3. 生きる意味『石橋を叩いて渡る哲学』

 石橋を叩いて渡る哲学の土台として、思考の構造を定義しました。次は、人生の取扱説明書における重要な前提となる生きる意味について検討していきます。生きる意味という前提を得ることでようやく石橋を叩いて渡る我々は堂々と生きていけます。

 生きる意味を考えるタイミング

 まずは、定義の前に一般的に考えられる生きる意味とそれを考えるに至る状況について考えます。生きる意味というと、一般的には「なぜ生きているのか?」という疑問の答えを充てる人が多いように思います。
・子どものため
・美味しいものを食べるため
・人生を楽しむため
ただ、大抵の人は生きる意味に答えを見出せていないのではないでしょうか。

 続いて、生きる意味を考えるに至る状況について考えます。
下記のような状況下で、人は生きる意味について考えることが多いのではないかと思います。
・あるものへの興味やモチベーションが湧かない状態が続いている場合
・暇な時にふと、日常の範囲外まで俯瞰した場合
・学校や会社、家族などの集団から距離がある場合
・身近な人との別れ
・メンタルの調子が悪いとき

 まず、始めに「メンタルの調子が悪いとき」について注意事項があります。ここでは、生きる意味について検討しますが、生きる意味が必ずしも強い死にたいという欲求を直接的に解決してくれるわけではないということをご了承ください。なぜならば、もし死にたいと強く思っている場合、それは一時的な病気が影響している可能性が高いからです。もし、生についてではなく、死について悩んでいるのならば医者の助けが必要だと断言できます。なぜ、このような注意書きをするかというと、精神科や心療内科というのは他の科に比べて通いにくいからです。内科とは違い、ハードルがあります。しかし、死にたいというような希死念慮を持ってしまう病気の中の1つであるうつ病は、人生において約15人に1人が罹患します。思いの外、身近に感じる罹患率ではないでしょうか。もちろん、うつ病だけでなく様々な要因で希死念慮を持ってしまう病気が存在することから、人生において精神科や心療内科に行く必要がある方はもっと多いと言えます。日本では自殺者数が多いことが度々話題になりますが、日本人が持つ精神科や心療内科へのイメージや、その患者への偏見によって、病院に助けを求めにくくなっていることも原因の1つだと私は思っています。アメリカでは、病気に関係なくメンタルケアとしてカウンセリングに通う人が多いです。という前提が今の日本社会にあるため、注意書きとして書きました。

 さて、生きる意味は誰でも一度は考えたことがあるでしょう。
・あるものへの興味やモチベーションが湧かない状態が続いている場合
・暇な時にふと、日常の範囲外まで俯瞰した場合
・身近な人との別れ
・学校や会社、家族などの集団から距離がある場合
 などの状況が挙げられますが、前者の2つはふと疑問に感じてしまうという程度のごく小さな疑問であり、哲学的な自己問答が好きでもない限りは長時間考え続けることは少ないのではないでしょうか。一方、「身近な人との別れ」や「学校や会社、家族などの集団から距離がある場合」は、割と真剣に考えることになります。両者には、期間に違いがあります。「身近な人との別れ」は非日常の出来事であり、大抵一週間ほどで我々は物理的にではありますが、日常へと戻されます。しかしながら、「学校や会社、家族などの集団から距離がある場合」はそれ自体が日常でありその状態はある程度長い期間続くことが多いです。このように、生きる意味を考える状況というのはさまざまです。

 一方で、上記すべてに共通する点は何なのでしょうか。
それは、
 「満たされていない状態」
にあります。

 幸せとは

 生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」との関係について考察するために、欲求や幸せについて検討します。幸せというと、人それぞれ定義が異なると思います。仕事が好きな人、食べるのが好きな人、ダラダラするのが好きな人、結婚したい人、子供が好きな人、お金を稼ぐのが好きな人といろんな人がいます。挙げただけでも、幸せの定義が人それぞれ違うのではないかと思わされます。ただこれらにも共通点はあります。それは、欲求が満たされている状態と言えます。ということは、幸せとはそれぞれの個人が持つ欲求が満たされている状態を指すのでしょうか。ただ、人間は欲求が満たされてもまた次の欲求が出てくるものだと思います。つまり、人間が持つ欲求は動的です。状況によって変化します。

