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【サイケデリック学探究記】11894-11902:2024年1月18日(木)

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タイトル一覧

11894. 今朝方の夢

11895. 量子力学の観点から意識を研究することに対して思うこと

11896. 瞑想の深まり/苦の根元について/ヨーガへの世間の誤解

11897. 意識哲学の研究を通じた発想の転換とトランスヒューマン・ポストヒューマンへの移行に向けて

11898. 多元宇宙論を基にした意識の複数性の可能性

11899. 西洋の意識哲学の限界と限界を超えた道

11900. 呼吸の見直し/インテグラル・ライフ・プラクティスとしてのインド思想

11901. サイケデリック研究と意識哲学から考える輪廻転生について

11902. 雪景色の中で8年前のこの季節のことを思って/地に足を着ける学習・実践

11894. 今朝方の夢     

時刻は午前6時を迎えた。昨日の天気予報から少し変化があり、今朝方の気温はグッと下がり、今の気温はマイナス4度である。幸いにもここから午後にかけて3度まで気温が上がるようなので、3度ほど気温があれば十分かと思う。午後にジムに行く際にも極寒さを感じることはないであろう。明日と明後日は最高気温が4度、最低気温が0度かマイナス1度と比較的穏やかで、日曜日に関しては久しぶりに9度まで気温が上がるようなので随分と暖かさを感じられるのではないかと思う。そこから数日間も9度近くの気温を維持し、2月を前にしていったん気温が高くなることを嬉しく思う。

今朝方は2つほど断片的な夢を見ていた。まず覚えているのは、インド哲学の難解なテキストを読んでいた場面である。そのテキストは確かに難解だったが、サンスクリット語と英語が併記されており、英語の解説が見事だったので内容理解に苦しむことはさほどなかった。それでは何が難解だったかと言うと、最初のうちは用語体系を把握することに困難さを覚えていた。見慣れないサンスクリット語から英語に翻訳された言葉の外形に囚われるとなおさら意味を掴むのが難しくなると思ったので、英語の解説の方をじっくりと読むことにした。やはり英語は意味の把握がしやすく、こと学術的な事柄に関しては日本語よりも英語の方がおそらく自分は読解力が高いのではないかと思う。そうしたこともあって、英語を頼りにそのテキストを紐解いていった。それは聖典でもあったので、内容を少しずつ理解することによって開示されてくる真理の世界に魅了され、時を忘れてテキスト解読をしていた。そのような場面があった。

もう1つ覚えているのは、欧州サッカーの移籍マーケットに携わって仕事をしている場面である。自分は移籍に伴う代理人を務めているようで、日本人選手の欧州での移籍を支援するのではなく、欧州人や南米人、さらにはアフリカ人といった日本人以外の選手の欧州内での移籍を支援していた。その関係上、欧州のリーグに所属する有名な外国人選手と付き合うことが多く、交友関係は広がっていた。自分にとってこの仕事はある意味副業で、本業は学術研究だった。自分のところに移籍の相談にやってくる選手たちともサッカーの話題以外に学問的な話をすることもあり、知的好奇心が旺盛な選手たちはそれを面白がってくれていた。確かに彼らは大学に行っていない者も多いが、元々の時頭は良い選手が多く、自らのサッカーに関する思想を構築することに関心のある選手たちも結構な数存在している。そうした選手たちとはとりわけ哲学に関する話をし、身体について奥深いことを知りたいと思っている選手とは主に身体心理学や量子力学をもとにして話をしていた。自分自身もサッカー選手である彼らから学ぶことは多く、欧州サッカーの内部についてあれこれ話を聞くのは楽しかった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/18(木)06:21

11895. 量子力学の観点から意識を研究することに対して思うこと       

今日もまたこれから呼吸法とアニマルフローの実践を行い、カカオヘンプドンリクを作って、それを飲み終えたらモーニングコーヒーを淹れ、午前中の読書に取り掛かるといういつもの流れを通じて時を過ごす。今日は午後からジムでのパーソナルトレーニングがあり、そこまでの時間をまた少々読書に充てたいと思う。ここ最近はもっぱらインド哲学に関心を示しているが、インド哲学に関しては手持ちの書籍が少なく、一昨日に購入した書籍の到着を待つばかりである。先日注文したインド哲学に関する13冊の学術書は最高級の学術出版社から出版されていることもあり、内容が非常に濃いであろうから、じっくりと何回も読み返すことを通じて理解を深められたと思う。その楽しみがある。

