モアイは別の話を語る


現行の中学二年の国語の教科書(光村図書)に「モアイは語る‐地球の未来」という文章が所収されています。改定前の版にもその前にも載っていたのでかなり長い間使われている文です。

内容は、モアイを作ったイースター島の文明が人間による自然破壊によって崩壊したとし、それを地球の未来と結びつけて持続可能な社会が必要だと説くものです。文章自体は良くまとまっていて教科書に長く載っているのも納得です。

教科書に載っているので授業でも取り上げます。危機を煽る内容ではありますが、大部分の生徒は教科書の中身を現実の問題として取り上げることはそんなにはなく、どんなに上手に脅されても特に考えることもなく流します。ただ、たまに将来の食糧危機は本当に起こるのかと心配する真面目な生徒もいます。そういう時には現時点でも80億の人口を賄えるだけの食糧生産力はある上に、まだまだ増産は可能なこと、例えばアフリカでは化学肥料や灌漑などの近代農法が普及していないところも多いとか日本やアメリカでも休耕している農地が多いこと、さらに空気中の二酸化炭素濃度が順調に増え続けて現在の400ppm程度から500ppm程度になるだけで100臆の人口を賄うことも余裕で可能といった話をして、ご安心願うことにしています。

日本もそうですが、アメリカの農業も過剰生産による農産物価格の低下が歴史的な課題で、それを切り抜けるべく補助金を使って減産のため農地の転用を行ったり、経営の安定化のために大規模な集約化を行ってきました。(Paul K. Conkin: A Revolution Down on The Farm)。問題は不足ではなく過剰だったのです。世界情勢の変化で一時的に物流の混乱が起こり農産物の価格が上昇したり、天候不順で農産物の一部が不作になったりすることはあるにしても世界的に全面的な食糧不足といった事態は考え難いものです。

このように「モアイは語る」の食糧危機を煽る後半部には反論する余地があるものの、前半のイースター島の歴史については、私はこの文章とジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」で読んだことがあるのみで特に訂正するだけの知識を個人的には持ち合わせていませんでした。

「モアイは語る」はイースター島の歴史は次のように描きます。

5世紀頃にポリネシア人による入植が行われ、11世紀頃に突然モアイの建造が始まります。人口も増加し、16世紀には1万5千から2万人に達します。モアイを石切り場から海岸の台座まで運ぶには支柱やころとして大量の木材が必要な筈であり、また人口の増加に伴って森林も切り開かれ、消失します。それにより土壌の浸食が起こり農業生産力が低下、食糧危機や部族間の抗争も頻発し、17世紀から18世紀前半にはイースター島の文明が崩壊した、とします。

先のジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」でも同様の文脈で語られていたので、これはある時期までの主流とも言える考え方だったのではないでしょうか。この考え方には幾つかの前提があります。モアイのような巨大な建造物を作るには(まかり間違えば戦争を起こすことが可能な)部族による統治が必要であるとか、モアイの運搬には何かしらの巨大な装置が必要であるとか、森林は土壌の浸食を防ぎ農業生産力を維持するために必要不可欠な存在であるといったようなことです。

今回、参考にしたのは2011年出版と最新というわけではありませんが、イースター島の歴史について豊富な考古学的証拠に基づいてまったく別の歴史を描く本です。

Terry Hunt and Carl Lipo: The Statues that walked

イースター島が初めて文書記録に残るのは1722年、この島に偶然にたどり着いたオランダ船によります。記録には、数百の巨大な像を有する木のない島で人口は約3千人、健康状態は良好と記載されています。次の訪問者は48年後の1770年のスペイン船、さらに4年後イギリスのクック船長の探検へとつながります。クックの探検隊は詳細な記録を残しています。人口は700人を超える程度、極めて貧しく島にある巨像を作りえたとは到底想像できない旨が記載されています。このクックの探検隊によって、かつて豊かだった島が何らかの理由で衰退したというアイディアが生まれます。これを1786年に島を訪れたフランス人のラ・ペルーズという人物が引き継ぎ、住民による森林の破壊によって島が居住可能な状態になったという説に発展させます。彼の用いた森林の伐採によって降水量が減り砂漠化がもたらされるという考えは当時の流行でした(Gregory A. Barton: The Global History of Organic Farming)。「モアイは語る」も「文明崩壊」も基本的にこのラ・ペルーズのアイデアを継承しています。

