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最近思うこと#20 2023年ラストデイ


今日で2023年が終わる。

2023年、29歳になった。いい加減"もう"29歳だ。"まだ"というには時間を重ねすぎた。

Base Ball Bearが『二十九歳』というアルバムをリリースしてから10年が経った。あの頃僕らは19歳だった。まだ何もかも夢の途中で、世界が開けていくようで、なまけたり夢中になったりを繰り返してひたすらにそこら中に足跡をつけていた日々だった。許せること許せないこと、曖昧だった日常の境目が少しずつハッキリして、毎日自分が"大人"になった気でいた。


どうして彼らが『二十九歳』という中途半端な年齢の作品をリリースしたのかを考えていた。小出くんがインタビューで「二十九歳というアルバムのタイトルにしたのは、自分自身の飾りもしないフラットな状態の自分」であることをパッケージした作品なのだと話していた。

それはある意味で29歳という年齢にならないと辿り着けない場所であると今の自分には感じられる。色んな人生の"普通"や"意外"などの紆余曲折を経た上で、培ってきた自分や培わされた自分を脱ぎ捨てて、自分自身を主観的でも客観的でもなくボーッと見たりできる年齢なのだと思う。

10年前に意味も分からずぼんやりと聴いていたあの頃から10年の月日が経ってその間の時間にいつのまにか敷き詰められた経験や感情がこのアルバムには散りばめられている。


そして僕は29歳になった。

すっかり自分のことには無関心なまま大人になってしまった。そのくせわがままで無気力。生きてきた時間の中で、人生という長い時間においてどれだけ価値のある選択であるかも考えもせずにここまでやってきてしまった。

振り返った時にはたくさんの折り返し地点はあって、その度に皺になって折り重なっている。

あそこで選ばなかったこと、選んだこと、気がつけなかったこと、出会えなかったこと。いつも少し手遅れだ。どうしてかいつも手遅れなのだ。気づいた時には僕は周回遅れでそこに辿り着く。幼い頃からの呑気な性格が人生単位でも表出してしまった。

自分が周回遅れであることに気づいてしまうのが怖くて自分のことには無関心でやってきた。自分の幸せとか、自分の悲しみとか、それに寄り添いすぎると大きな波に心が攫われるのが怖いからだ。

大きくも小さい人生という長くて短い壁に手を触れるのが怖いのだ。


大好きな映画の『アバウトタイム』では、いくつかの出来事だけは過去に戻っても取り返しがつかなくなる様になっている。そんな大きな選択の前に僕は何も選びたくないと、いつも逃げてしまう。

選ばなければずっとここにいられる気がして怯えているのに楽なフリをして今日も生きている。ドラクエⅤで花嫁選びの前にサラボナでいくつもセーブデータを作ってしまうような生き方だ。どうせビアンカでしかラストまでやらないくせに。

だから分かっている。結局人生は自分で選んだものでしか進んでいかない。ずっと前から理解しているはずなのに体や心が前に進んでくれない。俺に乗った碇シンジが「動いてくれヨォぉ」と叫んだところで俺は動かない。シンクロ率が低いのだろうか。頑張れ、俺の碇シンジ。

前に進みたい。人生を選びたい。それでも刻一刻と迫ってくる見えない壁に怯えながらも今日も1人部屋でYouTubeを見ながら時間を消化している。結局、何を選んでも何を選ばなくても人生は着実に死へと向かっている。それに気がつくのは取り返しがつかないと感じた時だけだ。

この不安と恐怖が消える時は来るのだろうか。いつか両腕を空に広げて「幸せだ!」と叫べるのだろうか。分かってる。この胸を攫うような不安が消えるのは飛び込んでしまった後だ。

ああ、白馬の王子様、俺を連れ去ってくれないだろうか。



結局のところ29歳になっても相変わらず高校1年生に戻りたいと考えてしまう。何もかもが開けていく感覚、自分の中に様々な感情が入り込んでくる感覚。あれを忘れられないままでいる。

