見出し画像

独学研究のススメ(知識は蜘蛛の巣状に広がっていく)

さて、「領域を狭く」と言ってみたものの、こんな反論をされるかもしれません。
「範囲が狭いとすぐに飽きてしまうのでは?」

なるほど分からなくはありません。「ノルマを達成したらもうやる事ないのでは」と思うのは、人のサガでしょう。

ただ、個人的にはこういう考えはどうも昨今のノルマ至上主義、宿題とか課題の捉え方に近いところがあり、妄執に近いです。これに固執するかぎりは思うような研究は出来ないのではないでしょうか。

結論から申し上げますと「知識は蜘蛛の巣状に広がっていくもの」なのです。「そのくらい知っているよ」と思うかもしれませんが、実際やってみるとそれをいやという程を実感します。

むしろ、一つのノルマを潰して全て理解できるようなことは、独学研究に当らないのではないでしょうか。その程度の問題は今や入門書や教科書に出ている事でしょう。

「まさか」と思うかもしれませんが、世の中にある事象をいざ文章化してみると、それをはっきり答えられる人は意外に少ないものです。

一例として、夏目漱石の傑作『吾輩は猫である』のWikipediaの概要を引用してみましょう。

『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しで始まり、中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たち、「太平の逸民」(第二話、第三話)の人間模様が風刺的・戯作的に描かれている。
着想は、E.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』だと考えられている。 また『吾輩は猫である』の構成は、『トリストラム・シャンディ』の影響とも考えられている。

夏目漱石や『吾輩は猫である』のあらすじは言えたとしてもそれ以上はどうでしょうか。

『ホトトギス』とは何か言えますか、更にはE.T.A.ホフマンの長編小説『牡猫ムルの人生観』、『トリストラム・シャンディ』が一体どういう作品でどのように影響を与えているか言えますか。

Wikipediaの平易な記載でさえもこれくらいの謎が埋まっているのです。さらに詳細を調べれば、吾輩は猫であるのモデル、作品のパロディ元、落語の影響など、様々な論理が展開されています。

更には、その時々の情勢、夏目漱石の状態や趣味、文学界の動向、後世の影響などといった見えない概念まで視野に入れねばなりません。

これらの殆どを理解して、まとめられるなら、『吾輩は猫である』の独学研究などする必要はないでしょう。これは別に『吾輩は猫である』だけではなく、すべての事に言えます。好きなワードに置き換えてみたらどうでしょうか。

「wikipediaの記載や一般書籍の記載だけでは解決できない程度の負荷と調べごたえ」と論じたのは、そうした「一つ二つ潰した程度でノルマが達成され、すべて理解できる」程度の事に満足して欲しくない、そして知識が蜘蛛の巣状に広がっていく様を形成するために必要だからです。

では、知識が蜘蛛の巣状に広がっていく――とはどういう感覚なのでしょうか。
 
色々と例えるものがあります。

たとえば、ゲームのスキル。最初は基本的な攻撃しか覚えられなかったものが、レベルアップやストーリーの進行に連れて強力な技を覚えていく。最終的にはスキルがどんどん枝分かれしていって、強力な技を生み出す事が出来るシステムというべきでしょうか。



 
また、絵本やお遊戯などでよくある言葉遊び――「りんごは赤い、赤いは夕日、夕日は太陽、太陽は暑い、暑いは夏……」みたいな「それにまつわる事象」をドンドンつなげていく、イリュージョンと例えてもいいかもしれません。
 
あるいは、ネズミ算――一対のネズミから十匹のネズミが生まれ、そのネズミがそれぞれ結婚してまた十匹ずつ子供を産む、その子供たちが――と無限的に広がるそれを指摘するべきでしょうか。
 
知識や単語は、一見すると一つのノルマや事象のように見えるのですが、実は違います。皆、密接に関係し合っているのです。
 
いささか公案じみた話ですが、「目の前にある言葉や事象は単独のように見えるが、実際は多くの因縁で結ばれており、どれ一つとっても孤独になることはない」のです。
 
 少し難しくなってしまいましたが、すごくわかりやすく言うと「一つの知識を掘り始めると他の知識も必要になって来る」「その知識はほぼ無限大に広がっていく」わけです。
 
ある程度負荷をかけた問題を掘り下げていくと、本当にネズミ算の如くに広がって行きます。一つ潰してはまた新しい問題が出てきて、それを潰すとまた違う方向から問題が出てきます。
 
もし、これが「あほらしい、無駄である」――とコスパ重視で考えるようなら、独学研究はあまり向かないと思われますので、下手に手を出して後悔するよりも早急に撤退すべきでしょう。
 
アレコレと問題が出てくるわけですが、この問題を解いていく深みこそが研究の醍醐味と言ってもいいのかもしれません。

繋がっていく面白味もあれば、その時はわからなかったことが、後年ある瞬間にすさまじいひらめきを得て、謎を解く――こんな事例も多々あります。
 
 パズルで例えるならば隣同士を見つけて少しずつ形を整えていく面白さもあれば、ずっとわからなかったピースの存在が、知識の獲得によって「ここにハマるのだ」とイリュージョン的な解決を致す事もあります。
 
この解決こそが、「知的好奇心の満足」こそが、研究の醍醐味です。特に大きな問題、謎であればある程、脳汁がすさまじい勢いで出てきます。この快感たるや、普通のノルマ達成では到底味わえないものです。
 
そんな課題をキチンとまとめ、知識を蜘蛛の巣状に広げていくためには、自問自答が不可欠となります。それとよく記録をとっておいて、後から見直せるようにする事が大切です。

自問を次に考えてみましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?