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上階へ至る道

ひとりひとり個性があるように腫瘍もひとつひとつ性質が違うから、それに合わせて治療する。
患者の持つ遺伝子のバリエーションを調べ、それに合わせた薬剤を選択する。

個別医療という言葉を最近、特に耳にするようになって、耳にするたびこの流れの起源について考える。
思想的なものではなくて、どういう研究の積み重ねによって可能になったのかについて。

直接つながりのある研究をたどれば、大本は19世紀末に始まったウイルス学だと思う。

ウイルスは細胞の中でしか増えることができない。
おまけに、レトロウイルスと呼ばれる一群のウイルスたちは、感染した細胞のゲノムの中に、自分のゲノムを挿入する。
まさしくコピペするように、自分のDNA配列をインサートしてしまう。
ヒトゲノムは、こういった外来の配列にその大部分を占められている。
挿入されたウイルスゲノムは条件が整うと、自身のDNA配列を再びコピーする。
コピーしたDNA配列はタンパク質の殻で覆われ、ウイルス粒子として細胞外に放出される。
こうしてまた別の細胞に感染できるようになり、ウイルスは体内を拡散していく。

そして、再び自分のDNAをコピーする際に、ウイルスはときどき間違いを起こす。
自分のゲノムだけコピーすればいいものを、自身が挿入された場所の周囲にある、細胞のゲノム配列も一緒にコピーしてしまう。
文章をコピペするときに、誤って前後の文字列も選択してしまうようなものだ。
間違ってコピーした細胞のゲノムは、そのままウイルスゲノムとして扱われてしまう。

ニワトリに感染するラウス肉腫ウイルスというレトロウイルスも、こういった要領でニワトリのゲノムを一部、取り込んでいた。
それもよせばいいのに、あるがん遺伝子の領域を取り込んでいた。
このウイルスに感染したニワトリはがん遺伝子を発現するようになり、結果、白血病を発症する。
この研究によって始めて、がん遺伝子の存在が明らかになった。
1970年代の話だ。
さらにこのがん遺伝子はヒトを含む他の生物にもあることがわかり、がんを引き起こす遺伝子の存在が広く知られるようになった。

補足しておくと、がん遺伝子は通常の状態でがんの原因になるわけではない。
過剰に働いた時にがんを引き起こす遺伝子のことをがん遺伝子と呼んでいる。
ラウス肉腫ウイルスに含まれていたがん遺伝子はsrcと名付けられたが、そのsrc遺伝子は一部分を欠いていた。
遺伝子の一部を欠くことによって、src遺伝子が通常より活性の高い状態になってしまう。
欠けているのに活性が高いのは、遺伝子の機能を抑制するパーツがなくなっているからだ。
ブレーキのない自動車のようなものだと思えば分かりやすいかもしれない。
自動車は社会に欠かせないが、ブレーキの壊れた自動車は社会にとって有害な存在でしかない。
反対に、機能しなくなるとがんになる遺伝子のことはがん抑制遺伝子という。
がん遺伝子も、がん抑制遺伝子も、どちらも身体にとって必要な遺伝子で、その壊れ方によってがんになったりならなかったりする。

さて、これでひとつsrcというがん遺伝子が見つかったわけだが、そこから猛然と、がん遺伝子探しが始まった。
1980年代には重要な機能をもつ遺伝子の研究が進み、多くのがん遺伝子が発見されている。
それぞれの遺伝子の壊れた場所(変異)とがん化の因果関係について実験が行われ、明らかにされていった。
同時にがん患者のゲノムDNAを調べ、どの遺伝子にどのくらいの頻度で変異が入っているのか調べられるようになった。

がん患者のゲノム配列を調べる流れは2000年代に入って加速する。
次世代シーケンサーと総称される装置が開発され、大量にDNA配列を決定できるようになった。
DNAはA, T, G, Cの4種類の核酸 (塩基)が数珠つなぎになった高分子で、そのATGCの配列を決める装置のことをシーケンサーと呼ぶ。
それまでのシーケンサーが一度に読める量は10万塩基だった。
それが新しい技術によって1000億塩基くらいになった。
読める量は装置のグレードや条件によって違うのだけれど、全く次元の違う量を処理できることに変わりはない。
急速にがんに関連する変異の情報が集積し、巨大なデータベースが構築された。
ここでようやく、その情報を使い、個人に合わせた治療をしようという流れになった。
ウイルス研究の開始から少なくとも100年はかかっている。
がん遺伝子の発見から考えても40年はたっている。

ウイルスの研究は、人類の脅威を取り除くという点で必要性が理解されやすい。
しかし、ニワトリの腫瘍の研究は場合による。
ヒトではなく、わざわざニワトリの腫瘍の研究をする理由は、直接、役に立つという点からは説明しづらい。
あるいは、すべてのがん遺伝子が最初からがんに関係すると分かっていたわけではない。
純粋にある遺伝子の機能を調べていたら、あとからがんに関係することが分かったケースも多い。

わたしは大学院生の時、ある遺伝子の機能を調べた研究発表を聴いていた。
発表者は、理学部に所属する有名な若手研究者で、聴衆はほとんど医師だった。
発表が終わり質疑応答が始まる。
早速、ひとりの医師が手を挙げて質問をした。

「先生の研究は、臨床に応用可能ですか?」

あなたの研究は病気を治すのに役立つか? という意味の質問だ。
たしかその若手研究者は、「すぐに役に立つというものではありません。まずは正常な機能が分かったというところです」と答えていた。

基礎研究者に「あなたの研究は役に立つか?」という質問を投げかけるのは、的を射ていない。
遺伝子の物質的本体がDNAであることを突き止めたワトソンとクリックに、その研究でがんは治るのかと質問するのはナンセンスだ。
研究には階層がある。
建物の基礎工事をしているひとに、「なぜ早く十階を作らないのか?」と聞いているようなものだ。
土台がないと上の階は建てられないが、土台から高層階まで至るのに、数十年から、場合によっては数百年かかる。
否応なく、堅牢で複雑な構造物を建てている。


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