今日の読書はまず最初に、昨日の読みかけの量子力学の観点から意識を扱った分厚い論文集の続きを読んでいこうと思う。量子力学の観点から意識を取り上げるのは確かに興味深く、意義深いと感じているが、今の自分の意識哲学思想からすると、量子力学を用いても意識の本質についてはほとんどわからないであろうと思っている。量子力学はあくまでも量子という物質的な存在を前提において展開されており、物質的なものと物質的な世界をいくら知っても非物質的な意識の本質は解明されないであろうというのが今の自分の考えだ。もちろん、量子力学を通じて物質と意識の関係性や意識の機能や性質については解明が進んでいくであろうが、意識そのものについては謎のまま残るのではないかと思う。ただし、量子力学を用いて意識を研究する研究者たちのパラダイムとアプローチが変わり、意識の非物質的な本質を深く自覚し、その自覚をもとにして研究をすれば思わぬブレークスルーが量子力学を通じて生まれるかもしれない。それこそサイケデリック体験が豊かな量子物理学者やインド哲学などの意識の本質に迫る思想体系を学んでいる量子物理学者には期待がかかる。今のところ、多くの量子物理学者は物理主義や物質主義の範疇に留まっている印象を受けるので、なおさら新たな発想の枠組みを持った量子物理学者には期待がかかる。読み進めている論文の編集者の1人であるノーベル物理学賞の受賞者のロジャー・ペンローズでさえ過去のパラダイムに基づいて意識を研究している印象を与え、量子力学の観点から意識の研究を進める研究者たちが旧態依然としたパラダイムに縛られて研究を進めていくほどに、意識の本質解明から離れていき、物理主義や物質主義の勢力が増すことを危惧している。フローニンゲン:2024/1/18(木)06:36

11896. 瞑想の深まり/苦の根元について/ヨーガへの世間の誤解 

ここ最近は1日に数回の瞑想実践が板につき、そのおかげで内面生活はさらに豊かなものになり、学術研究に従事する際の集中力もさらに向上して良いことづくめである。毎回の瞑想の深まりも感じており、時折まるでサイケデリック体験中に知覚されるかのようなヴィジョンを知覚することもある。そうしたサトル意識におけるイメージに囚われることは禅では戒められており、魔境体験と呼ばれるが、実際のところはそれに囚われない形でそこから意味を汲み取ることは治癒や変容において重要になる。禅がある種の不親切さを内包しているというのはそうした説明足らずのところにあり、禅が大事にする言挙げをしないという本質とも関わっているだろう。インド哲学から派生した仏教の一派である禅の教えには非常に重要なものがあるが、絶えずそれは限界と盲点を内包しているものであることを弁えておかなければならない。

私たちは誰しも目には見えない苦を抱えている。苦の大小は様々であり、同時に自覚的な苦もあれば、無自覚の苦もある。インド哲学の教えが述べるように、苦の根幹には人間の意識とリアリティの本質に対する無知さがある。また現代においては、個々人の無知から出発する形で醸成された文化も病理的なものになっており、病理的文化にコンディショニングされてしまっていることも苦の大きな要因であろう。そこで重要になってくるのは、意識そのものとリアリティの本質について理解することであり、文化的コンディショニングに自覚的となり、それをディコンディショニングしていくことである。その方法は多様なものがあるが、自分はインド哲学の探究をその最善の道に据えている。インド哲学を学べば学ぶほど、ここでまで実践的な学問であったかと知って驚く。その実践性は、真実の自己に目覚め、真人として充実かつ幸福な人生を送ることを目標にすることにある。それ以上の実践性はあるだろうか。個人が自己の本質に目覚め、協力し合い、充実感と幸福感に溢れた形で人生を送ることを目指す以上の目標と実践的指向性はあるだろうか。今の自分にはそれ以上のことは見つからない。ゆえにそうした目標と実践的指向性を持つインド哲学を深く研究していこうと思っているのである。

