風邪とヨガ
花粉症でないはずの私が、毎回見舞われる”春の毒出し”。
鼻水、副鼻腔炎、咳痰の祭が一定期間催され、一掃されてスッキリ、という流れがここ最近の定番になってる。しかもアーユルヴェーダを生活に意識しはじめてから、顕著に律儀に笑。しかし年々短期間で収まるようなってる。。
体が整うほど、いわゆる冬風邪は引きづらくなって、インフルエンザにもかからない。大人になっての感染は唯一、自分以外みんなインフルエンザていう状況でぎゅうぎゅうイタリアンファミリーとミラノのアパートで暮らした一回だけ。
(ゴホゴホ言いながらも毎日手料理がふるまわれ「あれ?こっちのインフルってアレとは違うのかな?」て何かの間違いかと思ったが、帰国後発症したソレはアレだった。しかもミラノ産症状ハデ。)
あと、さっそく余談ですが。疲れてるのにみんなわかってくれない!とか、やさしくされたい、ていう時、心の抗議を体が体現してくれて引く風邪ってあると思う。その矛先は仕事だったり、家族やパートナーだったり。もしくは、それを選んだ”自分”て場合も往々にある。心がすねて身体に八つ当たり、分かってくれるようと視覚化して訴えてるような。不意の火傷や怪我なんかも心のアーマ(未消化物)ていうのだから!(きゃーっ そのへんは別の機会に)
さて、春の解毒。
冬に溜め込んだカパの質が春の陽気で溶かし出され、痰や鼻水の粘液として放出されてる、風邪や花粉症をアーユルヴェーダ的に解釈すると、こういうこと。昔から、ふきのとうや菜の花など、春野菜て解毒作用ていうのだから、自然界の旋律と私達のカラダとは凄い。
さてでは、溜め込んだカパて何?て話です。前の記事でパン祭のミコシ担いでおいてなんですが、冷たくて重い質=小麦や砂糖、乳製品を蓄えるイメージでしょうか。嫉妬、面倒くさがり、などの重く、ねばっこさを連想する感情もカパの質です。
症状という名の、浄化作用が始まったらひたすら耐えしのぶ。
嵐が去るのを待つ。薬で止めない。出たがってるものを止めてしまえば、行き場をなくしたアーマはさらに深いところで滞り、もっと深刻な浄化キャンペーン=(病)を必要としてしまうのがアーユルヴェーダ的な見解です。
”症状”を病気と捉えるか、解毒だと捉えるか。
例えば、延々途切れない鼻水を、苦しさを伴う下痢を、解毒と捉えるか否かは、アーユルヴェーダ的思考に向いてる方、向いていない方が分かれるところかと思います。
私の場合、毒が出始めたら、もう出し切る。あきらめ寄りのウェルカム!
仕事にならないから、家事ができないから、薬を飲むという選択も自由であり、薬・・・抵抗がある!その声に素直になるのも自由。ただなぜその”自由”を選んだか、という理由には自覚的になるようにしています。
痛み止めは、火災アラームだけ止めて火の元は放置、とおなじこと。
カラダの痛みとは信号。お知らせ警報が鳴るには原因がある。まず音を止めて(=痛み止め)精神的にラクになるのも有効な難逃れですが、じゃあ出火元の”災”はどこにあるのか、事後点検も大事な作業だと思うの。
白か黒かの二択ではなく、”グレーを選ぶ”のも立派な選択です、そこに自覚(=責任)があるのなら、と深めるほどに私は感じます。
人間以外の動物は不調の時は食べません。
元気がないときは〇〇食べてスタミナつけなきゃ、て謎の都市伝説。しかもその〇〇て、なぜか消化に時間がかかるもの(焼肉とかウナギとか)ばかり。
風邪っぽい気配を感じたら何より休養です。昼間なら睡眠よりも瞑想。入浴後、早寝で整え、少食に。消化で奪われるエネルギーを温存しておくため。今回の私は、白湯にくわえ、柑橘入りコンブチャに海の塩を入れて飲む(またの名を自家製ポカリ、羊水のような、や、飲んだことないけど、これマッテマシタと体が欲しがる味がします。)で乗り切りました。庭の柑橘を入れたコンブチャ、そろそろ終わりかな↓
スロー イン・ファースト アウト
さて、寝ててもだるさだけが出るばかり。やるべくこともある毎日、風邪の休養からいつもの生活に、どう立ち上がっていくかが大事。
そんな中、ヨガが有効だと本っ当に感じたの今回!!!!
風邪のはじめは慎重に備え、風邪の終わりは見切り発車
起きて、あ、これ治るやつだって感じた朝が来た(鼻も喉もまだまだ不調なんだけど、)清々しさ感じたらしめたもの。
見切り発車かな、と思いながらも外で太陽の下1時間のゆったりめのヨガをしたら、嵐が過ぎ去った感覚を得ました。日光消毒とはよく言ったものだ。鼻からの深い呼吸で、体の全細胞の気の入れ替えを体感。
純粋な存在に自分を触れさせることで、自分が本来持っているバランスに近づく、というアーユルヴェーダの真髄を体感したような野外でのヨガでした。まぶたごしの光、頬を撫でる風。自然に近づくほどに、本来在る姿に還っていくような。
とはいっても、体調すぐれない時のヨガってまったくトリッキー、ギリギリでたもってた”風邪の直前”が糸切れたように緩んで症状が出てしまうときもあれば、逆に、読んで字のごとく病んでたのは気だけで、シャバアサナが明けた頃にはすこやかになっていたり。とはいえ体感はもとより、本当の意味では、前者も後者も”好転”でしかないんですけどね。
貧乏転じてベジタリアンだった海外生活(勉学と学費稼ぎに追われる日々)で通ってたヨガでは、今日はどっちに転ぶのか、毎回ギャンブルのようだった 笑 免疫力をなかなか保てず不調が多かったのが正直なところ。当時、白目むきながら研ぎ澄まされた感性で向き合った体と心の観察力、人体実験として、今に生きています。
体と心、その製造ラインの責任者はいつも自分なのだなあ。環境、他からの影響を受けないわけではないし、手も抜ける、えらい人の指示も仰げるし、信頼できる情報を真に受けてもいい、でもそこに責任を持つのは、最終判断を下せるのは、自分しかいない。そして自分が任務を果たせる唯一の媒体も本当は自分だけ。
を踏まえた上で、わ、これ、幸福感すごい〜て発見や感動は、ひとり占めより、シェアしたくなるもの。
あとは 選択の自由。愛を込めて。
↓オーストラリア confest でのヨガワークショップにて。
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