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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12018-12026:2024年2月1日(木)

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タイトル一覧

12018. 先日のシロシビン・セッションにおける末那識の抵抗現象について

12019. 今朝方の夢

12020. 心の哲学における「幻想主義」の発想の問題点

12021. 今朝方の夢の続き

12022. サイケデリック研究における哲学・科学・神学の三権分立について思うこと

12023. 『般若心経(Heart Sutra)』への想い

12024. 『般若心経』の音楽を用いた朝の瞑想を行って

12025. サイケデリック体験を通じた素粒子の大きさに関する考察

12026. 本日の充実したトレーニングを終えて

12018. 先日のシロシビン・セッションにおける末那識の抵抗現象について

時刻は午前5時を迎えようとしている。今の外の気温は6度と比較的高く、室温は22度あるので暖かい。外の気温はここから夜明けにかけて4度まで下がり、そこからゆっくりと7度まで上がっていく。ここ最近は本当に過ごしやすい気温が続いているので何よりである。雨も降ることはほとんどなく、今日もまた快晴であることが嬉しい。

気がつけば今日から2月を迎えていた。新年も早くも1ヶ月が過ぎ、今年も着実と進行しているのが窺える。時の経過に応じて、自分も着実に自らのライフワークを前に進めている感じがする。そのことにただ感謝をしたい。

昨日、改めて先日のシロシビン・セッションの体験を振り返っていた。クエン酸とシロシビン・マッシュルームを組み合わせたことにより、シロシビンがシロシンに変換される速度と度合いが増し、非常に深い体験をしたセッションだった。そんなセッションの中で、自我の溶解が極度に進む時間の中で、ある種の恐怖体験をしていたことはすでに書き留めていた通りである。脳は意識のフィルターとしての機能を果たしており、その機能が極度に深い意識状態の中で完全停止することによる恐怖体験。脳のフィルター機能が取り払われると、脳は膨大な情報を自分の内側に流し込んでくる。厳密に言えば、コスミックコンシャスネス、あるいは普遍意識が持つ無限の情報が、フィルター機能が完全に停止した脳に流れ込んでくるという体験をしたのである。その情報量の膨大さに圧倒されるという体験に対して自分は恐怖に感じていた。それに加えて、脳内のデフォルト・モード・ネットワークの解体による自我の溶解によって、それでもな自我に固執する末那識の存在が残っており、これがまた厄介な体験を引き起こした。唯識思想の真理は本当であり、末那識は夢を見ない深い眠りの中でも維持されるとされているが、まさにその通りであった。自我そのものはすでに溶解し尽くしているかに見えたところ、末那識の存在が残っていて、それが自我の残滓を助けるべく、自我を何でもいいので何かしらの対象に貼り付けて存在維持をさせようとする体験が何度もあった。その時に自分の自我はスマホ、14:23という時間、トイレの便器と同一化しようとしたのである。それがまた恐怖として体験された。サイケデリクスの摂取による自我の溶解は、唯識思想を用いて厳密に述べると、6番目の自意識が消失するだけで、7番目の末那識は温存されるのだと思われる。ひょっとしたらさらに体験の深みに入っていくと末那識さえ手放せるだろうし、事実そうした体験を過去にも何度かしているが、今回は末那識の抵抗に遭い自我が何かに張り付いて何としてでも自己保存しようとする現象と遭遇することになった。このように、先日体験した事柄に言葉に当ててみると、次回はそのような体験に怯える必要はなくなるかもしれない。意識哲学の探究を通じて学んだことが、こうしてこれまで言語化することのできなかった体験に言葉を当てることを可能にし、それが今後のセッションをより有意義なものにしてくれるであろうことを確信している。フローニンゲン:2024/2/1(木)05:04

