科学ニュースの未来

石戸諭さんの『ニュースの未来』を読んで、ニュースには様々な形態があることに気がついた。

速報やスクープ記事、独特の新聞記事文体、ルポタージュなどで伝えられる情報はすべてニュースだ。
これまではそんなことをまったく意識せず生きてきたので、考えたことがなかった。

本の中でいわれているように、人間が起こした出来事を伝えるものがニュースだとすると、科学論文は、人間にではなく物質世界についてわかったことを伝えている。
ヒトではなくモノを扱っている。
もちろん、気象であったり、半導体技術であったり、直接人間の生活や経済に関係する点で大きな意味を持つ科学論文もあるが、それは科学の一部でしかない。
遠く離れた銀河の中心にダークマターが存在するかどうかは、今のところ直接人間には関係ないし、人間が起こしたことではない。
ちょっと言い訳しておくと、研究の世界にも人間ドラマは存在する。
研究をしているのは人間だし、新しい科学的発見をしているのも人間だから。
しかしそれとは別に、なぜ物は下に落ちるのか、とか、星々はなぜ周期的に空を回り続けるのか、といった物質世界の謎に答えるのが自然科学の役割だ。
主役は人間ではなく物質なのだ。
人間も物質だろうという反論を思い浮かべた人ももしかしたらいるかもしれないが、それはその通りだ。
生命科学は人間を含めたすべての生命の物質的な側面を明らかにしようとしている。
だから、石戸さんのいうニュースと科学論文は対象が違う。
しかし、伝え方には共通点がある。

科学的な発見を伝える方法の中心は論文と学会発表だけれど、これらは雑誌の記事に似ている。
現に我々がまとめて「論文」と呼んでいるのは、学術雑誌に掲載されたレポートやレター、アーティクルのことだ。
必ずしも守られているわけではないが、論文の中で明らかにする仮説は一つという原則がある。
例えばある遺伝子がある病気の原因である、という一つのテーマを証明するのが論文だ。
もし、もう少しまとまった形で情報を伝えたいならそれは総説の形をとったほうがいいだろう。
レビューやパースペクティブなどの類だ。
複数の論文の結果をまとめて、およそ直近10年ほどの間に分野の中で明らかになった事実を記述する。
雑誌や新聞でいえば、特集記事や連載企画に相当する。
反対に、速報や新聞記事のようにスピーディーで日々新しくもたらされるニュースは、ポスター発表に当たるだろう。
とはいえ、およそ1年間にわかったことという、タイムスパンの遅さなのだけれど。
生命科学分野では、ホームとする学会で年に一度、得られたデータをポスター発表して、情報交換したり議論したりする習慣がある。
分野によってもちがうと思うが、わりと一般的な風景だ。
まだ論文になるほどまとまった結論は得られていないが、少し進捗したのでご意見ください、といったように。
(中にはそのまま論文になるレベルのポスターもあるが)

話は脇に逸れるが、卒業研究の実質的な研究期間は半年くらいだと思うので、そこで得られる情報量は、ニュースで言えば速報くらいだと思う。
第一報、といった感じだ。
しかしそれがダメなのかというとそうではなくて、ニュースでもまず速報やスクープ報道があり、そのあとにもう少し詳しく調べた記事が出てきて、大きな事件であれば、何ヶ月か期間をおいてルポルタージュやノンフィクションの記事・書籍が世に出るだろう。
それぞれスピードと詳しさのバランスにちがいがあり、それぞれに役割がある。

この本の中でニュージャーナリズムについて詳しく言及されている。
ひとことでまとめてしまうと、小説的な手法を用いて「あたかも見てきたように書く」ところに特徴がある。
もちろん都合よく勝手にシーンを作っていいわけではない。
対象となる事件を徹底的に取材し、証言や証拠を集める。
それらをもとに、本当は立ち会っていない事件の現場を再現する。
再現する際に、小説のように物語る手法が取り入れられている。
登場人物の行動、現場の描写などを小説的に表現する。
それまでのジャーナリズムであれば、集めた証言をまず記述し、それから真相を推察する方法をとっていて、今でもこの方法が主流のように思えるが、しかしそれでは伝えられないディテールがある。
そこをなんとか伝えたいという思いの中から生み出されたらしい。
翻って研究の世界でも、ニュージャーナリズムのように物語ることは主流とは言えない。
論文や学会発表では、実験の結果、つまり事実や証拠を並べ、そこから考察に入る。

ニュージャーナリズムでは、客観性を犠牲にする代わりに(だからこそ適当な想像を避けなければいけないのだけれど)、小説的な手法を導入する。
じつはというか当然ながら、研究者の頭の中にも、細胞の中でどう遺伝子が働くか、などといったビジュアルイメージが存在する。
そして、それを物語風に語ることはフォーマルな場面では良しとされない。
しかし、あくまで補足としてだけれど、論文や学会発表の最後でそういうイメージを図にしたり話したりする。
証拠を列挙してから考察する方法は、その分野に強い興味を持つ専門家以外には興味を引きにくいし、理解しづらい。
現に私も、自分の専門以外の論文を読むのはかなりしんどい。

『ニュースの未来』を読んで、ニュースの形態に種類があることを知った。
そして、「ああ、そうか」と思った。
科学的成果についてもTPOに合わせて語り方を変えてもいいのだと意識できるようになった。
ニュージャーナリズム的に科学を物語ってもいい場面があるのだと思えるようになった。
ときにはSF小説のような形で、科学をつたえることも可能だろう。
(気をつけないと嘘の情報を与えることになってしまうのに注意しながら)
それぞれに意義があるのだ。

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