【サイケデリック学・意識哲学探究記】11996-12006:2024年1月30日(火)
タイトル一覧
11996. 今朝方の夢
11997. 今朝方の夢の続き
11998. 学びの宝庫としての夢
11999. 今朝方の夢の続きと夢からの学び
12000. 今朝方の夢のさらなる続き
12001. 夢からの学びを書き留めることを新たな習慣として
12002. 先人から受け継いだ宗教への信心深さに感謝して
12003. ヒンドゥー教についての種々の発見事項
12004. サーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派から影響を受けたヨーガ学派の思想的変遷について
12005. 空海の思想探究に向けて/真言とサイケデリクス
12006. 空海からの導きと空海との共通性/日本の意識哲学の探究に向けて
11996. 今朝方の夢
時刻は午前3時半を迎えようとしている。今朝方は、夢の鮮度があまりにも強過ぎて驚く形で目を覚ました。昨日こそシロシビン・セッションの翌日ということもあって無意識の世界が大嵐の後の凪の状態で特に夢を見なかったのだが、そこからさらに1日経つと、逆に夢の解像度が高まっていて驚いたのである。夢の内容についてはいつもかなりの量を記憶していることもあり、内容の記憶に関しては通常と同じであったが、とにかく夢の情景がVR世界と同じぐらいに鮮やかなものだったのである。今から少しずつ覚えている夢について振り返りたい。
夢の中で私は、大乗仏教と上座部仏教に関するレクチャーをしていた。レクチャーと言っても誰かに対して行っていたのではなく、自分に対して行っていたのである。まずは大乗仏教と上座部仏教の概要について説明をし、両者の特徴と違いについて自分に対して説明をしていった。すると、説明の効能として、次から次に自分の中で問いが立ち、それらの問いに対する回答もどこからか降ってくるかのように自分の中から湧き上がってきて、問いと答えを言葉にしていくということを永遠と行っていた。時が経つのを忘れて仏教について説明をしていると、途中で一人合点する瞬間があった。仏教の本質はそういうことなのだという自分なりの見解に到達したのである。その時に、手元にあった仏教のテキストを手に取ってみた。それは英語とサンスクリット語の双方で執筆されていて、一人で永遠と説明を繰り返した後にそのテキストを眺めると、テキストの内容が嘘のように面白いぐらいに理解できて自分でも驚いた。そして仏教は、全ての人を幸せにし、幸福な社会を作っていくためにあるのだと確信したところで夢の場面が変わった。
次に覚えているのは、民家を舞台にした場面である。自分はその民家に住んでいるようで、オランダで住んでいる家と作りは似ており、2階建ての一軒家だった。そこにジークンドーの日本の有名なインストラクターの先生を2人と先生たちのアシスタントの2人を招いた。自分を含め合計5人でジークンドーの動画撮影をすることになっていて、まずは和気藹々と話をした。そこからいざ撮影をし、無事に素晴らしい動画を撮影することができた。2人の先生の見事な動きに惚れ惚れなしながら、しばし撮影の余韻に浸っていた。先生たちも撮影を終えてホッと一息ついており、撮影の時の真剣な表情から寛いだ表情に変わり、場の雰囲気も緊張感があったところから穏やかな雰囲気に変わった。飲み物を飲みながら5人で寛いでいると、何やら外から銃声が聞こえた。私たちは家の外に出て、銃声が聞こえてきた方を見た。すると、遠くの方に一台の黒い高級車が止まっていて、その車に乗っている人物が発砲をしたようだった。それは私たちに対する威嚇射撃のようで、彼らはどうやら最先端のマシンガンを持っているようで、さてどうしたものかと思った。すると、師範代クラスの先生の方が自ら進んで彼らを撃退することに向けて動き出した。こちらは完全に素手であり、相手はマシンガンを持っているので、はたから見ると勝ち目はないのだが、護身術と戦闘術の知恵を最大限に活用して、知的な戦略を練って彼らを撃退することにした。その師範代クラスの先生は相手の右手に回りながらもう随分と遠くまで行ってしまい、私たちは民家に残って相手が民家に入ったところを撃退する戦略を取ることにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/30(火)03:42
11997. 今朝方の夢の続き