12019. 今朝方の夢        

穏やかな朝の世界。外はまだ真っ暗で、日の出までもう3時間半ぐらいあるが、こうした静けさの中に佇みながら自分の言葉を紡ぎ出していくことに何とも言えない幸福感を感じる。自分の言葉を紡ぎ出すだけで至福さを感じられること。そのことに感謝をしたいし、そのことにまた幸福感を感じる。自分の言葉は自らを幸福にさせてくれる力を持っている。自分の深層から言葉を発すれば発するだけ、それは阿頼耶識に所蔵されていき、それが種としてそこでゆっくりと育まれていく。そして、後に縁を受けて種が花を咲かせる。できるだけ自分や他者を幸せにする種を阿頼耶識に所蔵させ、それを花開かせることをしたい。自他を幸せにする身口意の3つを意識し、阿頼耶識に幸せの種を撒いていこう。そんなことを思う朝である。

今朝方の夢の中で、小中高時代の友人たちとタクシーに乗って海の見える崖に向かっていく場面があった。タクシーの中でも彼らと会話を楽しみ、気がつけばそのうちの1人の友人の家がある崖まであと少しだった。彼の家は崖の下の海岸付近にあった。海を目の前にしているため、家から常に海が近くに見えることはとても魅力的であった。タクシーを降りて崖の方に全員で歩いていくと、崖の下には本来ないはずの海水が満水になっていて驚いた。崖の下に家を持つ友人は唖然として立ちすくんでいた。彼の家は海水の下にあって、家の姿はもう見えないほどに海水で満たされていた。彼は相当にショックを受けており、言葉を亡くしていた。その他の友人を含め、私も彼になんと言葉をかけていいのかわからず、黙ったままその場に立っていた。するとその友人がハッとした表情を浮かべ、彼の家は別の方向の崖の下にあることを思い出したとのことだった。それによって彼の表情は明るくなり、場の雰囲気が一気に明るくなった。そこから反対側の崖の方に行ってみようということになり、いざ歩き出したところで、目の前に小中高時代のある友人(SN)が崖の上でピアノを弾いていたので驚いた。そこにピアノがあることにまず驚いたし、彼がピアノを弾けることにも驚いた。彼の演奏は見事で、海風と共に流れていくピアノの音色は本当に美しかった。しばらく彼のピアノ演奏を聞いたところで彼に話しかけ、彼も誘って一緒に崖の反対側に行くことにした。

そこで夢の場面が変わった。次の夢の場面では、私は見慣れない駅の外に立っていた。どうやらそこには日本の大都市の駅のようで、駅には次から次へと人が出入りしていた。駅まではタクシーを使っていたようで、自分が乗っていたタクシーがまた次の客を探しに消えて行った。駅構内に入って、午後8時からの新規のクライアント企業との会食に出かけていくことにした。時刻はまだ余裕があるように思えたが、駅の中がいかせん広く、目的のプラットホームを探すのに難航した。そんなことをしていると、気がつけばもう会食の時間が迫っていた。次の列車に乗り遅れると会食に遅刻してしまいそうな時間になっていたのである。時が流れる速度が気持ち早く感じられ、それが自分を焦らせることにつながった。しかし焦っても仕方ないと思い、仮に遅れそうになったらもう会食に参加するのはやめにして、そのプロジェクトを一緒に進めていくことになった協働者の方に会食でのやり取りを任せようと思った。ただキックオフミーティングを兼ねての会食だったこともあり、自分は自宅からオンラインでそれに参加しようと思った。そう思うと気が楽になり、これから自宅に戻ろうと思った。その思いと、今から列車ではなくタクシーを使えばまだ会食に間に合うかもしれないという思いが交差していた。フローニンゲン:2024/2/1(木)05:22

