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#自分探し #自分らしさ #何者

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#生き方

絶望の後にしか現れない希望

あの時車窓からぼんやりと眺めていた、ただの風景でしかなかった街。 「ここに住めたらきっと通勤は楽だろうな」 「ここに住めたら終電を気にせず遊べそうだな」 気づけば今、その街に住んでいる。 あいにく、終電を気にせず残業をする日々だけれど。 望んだ未来もあれば、望まなかった未来もあった。 そのどちらも確かにあったけれど、今、そのどちらでもないような気がする。 決してシナリオ通りとは言えない、そんな日々を鬱々とした気持ちで埋めたこともあった。 思えば、初めからシナリオ

すでに自分らしいはずなのに、それでも探す"らしさ"ってなんだ

“自分らしく生きよう” まるで、僕らが自分らしく生きることができていないみたいな言い方だ。 確かに、「自分らしく生きることができている」と胸を張って言えたもんじゃない。 けれど、同時に「自分らしくいられていない」と思う理由や要素を説明することもできない。 漠然としたモヤモヤに、漠然としたキャッコピーが刺さり、漠然とした思考と行動のまま、僕らは明日からも漠然とした日々を過ごす。 “自分らしさ”ってなんだ。 自分探しをしたら見つかるのだろうか。 それっぽいものは見つ

重なる矛盾、矛盾にまみれた自分

「自己矛盾」は辛い。 いわゆる真面目な人であればあるほど、自己矛盾はひどく苦しい。 「迷っているなら一歩踏み出してみなよ」 「人と同じは嫌なんだよね」 自分が一歩踏み出せていない時に他人にアドバイスしてみたり、人と同じは嫌と思いながら、誰かの敷いたレールから外れないよう必死な自分。 言動と行動、思いと現状、それらが噛み合わなくなってくると、正確には、噛み合っていないことを自覚してしまうと、自己矛盾にばかり意識が向いてしまう。 僕自身も、矛盾してばかりだ。 じっくり

自分探しって、結局何を探しているのだろうか

自分探しとは、何を探す行為なんだろうか。 “自分”ならそこにいるはずだけれど、それでも何かを探し続けている。 何が見つかったら、自分探しの旅は終わったと言えるだろうか。 “何を探しているのか”を知るところが、自分探しの始まりだ。 もしかしたら、“何を探しているのか”が分かったら、自分探しの半分くらいは完了しているのかもしれない。 「らしさ」、「生き方」、「やりたいこと」、どれを探すかによって探し方や必要な道具は異なる。 漠然としたモヤモヤに流されて漠然とした自分探

「普通」じゃ満足できないボクらは

「普通」という言葉に、どれほど振り回されているのだろうか。 「普通で良い」とか「普通じゃ嫌だ」とか、何でもかんでも「普通」が基準になっている。 そもそも、そういう基準になるものが「普通」なんだろうけれど。 「普通でいたくない」という欲求が行動のモチベーションになったり、何かのきっかけにもなってしまうくらい。 「普通」に満足できることなんて、あるのだろうか。 普通でない何かを手に入れたとしても、一度手に入れてしまったら、やがてそれは「普通」になってしまう。 そうして

本当の自分は、決して1つじゃない

「あんまり素でいられてないな」 「ありのままの自分が分からなくなった」 「自分自身が何者であるか知りたい」というのは、「素の自分とはどんな自分なのか知りたい」という欲求に近いのかもしれない。 地元の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、親に見せる自分、上司に見せる自分、部下に見せる自分、恋人に見せる自分。 どれも違う。 そう感じる度に、「本当の自分って何なのだろう」とモヤモヤする。 けれど、実際はどれも本当の自分だ。 「自分はこういう人間だ」 どうも、一

幸せは、手に入れた瞬間逃げている

今あるもので十分だと思いたい。 行きたかった場所に来れていること、住まいがあること、一人じゃないこと。 それなのに、どうしてもっと欲しくなる、新しいものを欲しがるのだろう。 自分がかつて欲しいと願ったものは、今目の前にあるというのに。 目の前のことが思うように進まなくて、自分よりもできる人の姿を見て嫉妬するどころか、もう辞めちゃおうと考えてしまって。 「自分に今の場所は無理だよね」 「理想を思い求めすぎたよね」 気休めにも言い訳にもならない、そんな思いを声に出す気