 このように日常をヒントに幸福論を考えて行くとなんだか複雑かつ曖昧であり、時間もかかります。そこで、ここからは学問の知見を借りて幸せについて考察していくことで、生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」の関係について整理したいと思います。

 幸せの共通前提

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で、物質的な富や快楽だけではなく、精神的な充実が幸福の鍵だとしました。幸福は徳という善い気質や能力に基づく活動によって達成されるものであり、自らの意思に基づいて善い行いをすること、そして理性に従って生きることが幸福であると考えました。アリストテレスは、幸福論を構築する上で、人々の生活を「快楽的生活」「社会的生活」「観想的生活」という3つの類型として捉えました。
 快楽的生活:不安定で持続しない物質的な一時的な快楽を幸福とする生活。
 社会的生活:人との関係の中で役割を果たすことによる自己実現を幸福とする生活。
 観想的生活:知識の探求や哲学的思索を通じて真理を追求することのような「知ること」を幸福とする生活。
アリストテレスは人間の本質は理性にあるという考えから、観想的生活を最高の生活形態と見なす一方で、社会的生活における人との関係が幸福のために大切なものであるとも考えました。

 イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは快楽には質的な差があるとし、高次と低次の快楽に分類しました。その上で、高次の快楽を高く評価し、快楽の質を重視することが幸福に繋がると考えました。
 低次の快楽:物理的な快楽
 高次の快楽:知的な快楽や精神的な快楽
また、人間の行動原理についても述べており、人間の行動の基準となる快楽や苦痛は内在的な動機と外在的な動機の両方の影響を受けると考えました。内的動機は、自己の内的な意識や価値観に基づいて行動するものであり、これが高次の行動を導くとしています。また、ミルは「自由論」で社会全体の幸福を促進するために個人の自由が不可欠だと述べました。その中で、個人の自由が多数決原理の少数者への圧迫によって奪われ、人間が機械化してしまうことに警鐘を鳴らしました。

 社会学者エーリッヒ・フロムは、愛と自己実現を幸福の重要な要素と見なしました。ざっくり説明すると人間関係や創造的な活動の中に幸福を見出したということです。

 また、社会学者宮台真司は『14歳からの社会学』で幸福の条件を自由(試行錯誤)と尊厳であると述べています。その中で、尊厳は信頼できる人からの承認によって得られるとしています。つまり、人間関係の中で得られるということです。

 これまでの学者の知見から、幸福の要素は、
 ・知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽
 ・創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと
 ・人間関係
 ・自由
だと言えます。また、これらの要素の関係を見て見ると、「知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽」「創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと」「人間関係」が最終目的であるように考えられます。そして、その条件として自由が必要であると私は考えました。

 ただし、この「知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽」「創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと」「人間関係」の条件として「自由」があるという見方は、参考にした知見の一つである宮台氏の見方とは異なっています。自由について深堀りするなかで、異なる見方について説明します。

 自由とは

 宮台氏は、自由(試行錯誤)を得るための条件として尊厳が必要だと述べています。そして、その尊厳は人間関係から得られるとしています。
つまり、自由のみを最低条件とする私の見方とは違い、幸福の目的の1つである人間関係もその自由という条件に含まれるということです。
ざっくりと説明します。まず宮台氏は、哲学者アイザイア・バーリンの積極的自由を社会学が考える自由として紹介しています。
アイザイア・バーリンの積極的自由とは、
 ・選択肢がある
 ・選択肢を選ぶ権利がある
 ・選択肢の知識があり、それを選ぶ能力がある
という状態を指します。
積極的自由の中の「選択肢の知識があり、それを選ぶ能力がある」の選ぶ能力に関して、尊厳が必要だと言うわけです。
尊厳というのは、自尊心・自己価値を指します。
宮台氏は信頼できる人から承認されることによってこの尊厳を獲得できると述べています。

