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「ハッピィ・バースデイ」第6話(全10話)

 乗り換えの駅で途中下車して、夜でも賑やかな街を歩いた。こんな日に、一人で家にいてもしかたがない。寂しさが倍増するだけだし、またいつものように、聡志に連絡するに決まっている。だったら、やることは一つ。新しい人を探せばいい。どこから来たのか、どこへ行くのかわからないけど、こんなにもたくさんの街を歩く人たちがいる。きっとこの人たち中から一人くらいは、私に合う人もいるでしょう。二十代最後の日。できるだけ聡志に迷惑をかけず、寂しくならない方法を、今日はゆっくり考えてみようかな。
繁華街のややはずれにあるバーに着いた。大学を卒業してすぐの頃に一度、そのときの彼氏と来たことがある。
「ジャズに精通している人がよく来るんだって」
 と、その人は言っていた。小さな看板が目印で、ジャズが心地よい音量で流れていた。それぞれが好きな時間を過ごしている。私は、音楽はJ―POPしかわからない。ジャズなんて再生したことがない。でもいつかまたここに来ようと思った。年を取ったら、きっと今より生活が充実して、博学になって、ジャズが好きになっている気がして。
 でも結局、今でもジャズのことはよくわからない。仕事もうまくいったり、いかなかったり。けれど、今日の目的は、そこではない。
 ドアを開けると前に来たときと同じ空気がそこにはあった。カウンターとテーブル三つでいっぱいのフロアに、話をする人やお酒を飲む人がまばらに座っていた。薄暗い照明よりも観葉植物の緑が鮮やかに映えていた。ゆったりとしたジャズの調べにあわせてフロアを見回す。ひとりでテーブルは気が引けるので、カウンターに座る。隣の男の人が、ちらりと私を見たような気がする。よし。
 適当なカクテルを頼み、何から考えようかと考えていると、
「学生さん?」
 隣の男の人が話し掛けてきた。あまりの不意打ちのセリフに、思わず笑ってしまう。バーテンが微笑んで私の前にカクテルを置いた。
「とんでもない。もうすぐ三十路ですよ」
「へえ。見えないね。かわいいですよ。肌も白いし綺麗だし。十分学生に見えますよ」
 初めて目が合う。美形とまではいかなくても、ややワイルドな味のある顔。そんな人から褒められると、まだまだ捨てたもんじゃないでしょって気持ちになる。もしかしたら明日の誕生日、一人で過ごさなくてもいいかもしれない。嬉しさが二倍になる予感。少し話し相手になってみようと、グラスを近づけてみる。
「学生じゃなかったら、何してるの?」
「OLです。あなたは?」
「んー、システム関係……プラットフォームを創っている、とでも言っておこうかな」
 システム関係って、どんな仕事なんだっけ。スローペースでつまみを運ぶ店員を見つめながら考える。まあいいや。それはゆっくり聞くとして次の話題。
「ここによく来るんですか?」
「そう、ジャズが好きでね。君も結構、知ってる?」
「私、全然……」
「そう……」
 会話が続かない。お互いにそう思っているんだろう。私は側に置いてある観葉植物を意味もなく眺める。相手のお酒を飲むペースが速くなった気がする。ただの沈黙ではなく、別の事をしているから、たまたまできた沈黙にしてくれているんだろうな。あらら、ということは迷惑をかけているってことか。聡志のときは……。
「ねえ」
「はい」
 私はグラスを持つ指をじっと見つめていた。思考回路が、聡志との思い出までさかのぼろうとしたときに、ふいに声をかけられた。近づいてくる男の顔に照明が当たる。さっきまで、味のある顔と思っていたが、よく見ると、歴史の資料集に載っていた豪族に似ていた。
「今日は暇?」
「何で?」
 流し目で私を見て、ウイスキーを一気に飲み干した。咳払いをしながら、急に私の肩を抱き始める。え? 何これ? 小声で豪族がつぶやいた。
「どっかいかない?」
 太古の昔を感じさせる息が顔にかかり、完全に酔いが冷めた。この男、どこのタイミングで一緒にいたいと思ったんだろ……。めんどくさい! ふと気がつき、腕時計を見る。やっぱり。あと何分かしたら、十二時を指してしまう。三十歳の誕生日を迎える瞬間、こんな男と一緒にいることは避けなければ。
「帰らなきゃ!」
 急いでお金をテーブルに置く。あまりの急な行動に、豪族はあっけにとられている。
 私は、目の前に置かれたカクテルを一気に飲み干した。豪族は言った。
「今度また、連絡するから、連絡先……」
「ごめんなさい!」
 そうだよ。まだ名前も確認してない人を誘うなって話だよ。聡志が初めて私を誘ったときの強ばった笑顔と緊張した大きな声を思い出す。さっきの私の誘い方から、この豪族は信用できない。ガラスの靴を忘れないように、私は逃げるように駅へと駆け出した。さっき飲んだお酒がほんのりと体を回り、夜の冷たい風が優しく私の頬をなぜたころ、駅前の街頭スクリーンが十二時を知らせてくれた。

今日で私は三十歳になった。


第7話 

#創作大賞2023  

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