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僕らは問いをアップデートしているのか?

先日のサポのため息や悲鳴に関する議論の中で、shioincさんの記事が面白かったのでシェアしたい。

内容は記事を読んでほしいが、個人的に熱かったのは問いのアップデートがされていた点。
つまり、元々「サポの悲鳴やため息が選手のモチベーションを奪っている」という課題から「そもそもゴール裏から人が減っていて雰囲気が作れていない」という課題へ転換させているところである。

応援をこうしたい!という啓蒙的なものは、個人的にはある程度あっていいと思っている。
押し付け過ぎや受け手の感情に寄り添わない伝え方は逆効果になりやすいが、うまく伝わればプラスに働くこともあるからだ。

ただ発信が現状に合った課題意識から出てきたものでないと、当然解決はしない。
どころか、むしろ悪化させるパターンもある。
今回においても「悲鳴やため息」に対して嘆けば嘆くほど、ゴール裏に近寄りがたくなり、結果的に目指すものから遠ざかるという構図があったという指摘は、一定正しいと思う。

問いのアップデートはサポの仕掛けの選択にも繋がる。
例えば琉球戦は「入場待機列でのパネルを使った応援のお願い」というアクションを取った。
ただ、アップデートした認識に照らし合わせて考えると、

•今の客入りの遅さを考えた時に、一番アプローチしたいライト層がどれだけ入場待機列にいるのか?

という疑問が浮かんでくる。
いままで上手くいっていたことでも、状況が変わると効果的でなくなる例の一つ。
これは自分の反省点だけど、もう少し効果的にアプローチできるよう、次に活かしていけばいいと思う。

さて、ここまで問いのアップデートの重要性を書いてきたが、ここからはそれがどうしたら起きるのかを考えたい。

思うのは、サポが積極的に発信することが大事であろう、ということ。
まずみんなが見れる場所に共有されないと、何も始まらない。
だから、最初は粗くてもいいから考えていることをどんどん表に出してしまっていいんじゃないだろうか。

一人の人間が誰の力も借りずに世界を変えた例を知らない。
現存する発明品が、先人の発見の上に新たな発見を積み重ねて生まれてきたように。
クラブの課題も、積み重ねの果てに、個人ではなくコミュニティないし社会が解決するのだと思う。
だからこそ、認識や知識、アイディアの共有は必須であり、その集積がクラブやサポの集合知になっていくと考えられる。

集合知の形成にSNSの活用は不可欠。
ただ、個人的にはいま山雅サポの中で最も利用されていると思われるTwitterは、あまりそれに向いていると思えない。
理由としては、

•タイムラインが動的なので、重要な内容が流れていってしまい、後からのまとめ読みもできないこと
•他のSNSと比較して匿名性が高いため、誹謗中傷や虚偽を含む無責任な批判も多く、個人の発信における萎縮要素になってしまっていること
•140文字という制限によって説明不足や、致命的な誤読が起きやすいこと
•人の意見にリツイートやいいねをすることで何かを言った気になってしまい、それ以上の発展がしにくいこと
•自分に似通った意見を発信するアカウントだけをフォローしてしまうため、どんどん極論化していく構造があること

などが挙げられる。
特に近年のサポ周辺の停滞感ってネット監視社会の弊害みたいな部分もあって、何かやると理不尽に叩かれて、その結果アクティブな人が萎縮し、コミュニティ全体が牽制しあい、消極化していっているというのは否めない。
Twitterも部分的にそれに加担してしまっている節があるので、使い方は見直していきたいところ。

その点、Noteは上に挙げた問題点がわりとカバーされているので、もう少し山雅サポはWebコミュニティの軸をNoteに持っていった方が良いんじゃないだろうか。
これを読んでいるアンテナが高いあなたもどうですかね?なんて。

ということで、問いのアップデートの必要性と、それを起こすためのNoteの活用について書いた。
まとめると、

•僕らの課題を解決するには問いをアップデートし続けることが必要だよね
•個人の知よりコミュニティの集合知が大事だよね
•集合知を発展させやすい環境づくりのためにNoteをもっと活用したいよね

という話でした。
これにNoteでアンサーが返ってきたら熱いですね。

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