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バーベンベルク家によるウィーン改革~ザルツブルグ司教座影響の排除、マリア・アム・ゲシュターデ教会とシュテファン大聖堂、そしてショッテン教会

マリア・アム・ゲシュターデ教会

写真はマリア・アム・ゲシュターデ教会で、英語に訳すとMary at the Shore, 岸辺のマリア様と呼ばれる教会です。

写真の通り、ドナウ川が作った河岸段丘の縁に位置しています。ファサードも川を向いてますから、ドナウ川を下ってここから上陸し、参拝したんでしょう。

9世紀には既にここに木造の教会が建てられていたという話もあるようですが、史料の初出は1158年で、建物自体は1394~1414年に建てられたものが現存しています。

南東からアプローチするとまず塔が目に入ります。
内部は外観の通りゴシックです。

976年に、神聖ローマ皇帝オットー2世は、ウィーンをオストマルク辺境領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家をその領主(辺境伯)としました。

1155年には、オストマルク辺境伯ハインリヒ2世はウィーンに居城を移し、翌1156年には、オーストリア公に昇格,、本格的にウィーン領主として活動し始めます。

マリア・アム・ゲシュターデ教会は、正にその頃に史料初出ということですから、バーベンベルク家が発展させてきたのではないかと思ってます。

同時期、バーベンベルク家は、かの有名なシュテファン大聖堂の建設にも取り掛かります。

塔が高過ぎて全体が収まる構図が見当たりません。。。
宿がシュテファンの北西で最上階だったので偶然先程欠けていた塔が写り込む構図となりました。この塔は1359年に完成しています。
内部も外観の通りゴシックです。

シュテファン大聖堂と言えば、パッサウのシュテファン大聖堂です。

はい、ここウィーンのシュテファン大聖堂は、パッサウのシュテファン大聖堂を持ってきた、日本のお寺風に言えば、パッサウのシュテファン大聖堂の、"末寺" ということになります。

パッサウは、ウィーンシリーズ第一回

第二回

で取り上げたザルツブルグと並ぶ勢力を持つ司教でした。

つまり、バーベンベルク家は、名実共に、自分がウィーンの新たな領主となるべく、パッサウの力を借り、それまでウィーンを実質支配していたザルツブルグ勢力を排除しようとしていたのではないか、と、思ってます。

バーベンベルク家ハインリヒ2世はこれに留まりません。1155年、スコットランドからショッテン修道士を呼び寄せます。

ショッテン修道院の教会、ショッテン教会
この人がハインリヒ2世
内部は外観通りバロック

それ程、ザルツブルグ司教の支配は強かったんですね。

この後、バーベンベルク家は、270年間、ウィーンを支配し、その後は、ウィーンと言えば皆さんご存じ、ハプスブルク家の支配となります。

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如何でしたでしょうか。

宗教団体が土地を持ち領主として支配するというのは日本で言えば荘園制度です。教会を建設して勢力図を広げていく、というのも全く同じ手法。

世の東西を問わず、人間というものは同じことをするんですね。実に興味深いです。

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