12020. 心の哲学における「幻想主義」の発想の問題点   

時刻は午前6時を迎えた。今、早朝の創作活動を終え、ここからモーニングコーヒーを淹れて、それを味わいながら午前中の学術研究を楽しんで行っていこうと思っている。そんな時にふと、ダニエル・デネットをはじめとした、心の哲学における「幻想主義(illusionism)」の発想を持つ人たちの意識の捉え方の問題点について考えていた。幻想主義は近年言葉が当てられ、関連書籍も出版されている。その専門書を今月に購入して読み進めていく予定なのだが、現在言えることとしては、意識を幻想だと語ってしまう彼らの発想は非常に乱暴だということである。大乗仏教の思想の観点から付け足すと、幻想主義者の発想は、意識を空(くう)的なものとしてしか見ていないのである。しかも、空の深層的な理解に基づくものではなく、空が持つ性質の非常に限定的な側面を通して、固定的な実体を持たないという性質だけを抜き取って意識について語っているのである。空の考え方で重要なことは、万物は確かに固定的な実体を持たず、常に変化をしているのだが、縁によって起こるというその点においての実在性を認めることができ、その実在性を含め、意識とはあってなく、なくてあるという形で捉える必要があるはずだ。しかし、幻想主義者は意識など存在せず、それは幻想であるという言葉で片付けてしまう。それは非常に乱暴かつ未熟な論述方法ではないだろうか。空の思想はそこから、仮観と中観という発想を付け加えながら発展していった。仮観においては、全ての存在は確かに実体を持たないが、その瞬間に仮の存在として存在し、他の存在と縁を結んで生起するという考え方を取り、意識もまたそうした性質を帯びる。さらには、上述の通り、意識はある側面や瞬間においては存在せず、またある側面や瞬間においては仮の存在として存在するという中観的な観点で捉えることができる。厳密には、個人の純粋意識は絶えず存在し続けており、幻想主義者が取り扱っているのは現象的に立ち現れる意識や意識内容についてしか見ておらず、意識そのものについては考察していないのである。ゆえに意識など幻想だと軽々と述べてしまうのだ。無限に有を育む絶対無としての純粋意識は絶えず普遍意識として存在し続けており、純粋意識から生まれるものが消滅生成と千変万化を経験するのである。そうした意識の現象的内容物はまさに仮の存在であり、空なる存在である。そのような形で幻想主義者の発想に批判を加えながら、最終的に自分の考えとしては、個人の純粋意識もまた仮の空的な存在ゆえに実体は持たないと個人の側面からは言えるが、自分の肉体が消滅しても存在し続ける普遍意識の観点からすれば、究極的には個人の純粋意識と普遍意識は同一のものなので、純粋意識の実在性を認めることができるという実在論的な発想となる。ゆえに自分は、意識の本質に対して「超越的実在論(transcendental realism)」とでも呼べるような発想を現時点で持っていることがわかる。フローニンゲン:2024/2/1(木)06:28

12021. 今朝方の夢の続き       

つい今し方、モーニングコーヒーを淹れ終えた。いつもコーヒーを飲むだけではなく、コーヒーを淹れることにも至福さを感じており、先ほどもそうした至福さに浸っていた。全てを中庸的に、程々に楽しむことをしている。コーヒーもほどほどに味わうことが毎日の楽しみである。自分にとっては学術研究も無理をすることなく、確かに長時間それに打ち込んでいるようには思えるが、1日8時間から10時間くらいの時間は中庸的である。こうして中庸を心掛けた日々を送っているから自分は絶えず活きいきとしているのだと思う。そのようなことを思いながら、今朝方の夢の続きを思い出していた。