 この相違点に対する私の主張は、信頼できる人からの承認だけではなく、自分だけの取扱説明書やルールである哲学も尊厳をもたらすのではないかということです。

 世の中には、周りの人が反対していても堂々と自分を貫く人がいます。もちろん、周りの人といっても、その場に居ない誰かがその人に賛成している、つまり、承認している可能性はありますが。悪い例ですが、思想犯という言葉があります。思想というだけあって、これもまた仲間の承認を得ているという見方はできるものの、承認よりも思想の要素が強いと私は考えています。このことから、私は哲学も尊厳をもたらす要素となり得ると考えています。

 よって、「知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽」「創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと」「人間関係」の条件として「自由」という最低条件があると見なします。
以上を踏まえると、
石橋を叩いて渡る哲学における幸せの定義は、
「自由」を前提として「知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽」「創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと」「人間関係」を求め、得ること。
とします。

 人間の欲求


マズローの自己実現理論

 さて、今我々は、生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」との関係について考察するために、欲求や幸せについて検討している最中でした。幸せの定義は済みました。残るは欲求です。

 人間の欲求について考える上でアメリカの心理学者アブラハム・マズローが提唱した自己実現理論が参考になります。自己実現理論とは「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」という仮定を前提として人間の欲求を5段階の階層として表現した理論・仮説です。

 人間には、
・生理的欲求
・安全の欲求 
・社会的欲求(所属と愛の欲求)
・承認(尊重)の欲求
・自己実現の欲求
という階層構造で欲求が存在するというものです。さきほど、生きる意味を考える状況を挙げましたが、この理論から考えると、生きる意味を考える状況というのは、社会的欲求と承認の欲求が満たされていない状況と考えられます。

 生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」との関係

 これまで、生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」との関係を把握するために、幸せと欲求について詳しく見ていきました。そこで一旦、生きる意味を考えるタイミングと「満たされていない状態」との関係を、幸せと欲求の定義を使って表します。「満たされていない状態」というのは欲求や幸せが満たされていないということです。
したがって、生きる意味を考えるタイミングは、
・「自由」を前提とする「知識の探求や哲学的思索などにおける精神的な快楽」「創造的な活動によって人との関係の中で役割を果たすこと」「人間関係」
・社会的欲求と承認の欲求
が不足してる状態である場合と言えます。

 このことから、生きる意味を考える一般的な状況で生み出される生きる意味というのは、欲求や幸せが不足している状態において発生する何らかの機能と考えることができます。
そう考えると、
 「生きる意味を考えることは、欲求や幸せの再定義を促す機能を持つ」
と捉えることができます。もちろん、上記の欲求や幸せが少しでも得られている間は欲求や幸せを再定義する必要はないので、生きる意味自体はその間、ただただそれを手に入れるまたは保持するモチベーションとして機能することとします。これは、一般的によく言われる生きる意味とも合致します。

 しかしながら、結局のところこれでは生きる意味が持つ機能は定まりましたが、我々が知りたいのは、一般的に生きる意味を考えることがどういう機能を持つのかということではなく、単純な生きる意味という真理そのものです。もちろん、真理は無理なので仮説がその代替となります。ここまでの考察では、一般によく言われる生きる意味は欲求や幸せの再定義を促す機能を持つと同時に、それ自体は一時的で補填的な存在でしかないということになります。しかし、そもそも、生きる意味は幸せや欲求と同じように定義できるはずです。よって、ここまでの結論としては、生きる意味・欲求・幸せを同時に考えても静的な生きる意味の定義は得られなかったということになります。

 生きる意味とは

 私は生きる意味について重大な疑問を抱えています。その疑問とは、生きる意味がないという状態があり得るのか?ということです。答えは直感的にわかります。生きる意味がないという状態はあり得ません。みなさんも直観的にそう考えるのではないでしょうか。
よって、
 「生きる意味がないという状態はあり得ない」
これを新たな仮説とします。この仮説を基に生きる意味を考えていきます。

