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「ハッピィ・バースデイ」第2話(全10話)

 私は郊外にある中学受験塾で講師をしている。私立中学を受験する小学生のための塾だ。聡志は何度説明しても中学受験塾がよくわからないらしく、「夏美さんの学習塾」と言っている。聡志には受験して中学に行くのは不思議なようで、
「俺の田舎じゃ、受験って高校で初めてするもんだから。何で義務教育なのに受験するんだろうね。俺が小学生の頃に通ってた塾は、そろばんだけだったし」
 だって。確かに私たちの頃より最近の小学生は、土日も含めてみっちり勉強している。私の勤務時間は昼の二時から夜十時まで。土日は朝九時から夕方五時まで。小学生が学校の授業を終えてからの商売なので、朝はゆっくり。だけど、もう合鍵を返したので、美容師の聡志に合わせて、朝八時には家を出なければいけない。ここから私の塾までは電車で約三十分。いつもなら、この駅からだと十二時過ぎに電車に乗れば良かったんだけど。まったく、めんどくさい。聡志は玄関の鍵を閉めたら、原付に乗って一人行っちゃった。まあ、どうせ着替えに帰らなきゃいけないからいいけどね。
 乗客をたくさん詰め込んだ向かいの重い電車が、こっちへ向かう軽い電車とすれ違い、私はそれに乗った。まばらに座っている人たち。頭の中のコンパスで作図をし、ちょうど均等に間隔があく位置に座って、窓の外を眺めた。コートを羽織っている人たちが、早足で下を向いて歩いている。新たに増えている向かいホームの人々。少しの優越感と罪悪感を持って、下っていく。ガタンゴトン。
 私はカバンからスマホを取り出し、時間を確認する。八時五分。都心から約十分、各駅停車しか止まらないこの駅は、通勤ラッシュの時間でも、座席には座れるので有難い。今までは、聡志が家を出るまでに朝食を作ってあげて、見送って、その後で食器を洗い、洗濯機をまわし、干してから着替えて家を出ていた。年下で家事の苦手な彼のために、気がつけば一生懸命お世話していた。私の部屋からだと下手したら自転車でも通える距離なのに、洗濯物や洗い物が気になってこっちの部屋によく集まった。先月までの一年間ほとんど、私はこの駅から電車に乗って通っていた。一年前とは少し変わった車窓からの風景を眺めながら、私はあの頃のことを思い出していた。

 聡志は、たまたま見つけた美容室で働いていた。小柄を隠すように、パーマで髪にボリュームを出したり、キャンキャンといろんな客にからんだり、プードルみたいな人だな、と思っていた。それでもカットの腕は確かで、私の髪質や望む髪型をすぐに理解し、はねまわるように、嬉しそうにカットをしてくれた。
「前髪、上げてみて良いですか?」
 週末の天気を聞くような感じで、提案してきた。新しいことには、確信が持てないと飛び込めない私は、慌てて首を横に振った。
「おでこ、かわいいのに。絶対出したら似合いますよ。ほら」
 熱が出た子どものように、額に手を当てられ、髪を上げられた。鏡に映る私は、少し幼く見えた。聡志と目が合うと、首を縦に振ってみた。
 何回か通ううちに指名したわけではないけれども、入り口に私が見えると、いつも笑顔で迎えてくれた。正面からなので見えなかったが、多分しっぽも振っていたのだろう。かわいく、人懐っこく接してくるところが、私の月に一度の癒しになった。そして、前回とは微妙に違う髪形を提案し、新しい私を引き出してくれるような気がしていた。
 カットをしながら仕事の話をして、ブローが終わった後、髪を整えながら鏡越しに、
「夏美さんの学習塾って、いつが休みなんですか?」
 と、聡志が聞いてきた。さりげなく下の名前で呼んでみました、というような演出をするつもりだったのだろうが、緊張で声が少し大きくなり、いつもの笑顔もやや強ばっていた。私は、かわいい彼の反応を楽しみたくなり、
「火曜日です。浜口さん」
 と、距離を開けて答えた。聡志は「浜口さん」の前の「火曜日」のところで、
「あ、俺と一緒じゃないですか。ちょうど良かった」
 と、肩にかかりそうな私の髪をぐっと持ち上げながら笑顔で答えた。
「何で?」
「いや。ワイン好きって言ってたでしょ?美味しいお店知ってるから、今度一緒にどうですか?」
 私は少し気になっていた彼の誘いに思わず照れて、頬が赤くなっていくのを感じた。でも、私の二つ年下と言っていた、人懐っこい、いつまでも私の髪を持ち上げている美容師の軽い誘いに乗りたくもなかった。
そしてその頃、私には彼氏がいた。その人は、数少ない私の友だちから紹介されたのだが、あまり話も予定も会っていなかった。別れたら、また友だちなくしちゃいそうだなあと、ぼんやり考えていると、
「嫌ですか?」
 と、少し小さな声で聞いてきた。
「……休みはゆっくりしたいんです。ごめんなさい」
「わかりました」
「また今度、誘ってください」
 聡志は私の髪から手を離し、そっけなく目線を髪のみに移し、真剣な表情でチェックを始めた。何か怒ってる? そう思い始めたとき、急に聡志が呼びかけた。
「夏美さんの」
「……?」
 思わず振り向き、目が合った。今度は鏡越しではなく。そして、柔らかい目で聡志が私に言った。
「そう。夏美さんのゆっくりできるところに行きましょうよ。えっと、居酒屋とか。あ、だったらやっぱりワインでどうですか?」
 駆け引きに負けたのか、美味しいワインに負けたのか。結局、友だちよりも聡志を選んでしまった。

第3話 



#創作大賞2023  



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