今朝方の夢の情景がとても鮮明だった理由を考えている。それはもうシロシビン・セッションが理由であることは間違いないのだが、それがどのような働きかけをしたのかを考えている。セッション中においてはサトル次元で知覚されるビジョンの粒度と鮮度が上がる。まさにそれと同じ現象が夢の中で起こっていた。別の観点で言えば、セッションによって活性化された阿頼耶識から様々なイメージが出てきやすくなっていたとも言える。阿頼耶識に収蔵されたこれまでの様々な行いや記憶の種子が夢の形となってどんどんと現れたと述べることができるかもしれない。いずれにせよ、まるでサイケデリック体験をしているかのような、VR世界の中にいるかのような鮮明な知覚体験だったので驚いてしまった。ある夢の途中ではその鮮明さゆえに現実世界と区別ができなくなって一瞬錯乱してしまうほどであった。実際にその瞬間に一度目を覚ましたぐらいである。目を覚ましたのは民家で謎の集団と戦っている場面だった。そう言えばその夢の場面にはまだ続きがある。
民家での戦いはいつの間にか収束していた。マシンガンを持った男たちが自分が住んでいる民家を襲撃しにやって来たのだが、家の前に来た瞬間に彼らは消えた。彼らのうちの一人が家の扉の向こうにいることがわかったので、私は扉の背後に身を隠しながら扉をそっと開けて、相手を撃退しようとした瞬間に、相手の姿がちらりと見えたのだが、彼らは一瞬にして消えてしまったのである。こちらとしては死傷者が出ることはなく、ホッと一安心であった。確かに家の遠くに一台の車が止まっていて、彼らがこちらにやって来る姿を見たのだが、まるで彼らが幻影であるかのようにも思えた。一人単独行動で相手に向かっていった師範代の先生も無事に家に戻って来て、再び5人で寛ぐことにした。すると突然、隣の家から激しい音楽が鳴り響き始め、一体何事かと思った。一難去ってまた一難とはこういうことを言うのだと思った。どうやら隣の家で音楽を大音量で鳴らしている若者がいるらしく、浴室の窓から隣の家を覗いてみると、隣の家は若者が住んでいる家ではなく、学校のような作りをしている建物で、教室の中で子供たちを相手にしたお遊戯会のようなものが行われていた。お遊戯会で流す音楽がとても大きかったのだが、浴室の窓が開いていたこともあり、それを閉めたら随分とマシになるだろうと思った。ここでも勝手な思い込みとして、隣の家の若者が騒音を撒き散らしていると思い込んでいたところ、実際にはお遊戯会の音楽だということがわかると、なぜだか心が穏やかになった。子供たちの微笑ましい姿を窓越しから眺めていたので、尚更心が安らいだのである。このように、実際に自分の目で判断しない形で勝手に思い込むことの怖さを思った。勝手な思い込みは自分を苦しめるだけのことがあり、思い込みで思い悩むことは馬鹿げていると改めて思った。おそらく人々の多くの苦しみは、そうした未検証な思い込みによる場合が多いのではないかと思ったのである。ここからは自分の思い込みを一旦棚上げし、冷静になってその思い込みを検証することをしていこうと思った次第である。そのような夢の場面があった。フローニンゲン:2024/1/30(火)03:57
11998. 学びの宝庫としての夢
夢は学びの宝庫である。そのようなことを今朝方の夢を振り返りながら改めて思った。とりわけ先ほど振り返っていた夢からは、現実世界でもよくあることについて大いなる学びをもたらしてくれたように思う。人は絶えず自らの意識が生み出した幻想的な想念によって思い悩んだり、苦しんだりする。それらの一時的に浮かぶ想念に長く囚われてしまうというのはやはり馬鹿げたことであり、想念への囚われの手放しや、想念を検証するというアクションをすることの大切さを思う。特に私たちは思い込みをする生き物なのだから、思い込みとしての想念が果たして現実的に正しいものなのかどうかを確認する作業は重要かと思う。仮に否定的な思い込みが正しかったとしても、それが正しいと分かったがゆえにまた次の現実的な打ち手を打つことができるだろう。そうした現実的な解決策を見出すためにも、思い込みを思い込みのままにしないことは大切なのではないだろうか。夢から教えてもらった学びを言葉にすることはあえてこれまでさほど行っておらず、ここからはこのように言葉の形に残しておくのもいいかもしれない。それで言えば、最初に見ていた仏教の夢もまた示唆深い教えがあったように思う。あの夢の場面では、誰かに向かって仏教のレクチャーをしているのではなく、自分に向かってセルフレクチャーをしていた。