では「The Statues that walked」の著者らはイースター島の歴史をどのように描いているのでしょうか。まず、イースター島への入植は12世紀頃にただ一度ポリネシア人によって行われたと推定しています。これは発掘調査の結果12世紀以前の人間による遺物が存在しないこと、12世紀頃の入植とするとポリネシア全域の入植のパターンとよく合致することなどが理由です。他の研究でも実験手法上信頼性の高そうな研究では入植時期は大体この年代を示すと著者らは述べています。「モアイは語る」の著者と一緒に研究を行ったフレンリー教授らも2011年現在最新の研究では入植時期を修正し10世紀頃としているそうです。

祖先の神の背もたれとして始まり、後に像となった建造物はポリネシアに広く見られます。イースター島でもこの宗教的伝統に基づいてモアイの建造が始まったと考えられます。さらに入植と同時期に森林の衰退が始まります。ただ、モアイの移動に必要な装置の作成に大量の木材を必要としたという話ではありません。色んな人が実験をし、実際のモアイを使って実現可能かも確かめているのですが、数十トンもあるモアイの移動には実際には数本のロープと数十人の息の合ったチームがあれば動かせるようです。これくらいなら町内会レベルの組織で充分です。

モアイの運び方

運び方は、例えば一人で重い冷蔵庫を動かしたことがある人なら見当が付くと思います。形が大きな角柱と考えて見て下さい。右前に傾けると左が浮き、回転させて左を一歩前に出します。次に左前に傾けて右を浮かせ右を出す。こうやってタイミングよく一歩ずつ動かすとモアイが歩くように移動します。運ばれたモアイの底にはこの移動方法によって出来たと思われる傷があります。像の形や重心位置も移動前は運びやすいような形にしておいて、移動後に最終成型を行っていたようです。住民による伝承でもモアイが歩いたというものがあり、上に挙げたように(足を固定して体をねじる様に傾けながら)歩くという意味の言葉(neke-neke)も残っています。

力加減を間違えてひっくり返すと運べなくなります

では、モアイの移動に木材が必要でないなら、何が森林の衰退をもたらしたのでしょうか。著者らはネズミを理由に挙げています。入植時に船に紛れ込んだか、食料として持ち込まれたネズミは侵略的外来生物として猛威を振るいました。天敵のいない環境下で、豊富に存在するヤシの木の種を餌に爆発的に増えたネズミはヤシの木の種を食べ尽くし、ヤシの再生産を止めました。かくしてイースター島は木のない島となります。

しかしこの森林の衰退は人々に大きな影響をもたらしませんでした。そもそもイースター島は風化した火山灰で覆われており、土壌中には肥料として特にリンやカリが不足しています。降雨は不規則で時に強い潮風が吹き、入植以前からイースター島は農地として恵まれてはいません。人々は入植当初は焼畑農業をしていたようですが、森林が失われるにつれ畑をこの島で唯一豊富にある材料である石で作った防壁で囲ったり、畑一面にマルチとして敷き詰めることで土壌の浸食を防ぎ、僅かながら土のミネラル分をおぎなって農業を継続し、日々の労働を通じて決して肥沃とは言えないまでも島をゆっくりと巨大な農地に変えていきました。著者らによれば遺跡や畑の大きさからみて最大人口は3000人程度、武器や防御施設も見つからないことから戦争と言えるようなものもなく平和に暮らしていたようです。

著者は、イースター島の歴史はエコロジー的な自殺ではなく、人々が採用した革新的な手法と大きな労働力を投資しようとする意志による忍耐と回復力の歴史であると述べています。

では、クック船長らの探検隊や他のヨーロッパ人が記録し、ラ・ペルーズの着想のもととなったイースター島の住民の悲惨な状態はなぜ生じたのでしょうか。著者らはその原因をヨーロッパ人のもたらした疫病にあるとしています。南北アメリカ大陸でヨーロッパ人が持ち込んだ疫病が対応する免疫を持たない現地住民に破壊的な影響を与えたことはよく知られていますが、それと同様なことがイースター島にも起こったと著者らは推定しています。さらにヨーロッパ人との邂逅によって新しい文化に触れることによりモアイの建造も行われなくなったとしています。

「モアイは語る」に描かれたストーリーは環境を保護しないと文明が崩壊するとして危機を煽る環境論者のお気に入りだったわけですが、巨大建造物を作るには大きな統治機構や装置が必要であるとか、文明には森林が必須であるとの前提は常に正しいわけではないようです。イースター島の物語は愚かな人類が軽率にも環境を破壊して自然から手痛いしっぺ返しを受けた苦い教訓、人類に対する警鐘ではありません。人間が与えられた条件の中で変化する環境に粘り強く対応し、また積極的に環境を改変しながら平和に暮らしていく能力がある(少なくとも疫病が持ち込まれる前は)と示した希望の物語であり、良き前例だったのです。

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