「クルイサキ」#1
序章 花便り
彼女の容態が急変すると、彼は全身の細胞を両の手のひらに集中させ、彼女と触れ合っている部分にすべての意識を注いだ。彼女の温度がじわじわと冷たくなっていくのがわかる。少しでも彼女からの熱を逃がすまいと、一層に力を込める。だが、効果は彼自信まったく実感できないでいた。冷たい汗が頬を伝うたびに迫ってくる焦燥感に押し出された形で彼は言葉を吐き出す。
「がんばれ」
彼女の容態は回復の兆しをまったく見せない。たちまち無力感に支配される。
彼女の息遣いが荒くなっていく。身を激しく捻じ曲げ、まるで彼女は繋がっているすべてのものから決別を望んでいるかのようだ。外界から隔離された殺伐とした手術室、無理強いさせられる呼吸、押し寄せてくる痛み、冷酷にそのときの秒読みをしているかのような心電図、彼女は彼の汗ばんだ手までもをすべて振り切って、生きることから飛び出すことを望んでいるのではないか。
これ以上彼女の苦しむ姿を見たくない。諦めよう。弱気だがなによりも正直な気持ちが声になろうとした、そのときであった。
「私は死んでもいい」呻き声に近いその声は、殺気だった手術室を鎮めるには充分に真摯であった。なにを馬鹿なことを、彼はそう言い返そうとした。
だが、声になる前に手術室が真空になったかのように張り詰めて、彼は言葉にすることができなかった。
彼女は自分の下半身に目を遣った。皆の視線が一斉にそこに注がれた。
「赤ちゃんを、私は赤ちゃんを」いまにも消え入りそうな声で彼女は胎内の赤ちゃんを呼び「産む」力強い声で言い切った。
医者は彼女の表情を覗いた。彼も同様に彼女を窺う。そこには苦しみながらにも、恍惚としていて、賢明に力を振り絞り赤ちゃんを産もうとする一途な決意が伝わってきた。母親になることの喜びさえも知れた。
医者は彼に視線を移した。彼は項垂れるように首肯を返した。
彼女は生まれつき心臓が弱く、母子共に健康に出産ができる可能性は低いと、医者に言われていた。わざわざ命の危険を冒すことはない、子供は諦めた方がいいと医者から説得されていた。
彼も同意見だった。彼女の命がなによりも先決だ。彼女に堕胎を提案した。
彼女は頑なに拒んだ。「子供の命を奪ってまでも私は生きたいと思わない。この子を絶対に産む」
「なにを言ってるんだ」彼は声を荒げた。たとえ彼女に手を振り上げてでも、彼女に自分の命を大切にしてほしかった。彼女に命の危険を及ぼす出産を思いとどまってもらいたい。
彼女は涙を浮かべながら彼の視線を逸らそうとはしなかった。まるで彼の言葉を奪おうとするかのように、強い意思が込められていた。
「この子を産めるのは私しかいない」
彼女の言葉が届いたところが熱くなって、彼の意識を痺れさせた。彼女はすでに母となっていて、子供の命を絶たす選択を下せるはずがなかったのだ。
彼女の覚悟を拒むことはできなかった。
あのときになぜもっと彼女の決意に抵抗しなかったのか、後悔をしていないと言えば嘘になる。だが、彼女の命の重さと、生まれてくる子供の命を天秤に掛けることはしたくなかった。過去の判断に正解など求めてはいない。それが彼女の運命だと受け止められることは到底できないが、彼女の選択に間違いはなかったと断言はできる。
彼が子供を抱いたときの感触は消えることはない。父になった責任感や、子供の純粋な命や、彼女の思いや、命が誕生した感慨が何重にも重なって、まるで地球を支えているかのように重かった。ただ、この子に出会えた喜びが、はるかにその重さに打ち勝って、ずっと支えていけると、そのとき思った。
君をずっと待っていた。
まだ言葉を知らない君にいまの感情を伝えたい。到底、言葉では言い表せない、神秘的な喜びを。
だから、君を抱きたいんだ。心と心とがくっつくほどに、君を強く抱き締めたい。
それなのに生まれてすぐに君は看護師に連れていかれてしまった。君の声はまだ聞けないでいる。
どうやら命の危険が迫っているらしい。
「子供を、私の子供を」誰ともかまわず、彼女は訴えた。装着されていた呼吸器を強引に払いのけた。看護師が近づいてきて、呼吸器を再びつけようとする「大丈夫ですよ。落ち着いてください」と注意までされた。
医者がその看護師に言った「いいから、赤ちゃんをお母さんのところに」看護師は困惑した表情をして、動きを止めた。
枕元で手を握っていた彼が手を離して、君へ駆け寄っていった。
君を抱きながら彼は戻ってきた「ぼくたちの子供だ」と胸を張って彼女に見せた。彼の表情はすでに父親そのものになっていた。
「抱かせて」彼女は慎重に譲り受け、君を抱いた。心音は届いてこなかった。
彼女は顔を近づけて、命を吹き込むように優しく唇を合わせた。君の声が聞きたい。
一瞬だけの静けさのあとに、君の命が聞こえた。その鼓動は彼女の心音と同じリズムだった。母親になった実感が込み上げてきた。
「あいたかった。ずっとあいたかったよ」
君を父親に託した。君の声が聞けた。君と会えた。間もなく昇天する喜びが訪れてきた。君はこの世で生きていける。彼女が託した命はずっと消えることはない。そう信じることができた。もう思い残すことはない。
彼女は薄れていく意識のなか、達成感と安堵感に包まれながら、眠った。
一章につづく
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