それが実に実り多いもので、そこに学習を加速させるヒントを見出すことができる。実際に誰かに向かって説明すること以上に学びが得られることはないが、それとほぼ同等の効果を得ることがセルフレクチャーにも可能なように思える。とにかく言葉に出すことが重要なのだ。言霊は外に出て初めて言霊の機能を果たす。外に出された言霊は、内側をまた刺激し、新たな考えや問いを生み出すことにつながるのである。言霊が宿る場所。それこそが阿頼耶識である。阿頼耶識から生まれた言霊は、自分の耳で聞くことを通じてまた新たな種子として阿頼耶識に収蔵され、それがまた新たな言霊を有無という生成サイクルが見出せる。言葉の形にすることを習慣にすればするだけ、自分の言霊は阿頼耶識に薫習されていく。そして、言霊の通り道もまた薫習され、言霊が出て来やすくなる回路が出来上がっていくのである。この時、自分にとっても他者にとっても、そして社会にとっても有意義な言霊を生み出すことを心がけたいものである。それら全てにとって否定的な言葉を生み出すことは否定的な業を形成する。一方、それら全てによって肯定的な言葉を生み出すことは肯定的な業を形成する。どちらの業を形成することが望ましいかは言わずもがなだろう。ここからは夢から考えさせられた事柄や学ばされた事柄をできる限り言葉の形にしておきたいと思う。夢日記にもそのような進展が見られたことは嬉しいことである。ゆっくりとこの新たな習慣を形作っていこう。フローニンゲン:2024/1/30(火)04:08
11999. 今朝方の夢の続きと夢からの学び
大抵いつも早朝に夢日記を書いたり、その日の活動予定を書いたりして、2つほど日記を書いたら朝の呼吸法とアニマルフローの実践をするのだが、今日はその前にもう4つ目の日記を書き始めている。余程今朝方の夢の鮮度の高さが印象的だったのだろう。
今朝方の夢の続きとして、民家を舞台にした夢の中で、隣の学校のような建物で子供たちがお遊戯会をしていることが判明したのち、その場にいた5人でお茶を飲むことにした。お茶を飲みながらホッと一息ついていると、玄関の方に見慣れない2人の日本人男性がいた。どうやら彼らは引っ越しの手伝いにやって来てくれたようで、今すぐに引っ越しをするわけではなかったので彼らは日を間違えてやって来たようだった。一体どのような形でそのような早とちりをしたのだろうと気になったが、それについては尋ねることをせず、彼らにもお茶を出そうと思った。すると、彼ら2人は引っ越しのバイトで相当に体が鍛えられているようで、家の天井にぶら下がったり、梁につかまって筋力トレーニングをしたりしていた。相当に強靭な握力があり、同時に全身の筋肉も凄まじいことがそこから分かった。きっとボルダリングをしたら相当うまいだろうなと思わせるような筋肉のつき方をしており、ボルダンリングについての話を彼らに少しした。すると、2人のうちの1人はボルダリングにハマっていたことがあるらしく、どうりで体の使い方が上手いわけだと思った。そんな話をしながら、彼らにお茶を出し、そこからは7人で和気藹々と話をし、楽しい時間を過ごした。するとそろそろジークンドーの先生とアシスタントの方たちがおいとまするとのことだったので、玄関先まで見送ることにした。その時に、4人はそれまで口にしなかったが、自分の家に所蔵されている書籍の多さについて改めて驚き、それを指摘した。確かに家の1階と2階には本が無数に散乱しており、地面に積み重ねられた書籍の山や、書籍が詰まった段ボールが至るところにあった。特に1階は段ボールに入った書籍が多く、それら4人の目を引いているようだった。そのような場面があったのを思い出す。
この夢を振り返ってみると、確かに今の自宅とほぼ同じぐらいの書籍が夢の中の自宅にもあったように思う。起床して2階の書斎に上がって来た時、机の上に置かれている書籍を見て、今の関心に照らし合わせて書籍の上に置く書籍を再吟味しようと思った。基本的に机の上に置いている書籍が今の自分が最も関心のあるテーマの書籍である。それを見ると、意識哲学関係の書籍とサイケデリクス関係の書籍が大半を占めているのだが、もう少し吟味をして、しばらく目を通さないであろう書籍はまた段ボールの中か地面の積読書籍の上に置いておこうと思った。意識哲学と言っても、今の自分は西洋の意識哲学以上に東洋の意識哲学に注目しており、中でもインド哲学のそれが最も重要な分野なので、それに関する書籍を最優先させる形の配置を考えたい。最近思うのは、とにかくその分野で最も硬質かつ高質な専門書を何度も繰り返し読むことであり、叡智が希釈されたような書籍からは距離を取っていくことが大切だと思う。意識哲学に関して言えば、インド哲学の古典、可能であればそれをサンスクリット語やパーリ語の原典で何度も繰り返し読むことが最も深い叡智を授けてくれることにつながるであろうと確信している。今、叡智の扉が開かれた。フローニンゲン:2024/1/30(火)04:24