夢の中で私は、タクシーに乗ってラジオ収録をしていた。ラジオ収録していたのは、自分が青年期に一生を風靡していたバンドグループで、私は彼らの音楽をよく聞いていたのでこうしてコラボレーションできることがとても嬉しかった。最初はそれこそ夢のように感じていたが、お互いに社会に対して独自に貢献を果たしていく大人としての協働関係を結んでいる感覚があり、そうした夢見心地の感覚は程なく消えていき、冷静な心で彼らとラジオ放送を届けていた。ラジオの途中でリスナーからのお便りを読み上げる時間がやって来た。ラジオネーム「マヤマヤ」という女性と思われる方からのお便りを取り上げてみると、そこに書かれている悩み事がなかなかに深くどうしたものかと私たちは思った。バンドグループの彼らは一様に黙っていたので、私の方で自分にできる限りのことを伝えた。彼女の悩みは部活に関する内容で、チームがなかなか大会に勝てず、それは自分のせいではないかというものだった。その問題に対してどのように取り組んだらいいのか助言が欲しいというお便りであった。それに対して私はまず、チームが勝てない原因が本当に彼女だけにあるのかを考えてみることから始めてみることを提案した。その部活はどうやらチームスポーツのようなので、勝てない原因を特定の個人に還元することはできないはずであり、自分を責めすぎないようにすることが重要だと思ったのである。彼女のレターから、どうやら彼女がキャプテンかそれに類する責任のあるポジションにいることが推察されたので、尚更彼女一人でその問題を抱え込まないようにすることを勧めた。この助言はありきたりなものかもしれないが、とかく強い責任感を持つ人には響くようで、早速彼女から追加のレターが届き、自分の回答に対するお礼が届けられた。そのレターを受け取った時、隣にいたバンドメンバーたちは彼女のラジオネームを忘れているようで、それは失礼に当たると自分は述べた。リスナーのラジオネームを覚え、それを大切にすることが信頼関係を醸成する上でとても重要だと自分は考えていたのでそれを彼らに伝えた。確かに自分は彼らのことを青年期において敬愛していたが、こうした基本的なことを疎かにするようではいけないのではないかと思った。自分なりの誠意を尽くしてリスナーと接すること。それを大切にしていこうと思ったところで夢の場面が変わった。

この夢の中で自分が考えていることは、現実世界で行っている「インテグラル・サイケデリックラジオ」の運営でも大切にしたいことである。自分の知識や考えは非常に限られているが、それでもリスナーの方々にとって何か1つでも役立つことがあればという思いでこれからもラジオを運営していきたいし、お互いに信頼関係を深めながらのラジオ運営をしていきたいと改めて思った次第である。それにしても今朝方の夢はやたらとタクシーがシンボルとして登場していたのが印象的である。ラジオネーム「マヤマヤ」さんからの2通目のレターは、ラジオ放送をしていたタクシーを降りて、近くに止まっている別のタクシーから受け取ったものだったことを覚えている。タクシーが何を象徴するのかをドリームディクショナリーで少し調べてみよう。フローニンゲン:2024/2/1(木)07:06