ずっと少し肌寒い昇降口で誰かが来るのを待っている。そんな気がする。

下駄箱前での「おはよう」も、ギターを担いで乗る満員の小田急線も、上履きの足音が響く廊下も、自転車漕いでラーメンを食べに行った放課後も、図書室でのヒソヒソ声の会話も、待ち合わせして一緒に帰った放課後の教室も、文化祭でのライブも。何もかも一瞬たりとも、一掴みも二度と帰ってはこない。

まだまだ知らないことが山のようにあって、世界や社会に対する恐怖もなくて、なんとなくこんな時間がずっと続いていくものだとぼんやりしていた時間がものすごく遠い。当たり前だ。


29歳という年齢はもうどこからどう見ても大人なわけで、現在の自分が思うことは「自分がこの世の誰よりも不幸であってほしい」と強く思ってしまう。

自分の人生が底辺で、自分のような人間がこの世で一番悪質であってほしいと日々思う。そうすればきっと自分が愛しく思う人たちは自分より幸せで、良き人たちと一緒にいてくれると信じられる。安心できる。それ以上の願いはないのだ。

みんなが幸せであればこの世に自分が存在する理由だって特にない。自分のことだけ考えて、自分の見たい景色を見て、自分のやりたいものだけを選んで生きていたいとすら思う。それかこの世から消えたっていい。風とかになりたい、海を運ぶ波にもなりたい。

でもこの世はそうはならない。とてつもなく悪質で、倒せば世界を救えるラスボスのような絶対的な悪はほとんど存在しない。小さくて些細な歯車のズレが今日も誰かを悲しませている。満員電車で押し合うように不幸がひしめきあっている。どこから手をつけてもその連鎖を止めることはできない。天井に穴が開き続ける雨漏りのように、誰かに手を差し伸ばしても同じ時に誰かがどこかで苦しんでいて、結局誰のことも救えない。救えなかった、何もできなかったという事実だけが残り続ける。それに今日も苦しめられる。


怒りや悲しみを常に感じてしまうがそれを力に変えたいとは思わない。復讐や恨みに変えるタームはもう過ぎた。自分の持ち得る限りの言葉や思いで、誰かを世界から引っ張り上げることくらいしかできない。できないのだ。背中に張り付いた遣る瀬の無い孤独を飼い慣らしながら日々を暮らしていく。

この先を生きていて何が自分にできるのだろう。自分の心に生まれてしまう悲しみはない方がいいのではないかと思う。自分が消えれば世界から一つ悲しみが減るのではないだろうかと毎日考える。

19歳で聴いたBaseBallBearのアルバム『二十九歳』から10年の月日が経った。

空き箱もゴミ箱も漁って、この世の何もなさに打ちひしがれながら絶望の淵に立って、それでもまだ知りたいと思うから、それを光にしてやっていくしかない。欲しいのはきっとまだすべてだから。

2023年が終わっていく。2024年が始まる。
また今日も何かが変わる気がして、何も変わらぬ朝に何を思うのだろう。

大好きな人たち、いつも気にかけてくれる大切な人たち、画面の向こうで僕が明日を生きる理由をくれる人たち、ずっと残り続けてインスピレーションを与えてくれる音楽や言葉たち、今年も本当にありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。今はもうそれだけです。


空き箱を開けて閉めて
何もないってわかってるけどまだ知りたい 知りたいよ
ゴミ箱を漁りなおして
何もないってわかってるけどまだ探したい 探したいよ

僕と君 君と僕の
そのあいだに何がある

澱みからメロンソーダまで翔け抜けたい 理屈じゃない
涙から笑顔まで網羅したい
欲しいのはすべてと言ったら いけないのかな

現実は現実的で
夢はいつも夢なだけだ

澱みからメロンソーダまで翔け抜けたい 魔法じゃない
かなしみもしあわせも網羅したい
欲しいのはすべてと言ったら いけないのかな

Base Ball Bear『何才』

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