12000. 今朝方の夢のさらなる続き
朝の呼吸法とアニマルフローを終え、そこからヘンプカカオドリンクを飲みながらいつものように朝の創作活動に従事した。こうしてデジタル絵画と作曲をすることもまた自分の阿頼耶識への良い薫習となる。それは創作精神を涵養する上での良い習慣的行為であり、それによって阿頼耶識から創造的なアイデアやシンボルが生み出て来やすくなる。自分が創作活動に従事しているのは、自然言語的モダリティ以外のモダリティを通じて内面で生起する感覚を形にするためだが、それ以外にも絵画と音楽を生み出すことが生理的な快楽をもたらし、自己の存在を喜ばせるためでもある。それが回り回って自分のライフワークである意識哲学の探究に良い影響を与えてくれている。夢について振り返るのも同様の趣旨と効果がある。
そう言えば、今朝方はバスケに関する夢も見ていた。夢の中で私は、見慣れない市民体育館にいて、実際に通っていた中学校の近くにあったライバル校の1学年上の先輩たちの試合を見ていた。その学校の先輩たちのチームは非常に強く、県内で優勝を争うぐらいの強さであった。他校ではあるが、そんな先輩たちのチームの試合を見ることはとても参考になり、2階席から同学年の部活のメンバーと一緒に試合を観戦していた。試合を観戦しながら、私はあることに気づいた。今目の前で大差をつけて勝っている先輩たちのチームは、選手間の関係性が見事で、その関係性は立ち位置によるものだとわかったのである。お互いの良さを引き出すための立ち位置を絶えず流動的に変えていて、それが好プレーを生み出し続けていた。そこから立ち位置に注目することを同学年のメンバーに伝え、それに絞って観察することにした。すると、先輩たちは3人1組で3角形を作って絶えず動いていることに気づいたのである。それに比べて、自分たちのチームは2人1組や、時には単独プレーに走ることもあり、それが自分たちのチームの限界を生み出していたのだと気付かされた。そこから私は、これから学校に戻ってまた練習をする際に、3角形を意識した立ち位置に気をつけて練習をしてみようとみんなに伝えた。みんなは私の観察眼に驚いており、ぜひその練習案を試してみようということになった。
実際に学校に戻って練習を始めたところ、最初のうちは3角形を作りながら動くことがとても難しかった。これまでそんなことを意識して動いていなかったので、新しい脳内回路を作らないといけないぐらいにそれは難しいことだった。しかしそれも慣れであり、練習がそうした新たな脳内回路を作るのだと自分やメンバーに言い聞かせながら練習に取り組んだ。すると初回の練習ではあったが、徐々に3角形を作れるようになって来た。そこから私はさらに応用的な提案をした。これまでは固定したポジションでずっとコート上に立っていたが、ここからは全員が全てのポジションを担当するかの如く、流動的にポジションチェンジをしてみようということになった。最初のうちは何も決まり事なくポジションチェンジしようとするとお互いにポジションがかぶってしまうことがあると思ったので、反時計回りにポジションを1つずつずらしていこうという提案をした。これをしてみると、相手も混乱するであろうことが予想され、相手の脳を疲労させることを通じて相手の体力を奪うことにもつながり、試合を優位に運べると思ったのだ。こちらが混乱しては元も子もないので、そこもしっかり練習して慣れていくことが重要だと思った。とにかくスポーツもまた頭脳戦なのであり、身体を使った知的戦いなのだ。そのようなことを改めて思った。フローニンゲン:2024/1/30(火)05:32
12001. 夢からの学びを書き留めることを新たな習慣として