 生きる意味は生まれる前に成立している

 「生きる意味がないという状態はあり得ない」
という仮説は、
 「生きている人全員に生きる意味がある」
という仮説を内包します。これを基に生きる意味について考えてみると、生きている人全員に生きる意味があるのであれば、「特定の人間の何らかのユニークな行為」は生きる意味の条件にはなり得ないということになります。つまり、生きている間のユニークな行為は生きる意味に干渉しないということです。であるならば、「人類共通の行為や行為以外の何らかの要素が生きる意味に関係している」と考えるか、生きるということ以外のすべての要素が生きる意味とは無関係であり「生まれる前に生きる意味が成立している」という風に考えることができます。前者は、人類共通の何らかの要素に価値を見出すことで、全人類に生きる意味があると解釈します。対して後者は、人類の要素や行為に着目する前者の視点とは異なり、人類の外を含めて俯瞰することで、人間の存在そのものに価値を見出します。また、両者の解釈はともに、欲求や幸せといった生まれた後の概念が生きる意味の定義に役立たなかったことにも繋がります。

 しかしながら、前者のように人類という狭い範囲内で人類が持つ共通要素に価値を見出すよりも、より俯瞰的な後者の視点による解釈を採用する方が堅実です。したがって、後者の解釈から生きる意味を深堀りしていきます。

 後者の解釈を前提として生きる意味について考えようとすると、人類の外を含める俯瞰が必要になります。
したがって、
 自分とは
 社会とは
 世界とは
という風に俯瞰して考えていきます。

 しかしながら、生きる意味は個人のアイデンティティとは無関係であることから、自分は人間に、そして社会は世界にまとめることができます。また、自分、すなわち人間について考えるにはその背景となる世界が必要であるため、
 世界とは
 人間とは
という順で考えることにします。

 世界の定義

 人は世界のありのままを直接認識することができません。「この世界ってどういう仕組み?」と聞かれて人が思い浮かぶ世界とは、物理学や哲学、歴史、宗教などの知識体系を通して認識する世界ではないでしょうか。思考の構造から考えるとわかりやすいですが、認識とは言語(知識・知識体系・体験)を通して行うものです。我々は直接事象を認識することはできないのです。世界の認識とは、世界を擬似的に自分の脳内に構築する作業と言えます。石橋を叩いて渡る哲学では、自然科学から離れすぎない範囲で哲学を構築し、それを通して世界を認識していきます。

 世界の定義と聞いて真っ先に思い浮かぶのは宗教ではないでしょうか。あらゆる宗教は世界の成り立ちや世界を定義しています。科学技術が発達する前は、宗教そのものや宗教信仰を通じた人との繋がりによって自由の条件である尊厳を獲得することが可能でした。しかし、昨今の、特に日本では難しくなっています。私はその役割を埋め合わせるのが哲学ではないかと考えています。また、他人からの承認に関しては石橋を叩いて渡る哲学や、仮説思考によるその人なりの哲学を構築した後で得られれば良いと考えています。

 では、早速世界を定義していきます。定義する中で重要となるのは、自然科学から離れすぎないという点です。つまり、少なくとも物理学を否定する定義はできません。ただし、一般的な価値観である物理学という知識体系を仮説で拡張して世界を認識したとしても、それは最初から持っている世界観と被ってしまうため、そこに結び付けられた日常の知識・知識体系が我々を引き戻してしまいます。あくまでも、我々は仮説によって常識とは異なる新しい知識体系を創造する必要があるのです。したがって、物理学を否定しない範囲で非常識な世界を定義することが重要になってきます。そこで、私は次の2つの定義、世界の見方を考えました。
 ・仏教的世界観
 ・シミュレーション仮説
だたし、どちらも似たような世界の認識です。

 仏教的世界観

 非常識な世界を定義することが重要と述べましたが、すでに仏教を信仰している方にとっては常識になってしまいます。しかしながら、そのような方は宗教を信仰できているのでそれによって与えられた世界観と被っても何ら問題はないでしょう。仏教は宗教の割に、とても現実的な世界観です。キリスト教のような一神教でもなければ、様々な事象の因果を神に結びつけることもありません。もちろん、一神教を否定しているわけではありません。私は宗教を信仰できればそれで構わないと思っています。なぜなら、哲学が宗教の代替になり得るという前提があるからです。宗教を信仰することで幸せになれるなら、何の問題もありません。