そのようなことを考えた後に、インド哲学の1つの学派であるヨーガ学派の伝統について思いを馳せていた。自分自身もヨガのインストラクターであったから事情を知っているが、世間一般でヨーガが身体的な操作だと思っている傾向が強いことが残念でならない。ヨーガ学派には非常に深い学習・実践システムがあり、世間一般でヨーガと思われている身体操作はヨーガの体系の最も下部構造にあるものに過ぎないのである。身体操作を通じて涵養された身体を持ってそこからさらに学びと実践が続く体系がヨーガにはあるのである。身体操作がヨーガだと思ってしまうのは錯覚であり、文化的コンディショニングの影響だろう。喩えて言えば、ヨーガの身体実践は小学校でいうところの算数を学ぶようなもので、数学を学ぶのはそこからである。数学を学ぶためには算数が必須なので、ヨーガの身体実践は重要になる。ではヨーガにおける数学的なものは何かというと、それは意識そのものやリアリティの本質を学ぶ叡知に関する探究であり、実践的には瞑想が重要になる。それぞれを扱うヨーガにはまた別途名称が付されていて、ヨーガは1つの巨大な学習・実践体系を構築している。ヨーガのインストラクターとしての自己の側面を再び思い出す機会に今恵まれており、自らがヨーガの実践者として今一度自らの学びと実践を見直すことを問われているように思う。フローニンゲン:2024/1/18(木)07:53

11897. 意識哲学の研究を通じた発想の転換とトランスヒューマン・
ポストヒューマンへの移行に向けて

意識哲学の研究に本腰を入れ始めてからというもの、自分の世界観が変容の歩みを加速させていることに気づく。それは自己の捉え方であったり、世界の捉え方において現れている。自分と世界を見る眼が間違いなく変化していることを実感し、その変化を通じて自己と世界に関するこれまで気づかなかった真理に少しずつ気づけるようになっていることは大きい。そうした発見を通じて、さらに自分の世界観のレンズを検証するということが続いている。そうした流れを受けて、最近は発想を転換して物事を見ることが多くなっているように思う。例えば、意識研究において言われる「変性意識」や「非日常意識」と呼ばれるものについて、サイケデリック実践を定期的に自らに課し、意識哲学を通じて意識の本質について学ぼうとすればするほどに、その呼び名は逆なのではないかと思い始めている。すなわち、これまで通常意識や日常意識と呼ばれていたものが変性意識や非日常意識で、これまで変性意識や非日常意識と呼ばれていたものが本来は通常意識や日常意識なのではないかということである。私たちの意識そのもののが持つ特性を鑑みると、また人間存在の本質を考えると、二元的に自己と他者や世界を切り分けて存在生活を送ることは実は不自然なのではないかと思うのだ。そうした不自然さを通じて育まれてきたのが人間の文明であり、現在の社会なのではないだろうか。不自然さを基盤にしているがゆえに、現在社会も文明も崩壊の危機に瀕している。そうした説明を付すことができるように思えてくる。

いずれにせよ、今の自分は発想の転換を通じて、通常意識と変性意識の転換、日常意識と非日常意識の転換を図っていきたいと思う。学術研究でもそのような主張を展開していきたいし、己の生き方としてもこれまで言われてきた変性意識や非日常意識を優位にする形で日々の生活を営んでいきたい。それを通じて自らは新たな人種に近付くかどうかも検証してみたい点である。テクノロジーとの融合を果たさなくても、そうした形でトランスヒューマンやポストヒューマンを実現することは可能なのではないかと思う。少なくともそうした発想を持って日々の生活を営んでいくことを続けていれば、脳の構造も変化していくであろうし、そもそも世界を見る目は間違いなく変化していくはずである。トランスヒューマンやポストヒューマンへの移行に向けた意識哲学の探究とその実践をここから掲げていこう。フローニンゲン:2024/1/18(木)08:22