先ほど振り返っていたバスケの夢の振り返りからも学ぶことが多いかと思う。それは何かというと、注意深く観察することと、固着したものを解きほぐして流動的にするということである。兎にも角にも学習と実践の根幹には注意深い観察がある。注意深く観察をすればするだけ、これまで気づけなかったことに気づかせてくれ、そこからまた新たな学びと実践が展開されていく。そう、観察は新たな学びと実践のための展開剤なのである。そしてそれは新しい学びや実践の促進剤でもある。観察を第一にし、観察から得られた気づきを学びや実践に反映させていく。その時には兎にも角にも実験精神が重要である。何事も試してみることが重要なのだ。失敗など気にせず、むしろうまくいかないことからの学びが膨大であるがゆえに、うまくいかないことを楽しみながら色々と実験的に取り組んでみることが重要なのだ。何より、実験そのものがもはや学びと実践に他ならないのであり、同じことを繰り返していても仕方なく、とにかく旺盛な実験精神に基づいて、閃いた仮説を実験に落とし込んでみることが重要かと思う。少なくとも自分はそのような心持ちと在り方で日々の学びと実践に取り組んでいる。実験することを楽しむこと。失敗を喜ぶこと。うまくいかないことを楽しみながら次の実験案を考えていくこと。うまくいかなかったことから学びを得ること。それが学びと実践を加速させる最大の秘訣かと思う。
そして固着したものを流動的に解きほぐしていくことの大切さについて。これもまた実験精神と重なってくるが、私たちは日常を何気なく生きていると経路依存性の構築ゆえに、同じ考えや同じ行動を繰り返す。私たちはそのような習慣的生き物なのだ。その点に自覚的になり、普段何気なく考えているその思考回路そのものを見つめ直したり、何気なく行っている習慣的行動の意味を見つめ直し、それが自分の成長にあまりつながっていないと思ったらそれを改めていけばいい。ここでも実験精神を発揮して、自分なりの直感的な仮説に従って、自らの思考回路をどのように変えたらいいか、どのような行動を取ったらいいかを考えてみるのである。今日から自分もこの点をさらに自覚して日々を過ごしていこうと思う。それにしても今日の夢からの学びは実に豊かだった。自分にとっての新たな習慣としては、毎日振り返る夢から何か1つでも洞察を汲み取り、それを言葉の形にしておきたいと思う。夢の内容を単に書き留めるのではなく、夢を見るというのもまた一つの貴重な体験なのであり、そこには体験ゆえの学びが詰まっているのであるから、自分なりにそこから何を汲み取ったのかを書き留めておきたい。そして理想的には、そこから自分は何を意識して、何を行動に移すのかも可能な限り書き留めていきたいと思う。学びと実践に関して、阿頼耶識に新たな薫習をもたらす望ましい習慣がまた形成されそうで嬉しく思う。そしてこれは、一昨日のシロシビン・セッションが自分にもたらしてくれたご褒美なのだと思う。フローニンゲン:2024/1/30(火)05:42
12002. 先人から受け継いだ宗教への信心深さに感謝して
リグ・ヴェーダを聖典とし、バラモン教から発展したヒンドゥー教と仏教を意識哲学の観点から比較研究していくことは非常に面白いのではないかとふと思った。そもそも仏教はバラモン教に対して反旗を翻した異端の宗教として出発したという歴史があり、バラモン教の伝統を受け継ぐヒンドゥー教と仏教の意識哲学を弁証法的に対決させながら比較研究すると、片方の宗教の意識哲学を学んでいるだけではとりこぼしてしまう点や議論の詰めの甘さを残してしまうことを防げる可能性がある点にも価値を見出した。まずそもそもとしてはヒンドゥー教について全般的により詳しく知らなければならない。バラモン教から何をどのように発展させていった結果としてヒンドゥー教が誕生したのか。カースト制などが温存されている点は知っているが、それ以外に何を引継ぎ、何を捨象していったのか。その辺りを含め、ヒンドゥー教を理解するためにはまずはバラモン教について知らなければならず、仏教とヒンドゥー教の対比の前に、バラモン教とヒンドゥー教の対比をきちんと行わなければならないだろう。そうした対比を行った後に、自分のライフワークとなった意識哲学に焦点を絞って比較研究をしていく。その過程できっとまた新たな発見が続々と得られるであろう。