12022. サイケデリック研究における哲学・科学・神学の三権分立について
思うこと

現代社会にとって、そして学問としても科学は非常に重要である。しかし、現代の時代精神が強く科学主義的なものに立脚することによって、科学そのものが暴走する危険性を感じている。科学から生み出されたテクノロジーは、確かに私たちの生活を豊かにしてくれる側面があるが、同時にテクノロジーも暴走の傾向を見せている。時代が科学主義に傾けば傾くだけ、科学とテクノロジーの毒薬的な側面が社会に蔓延してしまうことを危惧している。それはサイケデリクスを取り巻く領域においてすでに顕在化している。サイケデリクスに関する研究も過度に科学に偏り、そこには哲学的な議論が希薄である。自分は哲学の重要さを今一度世に問いたいと思う。哲学と科学が、そしてそこに神学が加わって三者が協力関係を築きながらその分野が発展していくことが理想であり、それは社会運営上の三権分立に似ている。今の日本社会を見ていると、三権は分立などしておらず、それぞれが癒着し合い、同時に三権のそれぞれの力が弱体化している様子が見える。それは日本社会の機能不全と不幸の大きな要因になっている。これは学問の世界においても、それこそサイケデリック研究においても見られることである。サイケデリック研究における哲学・科学・神学の三権分立で言えば、科学が圧倒的な力を持ち、残りの2つは微々たる存在感しか放っていない。かろうじて少しずつサイケデリック哲学に従事する研究者が生まれ始めているが、その数はサイケデリック科学の従事者と比べると圧倒的に数で劣る。もちろん数の問題ではないが、それでいて数もまた重要なのである。世の中は科学主義に価値を置いていることもあり、サイケデリクスの科学研究には潤沢な予算が当てられるが、サイケデリクスの哲学研究には予算はほとんど当てられないような状況である。そんな状況の中で、イギリスの名門大学の1つのエクセター大学がサイケデリック哲学のプログラムを構築中なのは朗報であり、ハーバード大学とUCバークレーが提携して誕生したサイケデリック研究プログラムは、サイケデリクスを科学の視点だけではなく、哲学や宗教を含め、学際的に取り上げていくことを推進している非常に重要なプログラムである。こうしたプログラムが他の大学でも生まれてくることを願ってやまない。どうしても結果が分かりやすく数値で示される科学に研究予算が当てられてしまうのは理解できるが、科学の方向性を規定する前提や思想の研究をする哲学がより充実したものになることが、長期的な観点においては科学の進歩を促すのである。サイケデリック哲学のさらなる発展に自分は貢献していきたいと思うし、サイケデリクスを取り巻く研究の問題は意識を取り巻く研究にも等しく当てはまることであるから、意識哲学のさらなる発展にも寄与していきたい。インド哲学を含め、重要な哲学分野をなんとしても守り、その分野の灯火を消さないためにも、そして後に続いてさらなる研究に従事する人たちを増やしていくためにも、自分が従事する研究分野の面白さと魅力を伝えていくことを継続していきたいと思う。サイケデリック哲学も意識哲学も本当に面白しく、とても魅力的で、そして当該学問と社会に対して非常に重要な役割を果たす価値ある学問だと心から信じている。フローニンゲン:2024/2/1(木)07:39

12023. 『般若心経(Heart Sutra)』への想い

『般若心経(Heart Sutra)』への想い。そう言えば、父方と母方の祖父母の家には仏壇があり、特に母方の祖母の家の仏壇の前で生前において祖母がよく『般若心経』を唱えていたのを覚えている。幼少の頃に『般若心経』の漢訳と日本語訳の本を見せてもらい、それを見ながら自分も見様見真似で祖母と『般若心経』を唱えていたことがふと思い出された。『般若心経』には大乗仏教の本質的な教えが短く凝縮されている。それこそ『般若心経』の中にある、「色即是空、空即是色」という一節は非常に有名なのではないだろうか。かつてアメリカでアヤワスカのセッションだったか、あるいはホロトロピックブレスワークのワークショップに参加しているときだったかに、オーガナイザーが選曲した曲の中に『般若心経』の音楽があった。それは女性の歌声で現代的なリズムに合わせて歌われるとても美しく、見事な曲だったことを今でも鮮明に覚えている。それ以降も折を見てインターネット上でその曲を見つけてきては聴くことがあった。先ほども久しぶりにその曲が聴いてみたくなり、Spotifyを経由してお気に入りに保存し、今それを聴いている。次回の第26回のシロシビン・セッションでは、久しぶりにこの曲を流してみようと思う。そうすれば、人の声が入っている音楽を久しぶりに流す形でのセッションとなり、それは体験の質を変容させてくれるだろう。『般若心経』を歌うこの曲が最も有名なものだが、その他に何か仏教の経典を現代的なメロディーとリズムでアレンジした曲がないかを探したい。確かに『般若心経』はその短さゆえに曲にアレンジしやすい側面があるだろうから、他のより長い経典を曲にするのは難しいかもしれないが、一度探してみることには大きな価値があるだろう。