 ちなみに、仏教はこれが生きる意味だという定義は持っていません。そのため、あくまでも生きる意味を考察するうえで、仏教的世界観をヒントにするということです。
仏教の3つの概念を参考にして世界を捉えてみます。

 縁起
 すべての現象は相互に依存し、独立して存在するものはないという考え方です。この、現象や物質の相互依存の考え方は、物理学にも反していない概念だと思います。物体や現象だけでなく、ある物体と時計(時間)が量子もつれの関係にあるという学説もあるぐらいです。

 無情
 すべてのものは変化し、常に同じ状態を保つものはないという考え方です。時間という物理学でも当たり前の概念も変化がないと存在しないと考えられます。非常に現実的で、現代の日本社会に生きる我々にも易しい概念です。

 無我
 固定された自己は存在せず、自己という概念も変化する現象の一部であるという考え方です。特にこの考え方は世界の定義の後の自分の定義に関係する重要な概念です。

 この3つの知見で世界を捉えると、
 「世界は常に変化する物体や現象の集まりである。」
と定義することができると思います。

 シミュレーション仮説

 シミュレーション仮説とは、この世界は仮想世界であるという仮説です。映画マトリックスに登場するような世界です。シミュレーション仮説はとてもおもしろい仮説です。何がおもしろいのかというと、完全に物理学と同じ構造にもかかわらず現実とは違う世界観を持っているところです。なぜ、物理学と同じ構造だと言えるのかというと、この世界がシミュレーションだという前提を持つからです。現実の世界を完全にシミュレーションしているのであれば、それは物理学に則っていると言えます。にもかかわらず、世界がシミュレーションだと考えてみると、常識とは少し違う感覚を持つことができます。

 ただし、何によってシミュレーションされているのかによって捉え方が変わってきます。しかし、それを考えても仕方がないので、一旦、我々の身近にあるコンピュータのスゴイ版でシミュレーションしていることとします。
それを踏まえて、世界を捉えると、
 「世界はシステムの集まりである。」
と定義することができます。

 自分の定義

 自分の定義すなわち、人間の定義です。その根拠は、「生きる意味は生まれる前に成立している」すなわち、個人のアイデンティティは生きる意味に関係ないというものでした。世界の定義に則って、人間の定義をします。

 仏教的世界観

 固定された自己は存在せず、自己という概念も変化する現象の一部という無我の概念を参考にします。何かしらの出来事が起こりそれを受けて反応して周りの物質や他者に影響を及ぼし、相互にそれが行われるということです。物体でもあり変化する現象でもあることから、
 「すべての物質は媒体である」
と捉えることができます。本質的にはこれが定義の行き着く先ではありますが、すべての物質と人間の違いを考えて深堀りしてみます。すべての物質は生き物を部分集合として持ちます。そして、生き物は人間を部分集合として持ちます。まず、すべての物質と生き物の違いを機能から考えてみます。物質と生き物はどちらも、外部からの影響を受けます。しかし、生き物はその特性を持ちながら物質よりも複雑な動きをすることができます。
そう考えると、
 「生き物は物質が空間的により広く媒体として機能するために生まれたものである」
と考えることができます。さらに、生き物と人間の機能の違いですが、他の生き物に比べて人間の方が大きく移動することが可能であり、大きな影響を与えることできます。さらに、言語を持つことで空間だけでなく時間的に影響を与えることも容易です。
つまり、
 「人間は生き物が空間的・時間的により広く媒体として機能するために生まれたものである」
と言えます。
 人によっては、スッキリしないかもしれませんが、これが生きる意味です。