こうして自分が宗教の思想に本格的に関心を持つことになるとは予想していなかったことである。しかし、目には見えないものへの関心は幼い頃からずっとあったことを考えてみると、宗教思想に向かうのは必然だったのかもしれない。それこそ自分の阿頼耶識に生誕以前から埋め込まれていた先天的な種子が宗教思想に導いたとも言える。生まれてから様々な学びを経て、今こうして宗教思想と深く邂逅する機会を得ることができて自分は本当に幸せである。しかも、幸せの実現において最良の宗教とも思われる仏教と出会えたことは本当に感謝しかない。自分の中に存在していた仏性が仏教との縁を花開かせてくれたのだろう。また、意識哲学においてこれ以上にない網羅性と深みを持つインド哲学と出会えたことにも感謝しなければならないだろう。こうしてこれまで聞いたことがあったり、触れていたりしていた仏教やインド哲学が、本当に自分の人生の中に無くてはならない糧として存在の輪郭が明確なものになったというのは不思議な現象である。そのようなことを考えていると、初めて自分が留学したジョン・エフ・ケネディ大学で最初に履修したコースが「世界の宗教」であったことを思い出す。リアルなコースが始まる前に、オンラインのそのコースを履修することになり、当時の自分には世界の宗教の理解を深めるというのは至難の技であったし、世界の宗教に対する関心もそれほどでもなかったことを覚えている。しかし、あの時に履修したコースの課題図書は今でも実家にあるし、今度一時帰国した際にはそれを持ち帰って来たいと思う。あの日から世界の宗教との出会いは存在していたのであり、宗教との出会いはそれこそ生誕した瞬間から、いや自分が生誕する前から存在していたのかもしれない。宗教を信心深く信仰し、宗教思想を深く探究した過去の誰かの記憶と業が自分の阿頼耶識に受け継がれ、今の自分はようやくその先人の誰かが大切に残してくれたものを受け取り、受け継ぐことができたのではないかと思う。そうした意味において、自分にとって宗教思想を学ぶことは本当に尊いことなのだ。フローニンゲン:2024/1/30(火)06:09
12003. ヒンドゥー教についての種々の発見事項
ヒンドゥー教について調べていると、仏教の生誕地であるインドにおいては、憲法の規定の中に仏教はヒンドゥー教の一派として扱われていることを知って驚いた。何やらインド憲法の第25条にそれが明記されているらしく、ヒンドゥー教に含まれるものとしては仏教以外にもジャイナ教やシク教などもあるそうだ。それ以外にもヒンドゥー教は様々な宗教思想を包摂しているようで、ヒンドゥー教と言えば多神教という思い込みがあったが、全くそのようなことはなく、幅広い思想を受容しているがゆえに、多神論、汎神論、一神論、不可知論、無神論などを許容しているという非常に懐の広い宗教だということを改めて知った。きっとヒンドゥー教イコール多神教という思い込みは、西洋の分類によって持たされたものだったのかもしれないと反省させられる。
興味深いのは、ヒンドゥー教はバラモン教から発展したものだが、その歴史的発展過程において、バラモン教を批判して誕生した仏教やジャイナ教などの動きを経て、バラモン教が支配者階級のための宗教から変貌を迫られたことを受け、ヒンドゥー教が逆にバラモン教を含んでいったという点である。すなわちインド各地の土着の信仰を吸収して形を変えて民衆宗教化されていったバラモン教を含む点に広義のヒンドゥー教の特徴がある。
このような特徴を持つヒンドゥー教はそこから六派哲学と呼ばれる今自分が探究しているインド思想の学派を生み出した。それら6つは解脱を最終的な目標としている点では共通するものの、解脱への方法を含めた思想に違いがあり、互いに論争を繰り返す形で思想を磨いて来たという歴史がある。インド哲学の奥深さは、6つの互いに異なる思想体系が交流し、建設的な批判を加え続けて磨かれて来たことにあるように思う。6つの学派はそれぞれ、自然哲学に強みを持つヴァイシェーシカ学派、認識論と論理学に強みを持つニヤーヤ学派、この世界は精神と物質からなるとした二元論を解くサーンキヤ学派、サーンキヤ学派の二元論的形而上学思想に影響を受け、ヨーガ行を通じて解脱を目指すヨーガ学派、祭式を重視し、祭式によって幸福が実現すると説き、祭式の研究に強みを持つミーマーンサー学派、そして最後に、梵我一如の思想を説いたヴェーダーンタ学派がある。後にヴェーダーンタ学派がヒンドゥー教の正統派の地位を得たことについても書き留めておく。今の自分は二元論的なサーンキヤ学派と一元論的なヴェーダーンタ学派に注目をし、同時に認識論と論理学に関して重要な功績を残したニヤーヤ学派に注目をして研究を進めている。ここからはその他の学派についても順次研究の幅を広げていく予定である。フローニンゲン:2024/1/30(火)07:04
12004. サーンキヤ学派とヴェーダーンタ学派から影響を受けたヨーガ学派の思想的変遷について