この曲はシロシビン・セッション中だけではなく、日常の瞑想実践の際にも流したい。繰り返しその曲を聴きながら瞑想することで、『般若心経』の世界を瞑想実践と共に自らに体現させていきたい。この曲に意識を集中させることで雑念が消え、自己が『般若心経』の世界と一体化し、深い瞑想体験をもたらしてくれるだろう。そして、『般若心経』の世界に関する深層的な理解を瞑想を通じて得ることができるはずである。日々の瞑想実践の際にはこの曲をとにかく繰り返し聴くことをしてみよう。それが自分の阿頼耶識にしっかりと薫習され、そこに播かれた種子が自他のために花開くことを願いながら。フローニンゲン:2024/2/1(木)08:17

12024. 『般若心経』の音楽を用いた朝の瞑想を行って

早速『般若心経(Heart Sutra)』の曲を用いて朝の瞑想実践を行っていた。音楽があることによってまた瞑想体験がいつもと異なっていたように思う。音楽がない場合には雑念が浮かびやすいが、それを観察しながらしばらくすると、雑念に囚われない深い意識状態に入っていくことができる。一方、『般若心経』の音楽があることは最初から音楽に意識を向けることができるので、雑念を生まれる余地を最小化しながら瞑想を深めていくことができるという利点がある。どちらにも良さがあり、ここからは瞑想を行う時間帯ごとにこの音楽をかける場合とかけない場合を使い分けていこうと思う。朝の瞑想においてはこの音楽をかけ、夕方の瞑想においては音楽を全く用いない形で瞑想実践を行う。就寝前の瞑想においてはこれまでのように自然音を流しながら瞑想をするのか、それともこの曲をかけるのかを検討した。

サンスクリット語で歌い上げられるこの曲は本当に美しい。耳だけではなく、自分の存在全体に心地良いメロディーとリズムに乗って瞑想を深めていくことができる。曲の中で、釈迦が直弟子の舎利弗(シャーリプトラ)に教えを優しく語りかける姿が想像され、まさに『般若心経』の世界が知覚できるかのような体験があった。ここから『般若心経』そのものを学ぶことを通じて、曲の中でのサンスクリット語の意味がわかってきて、瞑想時におけるマントラの力の効果がさらに増すのではないかと思う。今は兎に角意味の解釈を脇に置き、繰り返し聴くことを通じて体に音楽と『般若心経』の世界を馴染ませていきたい。

『般若心経』は、唯識思想を説いた玄奘(三蔵法師)がインドのナーランダ僧院から持ち帰った『大般若経』を原典とし、法相宗、天台宗、真言宗、禅宗が採用している重要な経典である。まさに大乗仏教の核心が短く詰まった経典であり、「空」の思想、そして「般若」の思想、すなわち悟りの思想を説いた重要な経典である。この経典には、仏の叡智が詰まった真実の言葉としての「真言」が確かに今も命を保って生き続けている。その命の脈動を感じながら瞑想実践に打ち込んでいくことをここからの自分に課したい。また、先ほどの瞑想の最中において、全ての人と一緒に彼岸へと渡っていこうと説いた「ギャティ、 ギャティ、 ハラギャティ、 ハラソギャティ、 ボジソワカ」の箇所が胸を打つ形で響いてきたことを書き留めておきたい。フローニンゲン:2024/2/1(木)08:53