11898. 多元宇宙論を基にした意識の複数性の可能性

パラレルワールドや多元宇宙についても関心を広げて関連書籍を読んでいると、とりわけ多元宇宙の説を採用すれば、今こうして文章を綴っている自分を通じて立ち現れている個人の意識も複数を取り得ることがわかる。これまで意識は複数形をとり得ず、単数形として扱われてきたが、個人の意識は多元宇宙においては複数あり得ることになるのではないかと思った。普遍意識の方に視線を向けると、どのようなことが言えるだろうか。ここでも宇宙をどこまでの範囲で捉えるかであるが、多元宇宙を全て含んでの全体の宇宙を考えるのであれば、そこに体現された1つの普遍意識を考えることができ、そうなると普遍意識は依然として単数となる。しかし、物理宇宙を限定的に捉えた場合、ある特定の物理宇宙に存在する普遍意識と、また別の物理宇宙に存在する普遍意識は異なる可能性があり、普遍意識の複数性を認めることができるかもしれない。ひょっとすると、普遍意識にも階層性があり、個別宇宙ごとに体現されている普遍意識は異なるが、それらのさらに高次元な存在として、あるいは共通基盤の存在としての究極的な普遍意識を認めることができるかもしれない。そうしたことを考えてみると、個人の純粋意識の研究を超えて普遍意識の研究にまで手を広げて探究をしていこうと思うのであれば、宇宙論を学ぶことは不可欠であり、とりわけ最先端で議論されている多元宇宙論については深く学んでおく必要があるのではないかと思う。そうした考えから、引き続き宇宙論の研究もゆっくりと着実に進めていこう。

確かに現代の西洋哲学を基盤にした意識哲学者は知性の高い人たちが多いが、彼らの主張を見ていると、意識を直接体験を通じて探究する実践的枠組みとしての瞑想実践を核に据えたインド哲学の思想家立ちには到底及ばないように思えてくる。古代インドの思想家たちが議論しているその深みに注目をしてみると、そこから一歩も二歩も後退したところの次元で意識について議論をしているのが西洋の意識哲学者のように思えてきてしまう。もちろん今の自分がインド哲学に関心を寄せており、インド哲学に肩入れをしている可能性もあることは注意しなければならないが、それに自覚的になって西洋の意識哲学のテキストを眺めても、どうもそのようなことが言えそうだと最近感じる。とは言え、西洋の意識哲学の着眼点や問題へのアプローチ、さらにはその結論については学ばされることや考えさせられることが多いので、引き続き西洋の意識哲学のテキストもインド哲学の意識哲学のテキストの並行して読み進めていく。今から読み進めるデイヴィッド・チャーマーズの“Constructing the world”という書籍の読解もその試みの一環である。フローニンゲン:2024/1/18(木)08:39

11899. 西洋の意識哲学の限界と限界を超えた道      

先ほど、デイヴィッド・チャーマーズの“Constructing the world”という書籍の初読を終えた。この書籍は意識哲学の書籍というよりも認識論と形而上学に関するものであったように思う。先程の日記の中で、西洋の意識哲学はインド哲学の意識哲学に比べて深みを感じられないと述べたが、それについてはもう少し正確に述べたほうが良いように思えた。端的には、西洋の意識哲学も非常に深くまで議論を掘り下げているのである。その垂直方向への掘り下げは、インド哲学のそれに匹敵するか、それを凌ぐ可能性もあるぐらいだ。しかし、何を自分が問題視しているかというと、どうも西洋の意識哲学に従事する学者は本質を見抜き損ねた形で、本質ではないところを深堀りしている印象を与える点である。確かに意識の機能やそれに付帯する性質が明らかになってくることは意識研究上の進歩だと言えるが、それはどこまで行っても意識そのものの研究ではないのである。本来は意識の本質について知ろうと志しているはずの西洋の意識哲学者たちは、どうも本質とは違う穴を深く深く掘り進めている印象を強く自分に与える。バーナード・カストラップを含め、中には意識の本質について議論している意識哲学者が存在することは朗報あるいは福音であるが、依然としてそうした学者は西洋の意識哲学の研究コミュニティーにおいては少数である。依然として大多数は物理主義や物質主義のパラダイムに取り込まれているようで、それを批判している人たちもまた実は同じ穴のムジナとして意識の本質研究からは程遠いところにいる。西洋世界の中で生き、これから再び西洋世界の学術機関に戻って意識を研究しようとしている自分が果たすべき役割は、意識そのものの研究を進めていくことに加えて、既存の意識哲学研究のパラダイムの問題を指摘し、それを超克していくことを後押ししていくような試みに従事することにもあるだろう。そうした自覚を持ってこれからの探究を続けていく。

