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付加して、共有して、楽しい

ヤンデル先生とやっているPodcast番組の「いんよう!」やこのnoteは誰に頼まれたわけでもなく、何を目的に続けているのかいまいち自分でもすっきり整理されていない。
近頃、Twitterを眺めたり他人のnoteを読んでいて、結局わたしは、「理系メガネ」をかけると楽しいよ、と言いたいだけなのだと思うようになった。
「理系メガネ」のおおよその内容は、1年ほど前、Podcastを始めたばかりの頃にすでに話したのだけれど、その時は動機の中心とは考えていなかった。

例えば、街中で赤ん坊を見かけたら、受精卵からひとりの人間の個体が出来る過程の概略が頭に浮かんできたりする。
それは何よりも精巧なメカニズムを有する現象で、最終的に数十兆個の細胞が、許される誤差の範囲に整然と配列していく過程だ。
どこかに司令部があるわけではなく、それぞれの細胞は自分の中にプログラムされた役割を果たしている。
基本理念としてはピタゴラスイッチと同じだ。
レールをボールが走ったり、ボールの重さによって滑車が動いたり、それぞれのパーツは物理法則に則って動いているだけなのに、それらが連続し組み合わされシステムとなる様子を俯瞰で眺めると、ちょっとしたカタルシスや、ある種の安心すら覚える。
最初は数十個の細胞によるピタゴラスイッチで、細胞が増えるに従い、その仕組みは複雑になる。
あるピタゴラスイッチが別のピタゴラスイッチに繋がり、ピタゴラスイッチのドミノが続く。
全てがぴったりゴールにたどり着いた時、個体が完成する。

例えばとんぼの翅(はね)が七色に光る時、頭の中には光の干渉の様子が思い浮かぶ。
翅を見る角度を少しずつずらすと、見える色が連続的に変化する。
入射角による光路差が変わり、干渉によって増強される光の波長が変化するからだ。
光の干渉の抽象的なイメージが、翅の放つ構造色の上にARのごとく投射されている。

理系的な知識を持って世界を眺めると、常時、起きている限りにおいてずっと、違う景色が見えている。
その景色の見え方を比喩的に「理系メガネをかける」と表現している。
元ネタはサンキュータツオさんの「BLメガネ」で、BLを知って世界の見え方が全く変わったと仰っていた。
理系の知識は何年もかけて少しずつ身につけたので、ある日を境に世界が変わったわけではない。
むしろ自分では、科学的な知識を通して世界を眺めることがごく当たり前だった。
他人と自分は決定的に違う人間であるとずいぶん遅まきながら気がつき、全ての人が科学的なものの見方をしているわけじゃないと初めて分かった時はちょっと驚いた。
何も、これからの時代、サイエンスリテラシーを持っていて貰わないと困る、というような話ではなく、もっと単純に、理系メガネをかけると楽しいのにな、と思っている。
「いんよう!」の中でアニメの話をよくするのは、サイエンスの話にときめく気持ちと、アニメを観ていて楽しい気持ちが自分の中では等価値で、区別しなくてもよいと思っているからだ。

そもそもが生きていてつらいので、何のフィルターも通さず世界を見るなんていう苦行をやっていられるか、という投げやりなのか逆ギレなのかよく分からない気持ちがある。
刻々と目の前で展開されていく人生と世界に、少しでも楽しい情報を付加しながら生きていたい。
そして何なら、その楽しさを他人に共有してもらいたい、というごく個人的な欲望が、Podcastあるいはnoteとして漏れ出ているだけだと思う。

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