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アフリカから日本の子どもの「窓」になってみる。

その写真は「窓」か、「鏡」か――。

写真について語るとき、そんな問いが発せられることがあるという。

これはアメリカ人の写真家であるジョン・シャーカフスキーが提唱していた概念で、「窓」は写真を通して外の世界を探究することを指し、「鏡」は写真を自己表現の手段として用いること、だそうだ。

「窓」は、わかりやすい。実際に写真を見る側からすれば、その多くは「窓」とも言え、「窓」の向こう側に自分の知らない外の世界、あるいは知っているはずの世界の違う側面、また視点から見ることができる。

一方で「鏡」というのは、写真に自分を映す、投影するという比喩的な意味合いだ。それはまた写真を通じて自分の内面をのぞく、ということでもある。その写真を見る側からしても、同様のことが言えるかもしれない。

写真は「窓」か「鏡」かという問いは、当然厳密に分類できることではなく、その必要もなければ、両立だって十分にしうる。ではその問い自体が不要かと言えば、そうではない。

僕自身、子どもができてからその一挙一動を記録に残そうとカメラにハマり、この5年近く写真や撮影という行為にそれなりにのめり込んできた。

そんな撮影者でもある自分にとってこの問いは、当初「記録」としての写真だったのが、いつしか自分にとっての「表現」にもなっていたことに気づかせてくれるものだった。

「窓」か「鏡」かという問いは、あるいは写真に限らないのかもしれない。

35年近く日本でしか暮らしたことのなかった2年前から、セネガルという国に移り住んだことで、日常は一変した。その日常の変化ぶりや日本との数多ある違いに日々刺激を受け続けている。

それらを「表現したい」と思った時、こうしてnoteを書く以外にも、たまたま編集者という仕事をしてきたこともあって、いくつかの媒体で書いたり、ラジオネットテレビで喋ったりする機会をいただいてきた。

たとえば、その一つが『ジュニアエラ』という子ども向けの雑誌で書いた記事だ。

(本文や写真などはぼかしていて閲覧不可)

これは、「子ども地球ナビ」という連載で、海外の子どもの生活を通じてお国柄を紹介するというもの。対象読者である日本の小学校高学年から中学生くらいを想定しつつ、記事を書かせてもらった。

取材や執筆を通じて感じたのは、この記事は日本の子どもたちにとって、セネガルという国の「窓」になるものだな、ということだった。

その「窓」には、日本の子どもにはなかなか知り得ない外の世界があって、同じ年くらいの子どもの生活の一端に触れることができる。遊びや食事、生活リズムなんかも、やはりセネガルと日本ではかなり違う。

その違いを少しでも面白がってもらえるよう誌面を構成するべく、たった4ページをつくるのに、必要以上に膨大な時間と手間をかけてしまった。

僕自身、もともと雑誌の編集の仕事をしていたこともあって、労力をかけてつくった一誌面がいかに刹那的に消費されるか、というのは十分わかっているつもりだ。

ただ一方で、たった一つの記事が持つ可能性を過去の自分の体験から信じていたりもする。だからこそ、こうした記事がだれか一人にでも深く届けばいいなと思ってつくっていた。

この記事をつくるための取材は、自分にとって「窓」そのものだった。

取材でなければなかなか入ることのできないであろう小学校で授業を聴講したり、外国人なんてほとんどいない地域である現地の子どもの生活に2日にわたって密着したりと、なかなかに濃い体験をさせてもらうことができた。

同時に、一連の取材や執筆は「鏡」でもあった。

セネガルについていろんな側面から知るほどに日本との違いが浮き彫りになり、わからないことも増えていく。セネガルで2年暮らしても、当たり前だけど、わかっていないことばかりだ。

記事をつくるにあたって、あらためてセネガルのことを調べたら、わかっているつもりのこともわかっていないことが多く、そのことにはっきりと気づくことができた意味でも、こうした機会をいただけたことは貴重だった。

何より、多くの日本の子どもにとって未知な領域であろうアフリカの「窓」になることは、セネガルに来て以降、自分の「表現」としてもずっとやりたかったことだった。だから、取材や執筆はとにかく楽しかった。

もしかしたらこうしてnoteを書くことも、誰かにとってのセネガルという外界の「窓」になっているのかもしれないし、僕にとっても書くこととその過程で考えることは「窓」であり、「鏡」でもある。

その「窓」から見える景色の解像度を少しでも上げるために、これからもこうしてセネガルの暮らしやそこで感じたことをnoteで表現できたらと思っている。

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