上記の事柄を考えてからまた少し時間が経った。すると、西洋の意識哲学の問題は空性や絶対無を突き詰めていないことにあるのではないかと思った。あくまでも西洋の意識哲学は相対性が支配する世界の中で営まれれていることに問題があるのではないかと思ったのである。科学は空性や絶対無について扱うものではなく、依然として科学主義とでも呼べる世界観が支配的な西洋社会において、意識哲学を試みることはどうしても相対性の世界の中に閉じたものになりがちであり、それが意識の本質を探究する道の妨げになっているのではないかと思われた。西洋の哲学者の中にも空性や絶対無の重要性に目覚めている人はいるが、意識哲学の分野においてはやはりその数は少ない。ぜひとも自分が行いたいのは、西洋の意識哲学のディスコースの中に空性や絶対無を導入するための道を作ることである。道を作り、その道を太く長いものにしていく形で意識の真理に近づいていく後押しをぜひともしたい。フローニンゲン:2024/1/18(木)09:24

11900. 呼吸の見直し/インテグラル・ライフ・プラクティスとしての
インド思想  

今日も天気に恵まれ、青空が広がっている。気温もどうやら1度まで達したようだ。ここから3度まで気温が上がり、ジムに行く時が今日の最高気温の状態で、ジムから帰ってくる頃にはまたマイナスの気温になりそうである。気温について書き留めていると、晴れた青空からパラパラと粉雪が舞い始めた。小さな踊りを踊りながら地上に降り注ぐ粉雪をぼんやりと眺めていると、自然と呼吸が穏やかになり、心もまたそれに伴って穏やかになる。そこに呼吸の偉大さを思う。呼吸のあるところに生命がある。生命あるところに心がある。

今現在ハタヨーガの実践をより日常にの中に取り入れることを行っており、それは瞑想の深まりを実現させてくれている。それがまたサイケデリック実践の深まりにもつながっていることは言うまでもない。ハタヨーガの実践に伴って、呼吸についても最近はまた見直しを行っている。日常のありとあらゆる局面で穏やかで深い呼吸を意識すること。もちろん武術鍛錬や筋力トレーニング中ではあえて鋭い呼吸をすることによって存在を別種に刺激することが有益だが、それ以外の場面ではできるだけ深く長い呼吸を心がけるようにする。例えば読書中の呼吸へ意識を向けてみると、深い呼吸をすることによって脳が冴え渡り、集中力が増した形で読書に励むことができることに気づく。また瞑想の実践においては呼吸法を通じた身心脱落状態が実現され、瞑想が深いものになっていく。呼吸という四六時中行っているものを見つめ直し、それを自己を深め、充実した日々につなげる実践として意識的に取り組むことをここからさらに意識したい。

インド哲学の思想を見れば見るほどに、そこにインテグラル・ライフ・プラクティスの在り方を見る。決して身体実践のみを強調しているわけでもなく、哲学的な議論のみをしているわけでもない。そこには生活の隅々に浸透する領域横断的な学習と実践を奨励する思想体系が存在することがわかる。ヨーガ学派のヨーガの学びと実践もまたそのフラクタルである。他の宗教において、身体の実践からスピリットの領域までをカバーし、食実践やヒーリング及び倫理的な行いにまで言及しているこれだけ深い学習実践体系を自分は知らない。ここにヨーガ学派を含めたインド思想の価値と意義を見出している。フローニンゲン:2024/1/18(木)11:23

11901. サイケデリック研究と意識哲学から考える輪廻転生について    

間も無く午後2時を迎える。午前中にぱらついていた雪は止み、今晴れ渡る青空が上空に広がっている。この日記を執筆してもう少しだけ読書を進めたらジムに向けて自宅を出発しよう。

今日の午前中に「インテグラル・サイケデリックラジオ」のリスナーの方からお便りをいただき、質問が輪廻転生についてどう考えるかという内容だったので、先ほど仮眠を取りながらそのテーマについて少しばかり考えていた。個としての意識の最も純粋な存在を純粋意識と呼び、それを魂と呼ぶのであれば、肉体の死と共に今の自己認識や自己同一性は消滅するように思え―-まさに夢を見ない深い眠りの意識の状態の時のように――、純粋意識は普遍意識に溶け込んでいく。その観点において、普遍意識に個としての意識は存在し続けるとも言えるし、存在していないとも言える。肉体の死を通じて、私たちの個としての意識はまさに空的な存在として普遍意識に同一化するのではないかと思う。喩えて言えば、私たちの存在は大きな海の中に生じる泡のような存在で、泡が消滅したとしても泡は大海に究極的に同一化し生き続けるとも言える。そして溶け込んだ大海がまた新たな泡を生み出す時、以前の泡が何かしらの影響を与えたり、以前の性質や要素を受け渡す可能性がある。人間に関しても、純粋意識の次元での情報的DNAのようなものが普遍意識に溶け出していき、それが次の生命に受け継がれる可能性があり、それを輪廻転生と呼ぶなら可能ではないかと思う。

