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持ちつ持たれつ

医学と基礎生物学は、持ちつ持たれつで発展してきた。
病気の研究をすることで生物学が進展し、生物学の成果により医学が進歩する。

医学は体の異常を研究し、
基礎生物学は体の正常を研究する。
異常を理解するためには正常が必要で、正常を理解するためには異常が必要だ。

医学部のカリキュラムでは、最初に正常な人体を勉強する。
解剖学、生理学、生化学などなど。
これらは全て人間がどうやって正常に生きて動くのか教えてくれる。
念のため書いておくけれど、どこまでが正常か決めるのは存外むずかしい問いだ。
はっきり異常と言えるのは死んでしまうような機能の破綻で、それに倣えば正常とは生存を維持できることだ。
しかしもっと高度な機能になると、社会システムが正常と異常を分けるので明確に線引きするのは難しい。
本題ではないのでここでは深入りしないでおこう。

ともかく、医学と生物学はお互いに分かちがたい。
例えば、がん遺伝子と呼ばれる一群の遺伝子がある。
それらの遺伝子の多くは細胞が増えたり、死ぬのを防ぐための遺伝子だ。
もともと細胞や体にとって必要なもので、ダメージを受けて脱落してしまった皮膚やら腸やらを再生するさいには細胞が増えなくてはいけない。
しかし遺伝子そのものの性質が少し変わってしまって、必要じゃない時に働き始めると細胞はむやみやたらに増えてしまい、最終的にはがん細胞になる。

ここでいう、「細胞が増えるのに必要」というのがその遺伝子の正常な機能で、それが一部壊れ「勝手に細胞を増やす」遺伝子になってしまうと、それを異常と呼ぶ。
ちなみに最初期に発見されたがん遺伝子であるsrc(サーク)やras(ラス)は、壊れた異常な状態だった。
遺伝子の一部が正常から変化して制御が効かず、本当にむやみやたらと細胞を増やす方向に変異してしまっていた。
さらに驚くべきことに、それはウイルスゲノムの中から見つかったのだ。
幸いそのウイルスは鳥にしか感染しない。
そのウイルスが感染すると鳥が白血病になることが知られていて、その原因を調べる途中でみつかったらしい。
鳥からすればそのウイルスはたまったものではないだろう。
ともあれ、ウイルス(virus)の頭文字をとって、その暴走するような変異を持った遺伝子はv-srcやv-rasと呼ばれるようになった。
v-srcやv-rasが細胞を無限に増殖させる機能をもっていることから、もともとのsrcやrasも細胞が適切に増えるのに必要なのだろうと推察された。

これは病気をもとに正常な体の機能と、それが壊れて病気になってしまう原因を解明した例だ。
いわば自然にできた異常をもとに、正常の機能に迫った例としてあまりにも有名だ。
生物学では、正常の機能を調べるためにわざと人工的に異常を作り出して調べることが多々ある。
人間ではできないので実験動物をつかう。
ごく標準的な実験手法だ。
最近では、流行りのクリスパーを使って遺伝子を改変し働かなくさせる手法がよく使われる。
体にでた「症状」をもとに正常な機能を調べる方法が、ゴールデンスタンダードだ。

生物は自然が作ったオーパーツみたいなものと考えてみよう。
我々は例外なく自分の体を持ち、それを使い、あるいは使われて生きている。
それにも関わらず、どういう仕組みで動くのかよくわかっていない。
よくわかっていないまま利用する。
もっといえば自分がオーパーツそのもので、それを普通のこととしている。
大昔からごく一部の人間が、自分をふくめ世界に数多あるオーパーツに興味をもち、その仕組みを理解しようとしてきた。
人間は知恵をつかい複雑な道具や機械を作れるようになったけれど、まだ生命には及ばない。
なぜなら仕組みを理解していないからだ。
理解していないものは作れない。
最近では本当にわかったのかどうか確かめるために、部分的に生物の機能を人の手で再構築する試みが広がっている。
分野としては合成生物学というのだけれど、その分野の合言葉は「作れてはじめて理解できたと言える」というものだ。

工学の分野では物理学や数学の成果をもちいて様々な技術を生み出してきた。
彼らはこの世界の物質的な現象を説明する原因や法則を利用し、あらたな道具や機械を作ってきた。
それらが見事に動くのは、彼らが仕組みを理解しているからだ。
すごく当たり前のことなのだけれど、生物というとてつもなく複雑なものをほんの一部分でも人間の手で再現するのは今でもかなりの困難を伴う。
現時点では一から作ることはまったくの不可能ごとで、遺伝子をいくつか細胞に組み込み、予想した通りに動かしたりできる程度だ。
これでも以前から考えれば大きな成果で、それも年々複雑なことができるようになっている。
こういった試みはある水準を超えると爆発的に進歩するので、ある時に突然、降って湧いたように生物機械的なものが、社会に役立つ技術として登場するかもしれない。

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