ヨーガ学派に大きな影響を与えたサーンキヤ学派の二元論においては、精神を司るプルシャと物質を司るプラクリティの2つの存在を実在と立てる。一方、ブラフマンとアートマンの不二一元論を説いたヴェーダーンタ学派においては、物質を実在とは説かず、ブラフマン以外に実在するものはないという主張をする。ブラフマンは普遍意識と置き換えることが可能であり、個人の意識も普遍意識の現れであり、物質も普遍意識の現れゆえに、ブラフマンのみの実在性を強調するのである。個人の意識も物質も仮の存在であるがゆえに幻想的な存在であるとみなし、ただ普遍意識としてのブラフマンのみが変わることなく存在し続けるという発想を持つ。また、サーンキヤ学派にせよ、ヴェーダーンタ学派にせよ、一般的なヒンドゥー教が信奉するブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァなどの神を信奉することはなく、無神論的な性質を持っていることも特徴として挙げられる。その観点で言えば、サーンキヤ学派は無神論的二元論であり、ヴェーダーンタ学派は無神論的一元論と分類することができるだろう。神の存在を認めるかどうかで言えば、サーンキヤ学派のプルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)という二元論を引き継いたヨーガ学派は、イーシュヴァラという最高神を認める上で無神論ではない。注意点としては、ヨーガ学派が信奉する最高神は自在神とも呼ばれ、それは創造を司る神ではないことだ。誰しものに宿る自分自身の神聖さを指すと捉えたらいいだろうか。サーンキヤ学派からの影響の観点で言えば、自在神とはヨーガの行法を通じて見出された自らの最も純粋なプルシャだと捉えることができるかもしれない。いずれにせよ、ヨーガ学派が信奉する最高神は創造神ではなく、そのような特徴を持った神であるということを押さえておく必要がある。
また興味深いのは、自分自身がヨーガのインストラクターの資格取得の際にヨーガ学派の思想を学んでいた際に、プルシャやプラクリティといったサーンキヤ学派の言葉だけではなく、アートマンやブラフマンといったヴェーダーンタ学派の言葉も出て来たことである。ここからわかるように、ヨーガ学派は初期においてはサーンキヤ学派の思想を取り入れながら徐々に変化していき、後期においてはヴェーダーンタ学派の思想も取り入れていったことがわかる。それは六派哲学のそれぞれの学派が論争を通じた交流をしていたことからも理解できる流れかと思う。またそもそもヨーガの行法を積んでいけば、最終的には物質というものが意識が映し出す表象現象であることがわかって来るであろうから、サーンキヤ学派が述べるプラクリティの実在性を否定する方向に徐々に向かい、残るのは精神としてのアートマンとブラフマンであり、それらは究極的に合一するという梵我一如の思想に向かったのは必然だったのではないかと思う。ここからさらに六派哲学のそれぞれの論争と思想的変遷を見ていくと、色々とまた新しいことが発見できそうで楽しみである。フローニンゲン:2024/1/30(火)07:30
12005. 空海の思想探究に向けて/真言とサイケデリクス
今、午前8時半に近づいており、ゆっくりと夜明けを迎えようとしている。つい今し方、朝の瞑想実践を終えて、明晰な心持ちでいる。止観を意識し、それを意識することさえも手放す形でしばし瞑想に耽っていた。瞑想は意識探究上、本当に不可欠な実践である。この実践なくして書物だけを通じて意識を探究していくことには限界がある。意識の様々な性質と諸相を見ていくという直接体験を瞑想はもたらしてくれるのだ。瞑想による直接体験を一人称的参照データとする形で書物を紐解いていけば、意識に関して本当に多くのことがわかるだろう。瞑想と文献読解の両輪をこれからも大切にしていく。
今日の読書では、空海の思想に注目したいと思う。ちょうど先日、ハーバード大学に在籍しておられるRyuichi Abe先生の“The weaving of mantra: Kukai and the construction of esoteric Buddhist discourse”という書籍が届き、この書籍をもとにして空海の思想を探究していきたいと思う。とりわけ空海の意識論に注目をしている。空海が開いた真言宗においてはその言葉の通り、言語哲学に深淵な性質を見出すことができる。言語と意識は密接につながっているゆえに、空海の真言としての言語哲学を足がかりに、その意識論の特徴を明らかにしていきたい。空海の功績として特に注目したいのはその密教性である。