再度考えをまとめると、肉体の死を通じて意識は拡張していき、それはますます純粋意識に近づいていき、それが究極地点に至った時に個人の意識は普遍意識と合一する。その時に、「この私」としての自己意識や自我認識などは消滅するであろうが、個の意識が普遍意識として存続し続けるというのは十分にあり得るシナリオである。この説を担保する科学的な発見事項としては臨死体験に関する各種の調査を参照すればいいし、肉体の死に伴う脳の活動の低下はサイケデリック体験に関する調査結果を参照してみればいい。それらの調査結果を総合すると、人間はどうやら肉体的な死に至る時に徐々に脳の活動を低下させていき、自我が溶解してきながらも意識そのものは拡張していき、個人の意識は普遍意識との非二元に向かうことが見えてくる。ゆえに肉体的な死ないしは機能停止と消滅はあるが、普遍意識との合一化をもって人間は不死であるとも言える。それは人間のみならず、意識を持つ生命体であれば同じことが言えるだろう。そして普遍意識と一体となった個人の何かしらの性質が地球上での新たな生命誕生の際に影響を与え、それをもって輪廻転生と言えるのではないかと思う。なので近年とみに増えている輪廻転生系のアニメのような形での転生は現実的ではないとしても、上記のような意味での輪廻転生であればあり得るというのが自分の考えていることである。フローニンゲン:2024/1/18(木)13:58

11902. 雪景色の中で8年前のこの季節のことを思って/
地に足を着ける学習・実践

時刻は午後7時半を迎えた。今日も非常に充実した1日を過ごすことができたことに感謝である。今日は午後にジムに行ったのだが、家の敷地内に雪が積もっていただけではなく、道路にも雪が積もっている箇所があり、雪景色を楽しみながらジムに向かった。途中で通ったノーダープラントソン公園は雪景色が特に美しく、凍った湖や雪で化粧された木々の美しい姿を眺めることができた。そうした光景を眺めながら、8年前にフローニンゲン大学のキャンパスビジットをした時はちょうどこの時期で、その時も雪が積もっていたことをふと思い出した。あれから丸8年経ったことがとても感慨深く、ここからの人生の歩みに自然と思いを馳せる瞬間があった。

今日のジムでのパーソナルトレーニングも大変充実していた。月曜日の自主トレーニングの際に無理をせず、その日は筋力トレーニングで追い込みすぎないようにし、逆に最後の有酸素運動の時間を増やしていた。筋肉が十分に回復したこともあって今日はエネルギー量が高い状態で思う存分に体を鍛えることができた。パーソナルトレーナーのエリーザはいつもメニューに工夫をしてくれるのだが、今日のメニューはコンビネーションのメニューを多くしてくれ、異なる刺激を通じてより総合的な負荷量が増すトレーニングに従事することができた。1時間の充実したパーソナルトレーニングを終えた後、そこからは30分ほど有酸素運動を行った。まず最初にローイングマシンを5分ほど漕ぎ、そこからスキーマシンに移動して3分ほどそれを使った。スキーマシンは心肺機能の強化に加えて上腕三頭筋を鍛えることにも適していて、今後もこのマシンを活用してみようと思う。そこからランニングマシンでのランニングをする形でトレーニングを終えた。

トレーニングを終えて改めて、意識哲学の研究、瞑想実践、サイケデリック実践の三位一体は抽象性が高いものであり、全て抽象空間の中で営まれるゆえに、ジムでの筋力トレーニングや武術の鍛錬は地に足を着けてくれる本当に貴重な実践だと思った。今後も天に向かう学習・実践と、地に足を着ける学習・実践の双方に従事していきたいと思う。それが自分の人生を調和的な流れで良き方向に導いてくれるはずである。フローニンゲン:2024/1/18(木)19:47

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