最近でYahoo!ニュースのコメント欄(ヤフコメ)の是非を問う声をより頻繁に見かけるようになった。

僕が意識的にヤフコメを見るようになったのはこの一年ほどで、いまや記事を読むときにセットで見ることが多い。

ヤフコメ自体、必ずしもネガティブな側面ばかりではないと感じるけど、もちろんヘイト的な言説などへの厳しい対応はネガティブ云々ではなく必要だと思っている。

一方で、そもそもなぜあれほど多くのコメントが書き込まれているのか、そしてなぜコメント欄が「コンテンツ」になり得ているのかを考えてみる必要があると思う。

※ここではコメントをする側ではなく、コメントを閲覧する側にとっての「コンテンツ」を指している。

ヤフコメを見始めた頃、コメント欄がコンテンツになっているのは、シンプルに読者が記事に対する世の中の反応を知りたいからだと思っていた。

ただもう一つ、というか、「世の中の反応を知りたい」という意識下にあるのは、読者の「解釈する力の弱化」ではないかと感じるようになった。

解釈とは、物事の捉え方を言語化することだと思うのだけど、そもそも何かを解釈しようとすることは一手間かかるし、面倒くさい。

「コップの水理論」は、コップに入っている半分の水を見て「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うのか、という捉え方が問われる例としてよく持ち出される。

でも現実に即して言えば、コップの水を見て大半の人が「もう半分しかない」とも「まだ半分もある」とも思わない。解釈すらしようとしない。

「もう半分しかない」とか「まだ半分もある」という捉え方を知ってはじめて、それらの解釈をしようとする。

ヤフコメも同様に、なんとなく記事が読まれて、この話題に対して世の中はどんな反応をしているんだろうとコメント欄に目を通す。

記事を読んだ時点で何かしら感じることがあれば、それがコメント欄で言語化されていたり、あるいは自分が思い至らなかったことが言語化されていたりすることで、記事に対しての解釈が固まっていく。

「やっぱり」とか「なるほど」とか「へー」とか思いながら、「このニュースは、こうして解釈すればいいのか」という判断(安心)材料にもなる。そうして、コメント欄を通じて読者はその記事を“解釈”していく。

つまり、コメント欄は表層的には「世の中の反応を知りたい」というニーズに応えているように見えるけど、実際には(良くも悪くも)記事を解釈するための補助線として機能しているんじゃないか、というのが、この一年ヤフコメを見てきて感じたことだ。

それはたぶん、テレビのワイドショーでよくある、その日の新聞を見ながら識者などのコメンテーターたちが「このニュースは、つまりこういうことなんですよ」とか「こう書かれているけど、こういう見方もある」などと、コメントするようなものとも似ている。

もちろん、ヤフコメが問題視される原因である、おかしなコメントや攻撃性かつ暴力性を孕むコメントは、解釈云々の話ではない。

そして、そうした問題性が強いコメントが集まりやすいのは日韓関係や不倫などの特定の記事であることが多い。

一方で、ヤフコメ全体を見てみると、良質とも言えるコメントも少なくなく、一読しただけでは論点が見えづらい記事の解釈の補助線、いわば1.5次情報の役割を果たしているケースも少なくはない。

そうした記事とコメント欄とがセットになって読者の理解促進をしているのを見ると、だからこそコンテンツになり得ているのだと気づく。

これはヤフコメに限ったことではなく、Twitterなんかでも似たようなことが起きている。

たとえば、Twitter上では、同じツイート(言葉)であっても「誰が言ったか」によって、受け手にとっての言葉が持つ意味(あるいは価値)が大きく変わってしまうことがある。

それは当然のことだけど、一方でその背景には、それらの言葉を前にしてどう解釈すればいいのかわからないという、受け手側の解釈する力が弱まっていることがあると思う。

自分でその言葉を解釈しようとせず、「この人が言うのだから間違いない」みたいな感覚だ。それは、Twitterで誰をフォローするかによって思考が偏ったりするのと同様かもしれない。

SNSを中心とする情報摂取環境に身を置いていると、意識しない限りは物事を解釈しようとする意識が薄れ、ただただ他人の考えをなぞるようになる。

そのうち何でもかんでも誰かの解釈に委ねるようになり、自分自身の解釈する力はどんどん失われていく。

ヤフコメもTwitterも一つ一つがコンテンツであって、そのすべてが何かについて言語化されたものだけど、言語化されたものをどう解釈するかは、言語化することと同じくらい大事なことだと感じている。

そういう意味でも、そろそろ受け手側の解釈力の弱化、そしてそれによって生じる弊害なんかが問われ始める頃なんじゃないかと思う。

読んでいただき、ありがとうございます。もしよろしければ、SNSなどでシェアいただけるとうれしいです。