空海が唐に渡った際にはインド仏教が北伝し、大乗仏教となり、そこにはヒンドゥー教の要素が多分に含まれていた。ヒンドゥー教の儀式の要素が色濃く残る大乗仏教の密教思想を空海は深く学び、意識を変容させながら深い真理に到達する技法を空海は日本に持ち帰った功績がある。空海は薬草にも精通しており、「延命草」の効能を日本に伝えたとされる。薬学的な知識もあった空海とサイケデリクスのつながりについても探究してみたい。日本の薬物療法は中国からの影響を強く受けており、中国原産のサイコアクティブな物質やインドから伝わった可能性のあるサイコアクティブな物質との関連で空海の功績を辿ってみたいと思う。
空海が大切にした真言とはそもそも、仏の真実の教えは人間の言葉で表されるようなものを超えていて、それでいてこの宇宙の真理を示す何かだと考えられていた。方便として人間の言葉を使ってその真理を伝えようとし、その真言を観想しながら精神統一をすることで真理に触れることを可能にしようとしたのが密教における真言の本質である。先日のシロシビン・セッションにおいては、まさに真言が開示される瞬間が幾度となくあり、それは自分という人間存在を含む宇宙の真理を確かに指し示していたように思う。セッションの振り返りというのは、まさに方便として自分の言葉を使ってそれをなんとか表現しようとする試みなのである。シロシビン・セッションは自分にとって、純粋意識を体験し、普遍意識と化す体験を通じて、阿頼耶識の奥の奥から湧いて来る宇宙の真理を知覚する試みなのであり、真言を授かる行法なのだ。そのようなことを思う。フローニンゲン:2024/1/30(火)09:07
12006. 空海からの導きと空海との共通性/日本の意識哲学の探究に向けて
時刻は午後1時半を迎えた。つい今し方仮眠から目覚め、ここから夕食準備の時間まで、再び学術研究に励んでいこうと思う。午前中の調査と読書は捗り、午後もその調子で探究を進めていきたい。
空海からの導きと空海との共通性。それで言えば、空海はインド仏教の真髄を学ぶためにサンスクリット語を大切にし、それを深く学んだと言われる。上座部仏教の経典はパーリ語で書かれており、空海が学んだ大乗仏教の経典はサンスクリット語で書かれているゆえに、インド仏教の原典を学ぶ上でサンスクリット語を習得することは必須だったのだろう。自分もまた、今サンスクリット語の習得に向けて意欲を燃やしている。空海を尊敬し、空海から薫陶を得る形で自分もサンスクリット語の学習に着手していきたいと思う次第だ。
日本に仏教が伝来して以降、日本独自に仏教も発展して来た歴史があり、その歴史的展開過程の中で、日本における仏教の意識論がどのように発展していったのかも調べてみたい。もし仮に日本の仏教学派が意識論に関して独自の功績を果たしていたのであれば、それは注目するべきことであり、英語の論文を執筆することを通じて広く世界に共有したい事柄である。禅仏教から多大な影響を受けた京都学派の意識論を見てみれば、そこに独自な功績があることがわかり、それ以外にも日本の仏教が意識哲学に果たした独自の功績を調査していこう。
日本の意識哲学の探究。今現在、東洋の意識哲学の中でもインド哲学に注目をして意識哲学の研究を進めているが、研究世界を日本に限定してみると、どのような発見があるのかと考えていた。すぐに思いつくだけでも西田幾多郎先生や井筒俊彦先生を中心に、意識研究について独自の功績をされた先人が日本にはいて、彼らの研究をまとめることにも意義があるように思えた。また、現代よりも遡って、例えば唯識思想を汲み取った法相宗の学者の功績を時代を追って研究してみると意義のある論文が書けるかもしれないと思ったのである。日本の意識哲学においても単に西洋世界や東洋世界から輸入しただけで教義研究が行われていたわけでは決してないはずであり、事実上述した学者たちは自らの体験と独自の観点に則して非常にユニークな意識論を展開していたのである。確かに彼らもまた仏教を含めた東洋思想から影響を受けていたことは間違いないが、西洋思想にも触れることを通じて独自の意識哲学を提唱したことは注目に値する。意識哲学という切り口で日本独自の思想を見出す試みにも積極的に従事し、その成果を英語論文として発表していくことに意欲的に取り組みたい。フローニンゲン:2024/1/30(火)13:36
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?