 「生きる意味とは、空間的・時間的により広く媒体として機能することそのものである。」

 賢い人に生きる意味を聞くと、大抵「そんなものは無い」という答えになると思いますが、無いという答えは上記の答えと表裏一体であると思います。ユニークな生きる意味など存在しないのです。しかしながら、それでこそ生きる意味の真価です。「私なんて僕なんて生きててもいいんだろうか。」なんて誰もが一度は思うことではないでしょうか。生きてて良いんです。だってみんなに生きる意味があるんだもん。同じ理屈で、物質は生きていませんが、そこに在ります。つまり、物質ですら在る意味を持つのです。そこらへんの石ころですら在る意味を持つなんて我々としてはとても心強いです。ただ、そこらへんの石ころについて考える際の注意点としては、縁起の概念を忘れないということです。例え、石ころそのものが機能を持っていないように見えたとしても、すべての物質、現象は相互依存しており、相互作用しています。世界のごく小さな一部を構成していることそのものが機能として、意味として成り立つのです。

 シミュレーション仮説

 さて、続いては、シミュレーション仮説ですが、前にも述べましたが、同じような理屈です。「世界はシステムの集まり」でした。我々人間もその大きなシステムの一部です。自分を大きなシステムの中の1つの小さな部品(機能・システム)と定義することができます。シミュレーションであるため、物理学を否定しない現実的な仏教的世界観を基にした、生きる意味である媒体の概念とも矛盾しません。

 一般的に人はそれぞれ独自の機能があるように見えます。しかし、そうすると生きる意味が普遍性を持つという前提との間に矛盾が生じます。しかし、そのような1人1人の機能の差は、さまざまなパラメタ(環境)を入力として与えられた同じ機能を持った媒体(人間)が結果として独自の働きをするという出力の差異として捉えることができます。つまり、機能に差があるのではなく、出力に差があるのです。または、先天的で重要なメイン機能に付随した、後天的なサブ機能と捉えることもできます。いずれにせよ、全員同じメイン機能を持ち、サブ機能や出力の差異自体がメイン機能の望ましい出力結果であるため、個体の違いは問題にはなりません。
 よって、シミュレーション仮説を基にした人間の定義は、
 「人間は環境に合わせて独自の動きをする、世界という大きなシステムを構成する小さなシステムである。」
言えます。
 したがって、シミュレーション仮説を基にした生きる意味の定義は、
 「生きる意味とは、世界という大きなシステムを構成する一部である小さなシステムとして環境に合わせた独自の動きをすることである。」
と言えます。スッキリしました。

 生きる意味が人を支えるのか

 生きる意味がわかったところで、一度生きる意味を整理しておきたいと思います。
・動的で一時的な生きる意味
 家族・趣味・友達・会社・肩書・お金
・静的な生きる意味
 「生きる意味とは、空間的・時間的により広く媒体として機能することそのものである。」
 「生きる意味とは、世界という大きなシステムを構成する一部である小さなシステムとして環境に合わせた独自の動きをすることである。」
これらが生きる意味です。

 これらの生きる意味は、辛い状況に陥ったとき、我々を支えてくれます。しかしながら、動的で一時的な生きる意味は大抵、その場しのぎでしかありません。予想外の出来事で簡単に壊れてしまいます。もちろん、一時的な生きる意味に運良く助けられた方はそれで良いでしょう。しかし、運は運です。一時的な生きる意味にすがることができない状況の方も大勢います。

 一方で、静的な生きる意味は壊れにくく、安定しています。そう考えると、やはり、我々を根底から支えてくれるのは静的な生きる意味のような知識体系、あるいはそれを生み出せるような哲学そのものではないでしょうか。

 しかしながら、私は、動的で一時的な生きる意味を否定しているのではありません。なぜならば、根底から我々を支えてくれる静的な生きる意味やそれを生み出す哲学は最低限の支えにしかならず、それだけでは力不足だからです。

 人間は社会的な動物です。哲学だけが我々を救うということはありえません。ただ、我々は生きる上での前提として、哲学を持っているほうが良いのではないのかと言いたいのです。我々は、哲学が形作る安心の上で、人間という社会的な動物として、一時的な生きる意味を増やしていけばよいのではないでしょうか。

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