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道興が歩いた道、廻国雑記を辿る〜⑥十玉ヶ坊(志木市幸町) → 野寺(新座市野寺) → 野火止(新座市野火止) → 膝折(朝霞市膝折) → 十玉ヶ坊(志木市幸町)

このシリーズ、これまで、

と、exploreしてきました。

道興は、多摩川を越えて恋ヶ窪を経由し十玉ヶ坊に入り、その後、そこを拠点に、笹井観音堂、柏の城、川越、勝呂を訪問した後、野寺・野火止・膝折を訪れています。

今回は、道興の、野寺・野火止・膝折への小旅行をexploreしたいと思います。

■◇◆□

道興は、野寺で、以下の歌を詠んでいます。

又野寺といへる所爰にも侍り。これも鐘の名所也といふ。このかねいにしへ國の亂れによりて土のそこにうづみけるとなん。そのまゝほり出さゞりければ。
音にきく野寺をとへは跡ふりてこたふる鐘もなき夕哉

道興が訪れた1480年代、その時点で、この鐘は有名でした。その理由は、

武蔵野の野寺の鐘の聲聞けば遠近人ぞ道いそぐらん
在原業平 (825 - 880年)

在原業平が歌っていたからなのです。

満行寺

風土記によれば、

"境内除地三町、村の南八幡山の崖下にあり、真言宗真義豊島郡三宝寺末山也。野寺山また八幡山とも。彌陀院滝本坊と号す。開山開基共に詳らかならざれど古き旧若にて、古歌に武蔵野の野寺の鐘と読めりしはこの寺のことなりと寺伝に言えり・・・"

先を行きます、道興は、野寺の後、野火止を訪れています。

野火止塚、2020/7撮影

此のあたりに野火とめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて。烽火たちまちにやけとまりけむとなむ。それより此塚をのびどめと名づけ侍るよし。國の人申侍ければ。
わか草の妻もこもらぬ冬されに軈てもかるゝのひとめの塚

野火止、野火を止める、という地名ですが、その由来は、道興が記していますね。

これは、在原業平をモデルとし創作されたとされる伊勢物語第十二段から来ています。

第十二段
むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、「 この野はぬすびとあなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

またしても、在原業平です。

この後、道興は、膝折を訪れています。

これを過てひざおりといへる里に市侍り。しばらくかりやに休て。例の俳諧を詠じて同行にかたり侍る。
商人はいかて立らん膝折の市に脚気をうるにそ有ける

川越街道、膝折宿、脇本陣高麗家住宅

膝折という珍しい地名の由来ですが、在原業平が乗っていた馬の膝が折れ死んでしまったということから来ています。

またしても在原業平です。

今回exploreした野寺、野火止、膝折には、修験の匂いがしません。熊野神社もありません。検索しても出てきませんでした。

これまでの行程を見てみると、東国巡礼の目的通り、熊野神社や修験寺院を回ってきていましまが、今回はその匂いが全くしません。

その代わりに、業平が登場しました。

恐らく、今回の野寺、野火止、膝折への小旅行は、純粋に観光だったのではないでしょうか。

道興の時代に既にヒーローだった、同じ歌人である業平の、今で言えば聖地巡礼というところでしょうか。

今回、道興と業平の関係に気付き、色々と調べていくと、柏の城があった場所は、平安時代、郡司藤原長勝の館であったことが分かりました。

ですから、武蔵守護代大石信濃守定重の柏の城を訪ねたのも、業平聖地巡礼の一つ、だったのかもしれません。


次回は所沢、久米川の道興の足跡を辿ります。




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