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「ハッピィ・バースデイ」第5話(全10話)

 夜の電車は苦手だ。十時を過ぎると、いくら空いていても匂いが澱んでいる。特にこの季節は、汗の匂い、お酒の匂い、化粧の匂い。都会に住む人たちそれぞれの一日の疲れが、四角い車両に溜まって運ばれていくように感じる。そして、座って正面の暗い窓に映る自分の顔を見ていると、知らず知らずのうちに反省会を始めてしまう。誰かに言った何気ない一言、傷つけられた言葉、出来なかった仕事。酔って眠る人か、スマホしか相手にしていない人ばかりの電車の中で、さらに重い匂いを、私も吐き出す。
 ぼんやりとデパートの中吊り広告を見ながら、さっきの出来事を思い出していく。遠藤さんのお母さんも明日が誕生日なんだ。嬉しさは二倍になるのかな、半分になるのかな。えっと、例えばケーキを例にすると、二つ食べられるから、嬉しさ二倍。でも、一つのケーキの分け前を二等分と考えれば、嬉しさ半分。プレゼントを例に考えると、もらったら嬉しいけど、あげるとその分のお金が……。
 私は腕を組んで考え続けた。嬉しそうにお母さんと手を繋いで帰る遠藤さん。暗い夜道、一人で帰ると怖いけど、二人だと安心して帰るんだろうな。駅前のデパート寄って、お互いのプレゼント買ったりしてるのかな。交換したりしながら……。私は正面の窓に映る私と目が合った。あ、そうか! もらう喜びと、あげる喜びか。つまりは、好きな人と一緒にいたら、最高なんだ。
 遠藤さんと、遠藤さんのお母さんと、私。同じ誕生日。二十三人いたら、同じ誕生日の人がいる確率が五十パーセントっていってたけど、自分と同じ誕生日の人がいる確率は三百六十六分の一だよね。三人の誕生日が同じ日の確率はいくつなんだろ……。っていうか、私は今日、誰が祝ってくれるんだろ。カバンの中からスマホを取り出し、メッセージを確認してみる。ゼロ。友達からも聡志からも、誰からの誘いもなければ事務連絡すらない。今日は誰からも必要とされない一日なんだろうか。せっかく二十代最後の日。やりたいようにやってみるって決めたのに、一番なりたくない一人になっている。祝ってもらう喜びは、誰かからほしいな。窓ガラスに映る私の顔は、眉間にしわがよって、なりたくない表情になっている。

 乗り換えの駅につく。改札や出口がいくつもあるこの駅は、夜になると、いろんな場所で恋人たちの別れのシーンが始まっている。ホームで無言で手を握り合っていたり、改札口の柵をはさんで、いつまでも話をしていたり。
こうして目の前で抱き合ったり、泣いたり、笑ったりしている若者たち(おそらく二十代)を見ていると、私はもうこんな少しでも離れたくないという恋愛は、できないというか、してはいけないのではないかという思いが沸いてきた。だって、べったりしていたら、どっちもだめになるってわかる年齢になったんだもん。
 ふいに、聡志と別れた日のことを思い出す。ちょうど一ヶ月前。あの日、私も聡志も仕事が休みだった。なのに、昼前になっても聡志は起きなかった。
「ねえ。遊び行くって、昨日約束したじゃん」
と私がベッドで眠る聡志を揺さぶりながら言うと、
「……夕方から行こうよ」
 と目も開けずに答えた。疲れている聡志の気持ちはわかるんだけど、眠りではなく遊びでストレスを発散させる私の気持ちもわかってほしかった。あどけない寝顔を見ていると悔しくなって、玄関のドアを思いっきり閉めて私は一人で街へ出た。服買って、自分の部屋にそのまま帰ろうと思ったけど、悪いことした気分になって、夜中にいつもの聡志の部屋に帰ってきた。
出るときに力いっぱい閉めたドアを、ゆっくりと開けた。
「ただいま。服買ってきた」
 って言いながら部屋に入ったら、聡志はゲームしてた。そして私を見て、笑顔で
「おかえり。寒かったでしょ?」
 って。私は思わずテレビの電源を切り、買ってきた服の袋で、聡志を叩いた。
「何? どうしたの、夏美さん」
 何で聡志はわからないんだろう。ホントはあの時、怒って欲しかった。「何勝手なことしてんだよ!」って。そのとき思った。この人、私といたら我慢してる。結婚したらきっと私も我慢するようになる。いつまでも聡志が寝ていても許してあげるような。私はそのとき思った。聡志と結婚はできない。一度きりの人生、好きなように、やりたいようにやってみる。
「別れようよ」
 何の迷いもなく口から言葉が出てきた。すっきりとした気分だった。
聡志は最初、ずっと何も映っていないテレビの画面を見ていた。でもしばらくして、
「俺は夏美さんが好きだから、夏美さんの好きなようにしていいよ」
 って、寂しそうな笑顔で答えた。その日、聡志と私は目を合わさないまま別れた。
 でも結局、しばらくしたら寂しくなって私は聡志に連絡をした。これじゃあダメだと思っていた私を、聡志は笑顔で迎えてくれた。私は今でも、その笑顔に甘えてる。やっぱり、どっちも、ダメになる。
 聡志は、どう思っているんだろう。別れ話を受け入れて、でも寂しいときには一緒にいて欲しいっていう私のわがままも受け入れて。多分、何も考えていないんだろうな。聡志も楽しかったら、それでいいっていうタイプだから。でも……。駅の構内を歩いていると、遠くまで行く電車の終電アナウンスが聞こえた。私は腕時計を見た。あと一時間……。

明日で私は三十歳になる。


第6話

#創作大賞2023  

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