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もっと表現してもいいんだよ。
誰かに伝えたくて放った言葉は、すべて自分に跳ね返ってきた。
こんにちは。初めましての方は初めまして。たくやといいます。
自分と向き合うとはどういうことなのかを探求していたらいつの間にか仕事を辞め、今は喜怒哀楽に溢れる日々を送っております。身体も心も以前と変わらずとっても元気です。
みなさんは、いかがお過ごしですか?
このnoteで伝えたいこと
それはとてもシンプルなものです。
もっと、自由に、ただそのままに、表現していい。
だから、まずは自分がその一歩を踏み出そうかなと思いまして。
書きたいことをただ書く。それが、“自由”。
他人の目線、評価、判断を気にする自分がいて、思うように書けないもどかしさ、比較することによる失望感もある。でも、それらさえも、“そのままに”の大切な一部だと思うのです。
もちろん、だからと言って誰かを傷つけたり悪意をもって表現したりすることを推奨しているわけではありません。でも、それが今の自分のためになるのであれば、それが表現されるふさわしい場所があると思います。押し殺す必要は、きっとありません。
表現の価値について
ということで、何を書こうか書きながら悩んでいたところ、そもそも表現とは何かが気になったのでChatGPTに聞いてみました。
表現とは、考えや感情、意図などを言葉、行動、芸術作品などを通じて他者に伝える行為やその結果を指します。表現は多様な形を取り、人々が相互にコミュニケーションを取るための基本的な手段です。
“相互にコミュニケーションを取るための基本的な手段” という部分が、このnoteで伝えたい部分と重なっているように感じますね。私たちは誰かに何かを伝えたくて表現するんだと思います。
表現をためらうとき
そんなふうに誰かに伝えたくても、僕は表現することをためらう自分によく出会います。
表現することによる影響、すなわち表現後の未来のことを考えているからでしょうか。そして、その未来から逆算する形で表現されそうなものの価値を見定め、「価値はない、むしろ不協和を起こす」と考え、表現することを諦めているように思います。
表現することに付随する他者と、自分の願い
そうです。僕は表現するときにいつも他者のことばかり考えているのです。今だってそうです。こんなにも有益で価値のある情報や表現が溢れる中で、自分が表現することに意味や価値を見出せない。
誰にも受け取ってもらえないかもしれない、誰ともコミュニケーションを取れないかもしれない、そんな恐れから来ているのでしょう。その恐れの裏にあるのは、ただ誰かとコミュニケーション取りたい、というシンプルな願いかもしれません。
本当にコミュニケーションを取りたがっているのは誰か?
さて、ここまで「他者」「誰か」「価値」という言葉を使ってきましたが、どうやら表現しないことの都合のいい言い訳としてそれらを使っているようにも思えてきました。そして、このことは表現したがっている自分とのコミュニケーションを拒絶していたとも言えるのではないでしょうか。
それは、あまりにも悲しいことではないか、と。
だからこうして自分とコミュニケーションを取るために今書いているようです。
「もっと表現してもいい」というのは、「もっと自分とコミュニケーションとってみようぜ」という自分からのナイスな提案だったのです。
そう捉えると、表現することの価値は自分が決めていい。
だから「もっと表現してもいいんだよ」となるのかなって。
おわりに
ここまでお読みいただきありがとうございました。まだまだ書きたいことはあるのですが、長くなってしまいましたのでまたの機会にしたいと思います。
世界中で誰一人からも自分の表現を受け取られなかったとしても、自分だけは受け取っている。そのことを忘れずにいたいですね。
一方で、今の自分にはきっと受け取ってくれる人がいるだろうという確信があるのも事実です。そんな方々のためにも、お互いにとって豊かなやりとりができるよう表現していきたいと思います。
あらためて、ありがとう。
もしこれを読んで表現されたがっているものがあれば、ぜひこっそり教えてくださいね。もちろん、こっそりじゃなくても。
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