何もうまくいかない。いつも“大きく”考えてしまう僕ら

うまくいっていない時、何となく「何もうまくいってない」と思いこんでしまう。 「あー、恋愛と趣味と友人関係はけっこう良い感じなのに、今月の営業成績だけが悪くて仕事がうまくいかねぇ」 とはあまり思わない。 それくらい冷静に考えられる内は、むしろ「大丈夫」なのかもしれない。 「全然だめだ」、「何もできていない」、つい事を大きくしてしまう。 それ自体はよくある話だけれど、度が過ぎると不毛な自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう。 何か失敗をした時に「もうこれから先何をやっても失

万人受けしようとすると、誰にも受けなくなる

マーケティングやブランディングといったビジネスに限らず、人間関係や生き方にも同様のことが言える。 みんなに好かれようとすると、広く浅い関係値になってしまうかもしれないし、ツッコミどころのない生き方をしようとすると、無難になってしまうかもしれない。 自分が周りに合わせていくことも大事だけれど、どこかで“わがまま”にならなければいけない。 誰にだって、譲れない何かが一つや二つある。 それを譲ってまで維持したい人間関係、生き方、果たしてそれは本当に自分が欲しいものなのだろう

どうして、「ビジョン」が必要なのか

あなたのビジョンはなんですか? 入試、企業の選考、上司との面談、様々な場面で聞かれる。 自分は「ビジョンなんて別にいらない、無くてもいい」と思っている。 だって、先のことなんて分からないし、先のことを考えたって結局今しか生きれないじゃないか、と考えているから。 ただ、そんな自分にモヤモヤしているのも事実で。 今を全力で生きるモチベーションこそ、ビジョンなんじゃないか 良くも悪くも行き当たりばったりなんじゃないか なんてことを考えてしまう。 - 企業や上司がビジ

答えられないアイツを見て、安心したいだけなんだよな

「お前は何がしたいの?」 「将来のビジョンはありますか?」 友人からも、企業の人事からも、自己啓発本からも、散々浴びせられた。 「分からない」 分かろうとしても、結局やってみないと分からない。 あれだけ「やりたい」と思って始めた習い事も、蓋を開けてみたら大してのめり込めなかったし、反面、やりたくなかったけど引き受けた「リーダー」は案外楽しかった。 「結局、やらなきゃ気づけない」ということだけが、唯一分かっていることだ。 - 僕は就活生ということもあり、周りからの

「他人の期待」に依存していただけかもしれない

他人の期待に応えるのは楽だ。 分かりやすく自分自身の存在意義を実感できるし、期待に応えようとすることですべきことが見えてくる。 期待に応えると感謝されて、それが嬉しくてまた応えようとする。 ただ、それを続けた先には「依存」がある。 他人の期待に応えられないと満足できなくなったり、期待に応えられなくなった時、自己嫌悪に陥ってしまう。 だから、期待に応えられない時の苦しみは大きい。 「これまで期待に応えてきた自分」というレッテルが少しずつ剥がれていくような感覚。 そ

自分がどうなりたいかなんて、自分にも分からない

人生における選択を迫られた時、漠然と現状にモヤモヤしている時、「結局、自分がどうなりたいか次第だよな」と思うことがある。 「何か新しいチャレンジをしてみたい」 今の仕事を続けながら、新しいことにチャレンジするのか。 思い切って転職や独立をして、真っさらな状態からチャレンジするのか。 いずれも正解にも不正解にもなり得るから、将来的に自分がどんな生き方を望んでいるのか、すなわち「自分がどうなりたいか」で決めるしかない。 と、思っていた。 「自分がどうなりたいか」が迷っ

自分で、自分にレッテルを貼ること

「普通の社会人が〜」とか「しがないサラリーマンが〜」とか、自らをそう表現している人は少なくないけれど、そんなこと言わなくて良いのに、とたまに思ったりする。もちろん、自分自身に対しても。 言葉の使い方は生き方そのもので、どんな言葉を使うかで、自分自身がどんな人間になれるか、決定されていくような気がする。 「自分はすごい人だ」と言えばすごい人になれる、そんな単純な話ではなく、自分自身が貼り付けたレッテルに多少なりとも見合おうとする心理が働く、という話。 おそらく、「理想」を