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深掘りアーサナ 「安定して快」に至るる道とその真意

アーサナ(ヨガポーズ)は安定して快。

ヨガの聖典『ヨーガ・スートラ』の言葉だが、
どうすれば安定して快適な状態に至るのか?
なぜその状態がヨガにとって重要なのか?

本記事ではヨーガ・スートラに基づき、
アーサナは安定で快という言葉を深掘っていく。


「過度な」努力を手放す

アーサナは安定して快 

過度な努力を手放し、アナンタ(神)と
合一することにより(至る)

ヨーガ・スートラ、第二章四十六節、四十七節

ヨガポーズをとる時、様々なエゴが生まれる。

・柔らかくなりたい、体を引き締めたい
・他の人より自分の方ができてる
・昔の自分はもっと体が動いたのに
etc…

そのエゴから、過度な努力が生じる。
まずは過度な努力を手放すべしと、
ヨーガ・スートラは説く。

過度な努力は心身に不要な力みを生み、
安定も快も得られなくなる。

ヨガは身体、感情、思考、そして心が
観察できる強度で行う事がポイント。

目安は呼吸が深く、静かにできる強度、
全力の80~90%程度の強度である。

力強さはあるが、力んではいない。
心地よいが、たるんではいない。

「適切な」努力。

このバランスを見極める事、
己を観察する事がヨガのポイントだ。


流れに委ねる

アーサナは安定して快
過度な努力を手放し、アナンタ(神)と
合一することにより(至る)

ヨーガ・スートラ、第二章四十六節、四十七節

過度な努力を手放した後は、
アナンタ(神)との合一

スピリチュアル!

だが、ここで言いたいのは、
エゴを手放せ
という事である。


大いなる存在、それが神や宇宙、
自然の流れでも何でもよい。
そこに身を委ねてしまえという事だ。

やるだけのことはやったら
後は手放す、委ねる。

自分の力で、どうにかしてやろう
としているうちは、真の安定にも
快にも至る事は出来ない。


ヨーガ・スートラには次の言葉も
記されている

満足(サントゥーシャ)から無常の快を得る

ヨーガ・スートラ、第二章四十六節、四十二節

満足(サントゥーシャ)は、
貪ることなく今ある状況に十分に満足する事。
『老子』に書かれた、足るを知る、である。

「もっとできる」、「まだいける」は
怪我の元であり、心の安定性も欠く。

100%、120%の力が発揮できると気持ちいい。
それは激しい快である。

ヨガが目指しているのは安定した快。

足るを知り、満足できる領域のアーサナで
安定した快がもたらされるだろう。


本来の自分を知る

安定で快のアーサナを続けると

かくして二元性に苦しむことなき(境地に至る)

ヨーガ・スートラ、第二章四十六節、四十八節

「二元性に苦しむ」とは本来の自分と、
そうでないものの区別ができぬがゆえに
生じる苦しみ。

ここでヨガの目的に立ち返ると
ヨガとは心の働きを止めて
本来の自分に立ち返る事であった。

ヨガは心の働きの停止
その時、見者は本来の状態に安住。

ヨーガ・スートラ、第一章二節、第三節

見者(ドラシュトゥ)とは本来の自分。
本来の状態とは、ただ観る事である。

「観る」とは先入観や固定観念なく、
心と思考すらもなく、直接本質を知る事。
いわゆる「悟り」。

心の働きがあると、見者(本来の自分)が
他のものと一体化、
観る者と観られる者がごちゃまぜになる。

そうなると観る事ができず、苦しみが生まれる。

アーサナ中、エゴを捨て、
観る事に集中すると心の働きが止まり、
本来の自分がみえてくる
だろう。


まとめ

安定して快のアーサナに至るためには

・過度な努力を手放す
 (心、思考、感情、身体が
 観察できる負荷で行う)

・エゴを手放す
(他者や過去、未来の自分自身と
 比較せず、今この時に身を委ねる)

安定して快のアーサナを続ける事で、
本来の自分とそうでないものの
区別ができて惑わされる事がなくなる。


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