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#余白 #ひと休み

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深呼吸。
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#自分

自分さえ知らなかった未来に今自分はいる

階段を右足と左足で交互に、リズミカルに降りていくように、日々何かが心に浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。それを言葉にする暇もなく。 言葉にしたくなかった葛藤。 言葉になれなかった苦悩。 言葉にすべきだった恋心。 そういうものほど案外消えずにずっと残っていたりするわけだけれど、消えてしまったことさえ思い出せないような感情の方が、きっと多い。 何かを忘れたり忘れたことさえ忘れてしまう、失くした分だけ拾っていく、人生とは意外とそういう繰り返しで、どれもが刹那的だ。 後に

金曜日、今日もみんな平気な顔して生きている

大人になって「自分」が分からなくなるのは、ありのままとか素をなかなか見せられなくなるからかもしれない。 誰かの顔色を伺ったり、自分の立場を気にしたり、数少ない心を開ける友人と気づけば疎遠になっていたり。 だから、こうして平気な顔をして生きている。何事もなく、いや、何事もなかったかのように一日を過ごし、あっという間に一ヶ月、一年と経過している。 時には、「平気じゃないんだよね」ということさえ、平気な顔して言ってみたりする。 そうしているうちに、段々と分からなくなっていく

好きではないけど、嫌いじゃない。自分にとってちょうど良い表現

「自分の好きなところはなんですか?」 「好きなことはなんですか?」 「〇〇が好き」よりも「〇〇は嫌いじゃないかも」と考えたくなってしまうのは悪い癖だ。 好きなもの、と聞かれるとものすごくハードルが上がってしまう。 「そこまで好きじゃないしな」 「最近あんまりやってないしな」 なんて余計なことを考えてしまう。 人にはそれぞれ、自分にとって“ちょうど良い”表現がある。 前向きな表現において、アイデアがどんどん出てくる人もいれば、 一見後ろ向きだったり控えめに見える表

手は抜かないけど、肩の力は抜く

仕事の自分も、noteで文章を書く自分も、“肩の力は抜いても手は抜かない”自分でありたい。 仕事については、「仕事」という性質上手を抜きづらい気がするけれど、noteで文章を書くことは仕事ではなく「趣味」に近いので、肩の力も手も抜けがちだ。 そう思うと肩の力は抜けるけれど、手を抜いてはいけない。 noteで書く文章は、クライアントや編集者に提出するものではないので、「一体何に対して手を抜いてはいけないのか」と思ったりするけれど、自分に対してかな、と思う。 好きなように

眠れない夜が好きだった

眠れない夜、眠る前のあの余白の時間が好きだった。 まだ幼かった時、真っ暗な部屋の中で僕は宇宙にいた。 人に話してもあまり共感されなかったけれど、眠れない時はたいてい、宇宙や死、「眠る」という行為について考えを巡らせていた。 真っ暗な部屋がそうさせていたのか、眠る前独特の心理がそうさせていたのか、はたまたただの好奇心か、どうだったのかは分からない。 「宇宙ってどこまで続いているんだろう?」 「死ぬってどういうことなんだろう?」 「眠る瞬間ってどんな感じなんだろう?」