12025. サイケデリック体験を通じた素粒子の大きさに関する考察

『般若心経』の教えにあるように、全ては実体を持たないという考え方から、物質を構成する素粒子の存在に思いを馳せ、それを先日のシロシビン・セッションの体験と紐付けて考え事をしていた。どうやら素粒子の大きさに対する考え方には2つあるようで、今とのころどちらの説が正しいのかは証明されていないようだ。1つは素粒子には大きさがないとする標準理論と、非常に小さな大きさを持つとする理論があり、その代表は超紐理論のようである。自分のシロシビン・セッションの体験を振り返ってみると、ここから要検討ではあるが、体験中に知覚される極小の微粒子体を知覚する体験からすると、超紐理論が述べるように、素粒子には大きさがありそうだと感じられるのだが、そこから体験がさらに深まると、微粒子がそれ以上分割不可能なさらに小さい点になっていき、その点には大きさがないように思われる点で標準理論にも賛同する自分がいる。ひょっとしたら、素粒子の大きさに関する2つの理論のうち、どちらか片方が正解でもう片方は不正解というのではなく、ある状態において素粒子を見れば有限の大きさを持つように観察される一方で、また別の状態において素粒子を見れば大きさをもたないように観察されるのではないかと思ったのである。少なくとも自分のシロシビン・セッションの体験を振り返ると、意識状態の深まりに応じて、大きさを持つ素粒子のようなものが知覚されるフェーズが始まり、そのフェーズからさらに意識が深まりと、素粒子がますます大きさを持たなくなっていき、最終的には大きさを持たない点になっていくというフェーズがあるように思う。このテーマは、空間の連続性と非連続性にも関わってくるような非常に重要なもののように思える。大きさがないとする点粒子は、空間を非離散的な連続的なものとして存在させ、私たちにそう知覚させる一方で、有限な大きさを持つとする素粒子は、空間を離散的な非連続的なものとして存在させ、私たちにそう知覚させているように思えるのだ。そのようなことを考えると、量子物理学の研究対象が本当に私たちの意識と密接に関わっているように思えてきて、背筋がゾクゾクとするような興奮が身体を駆け巡ってくる。量子物理学の研究成果については常に注目し、そこでの研究成果と自らのサイケデリックセッションでの体験現象を絡めて考察を深めていこう。フローニンゲン:2024/2/1(木)09:18

12026. 本日の充実したトレーニングを終えて       

時刻は午後7時半を迎えた。今日は天気がすこぶる良く、それでいて気温もそれほど低くなかったので、午後にジムに行く際と帰ってくる際にはとても気持ちが良かった。ジムでの筋力トレーニングも従事しており、申し分ない気持ちである。今日のパーソナルトレーニングでは、いくつかの2つの異なるメニューを組み合わせる形のトレーニングが続いていき、なかなかにハードであったが、自分は組み合わせのトレーニングを気に入っている。レストの時間を単に何もせずに過ごすのではなく、そこでまた別の部位を鍛えることをするのはとても効率的であり、確かにその分ハードなのは間違いないが、達成感を含め、気分を高揚させてくれる。基本的に今日のパーソナルトレーニングの1時間のほぼ全てのメニューが2つのトレーニングを組み合わせたものだったように思う。毎回パーソナルトレーナーのエリーザが創意工夫を凝らして新しい動きを伴うようなメニューを取り入れてくれるので飽きることなく毎回新鮮な気持ちでトレーニングができているのはとても喜ばしいことである。来週のパーソナルトレーニングでもまた2つのトレーニングを組み合わせたメニューを積極的に取り入れていこうということになった。先ほど食べ終えた夕食はトレーニング後ということもあって大変美味であった。今週の月曜日から、シロシビン・セッションのために購入したクエン酸が豊富に含まれているレモン汁をトレーニング後に水に溶かして飲むことを始め、それは疲労回復につながっていることを実感する。これからゆっくりと入浴をし、今日も早めに就寝することによって、疲れを明日に持ち越すことなく、明日の朝からまた万全の体調で自分のライフワークに取り組むことができるだろう。

本当に自分は日々の良い習慣に恵まれている。確かに習慣を見つめ直し、良き習慣を取り入れているのは自分かもしれないが、そうした習慣もまた縁によってもたらされたものだと感じる。縁に感謝するという考えもまた阿頼耶識に薫習されていく。日頃の身口意の全ての行いが阿頼耶識に薫習していき、それが縁によって業に転じていくのである。できるだけ限り自他に良き身口意を心掛けていけば、きっと良い業が未来のどこかで花開くだろう。フローニンゲン:2024/2/1(木)19:41

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