本当の整体
皆さん一口に「整体」と言いますが、なかなかどうして整体とは分かりにくいものです。あれも整体、これも整体、どれも整体というようなもので、「本当の整体ってなに?」という質問に誰も答えないまま何十年、何百年と歳月が過ぎてきました。でもいつまでも曖昧なままでも困るので、力不足を顧みず私、三宅弘晃が「本当の整体」とは何か、その定義を試みようと思います。
整体とはなにか
まず整体とはどういう行為か。
整体、それは文字通り身体を整えることです。押したり揉んだり解したりして整えること。これが最も一般的かつ根源的な整体の定義でしょう。
では何のために整えるのか。何を目的に揉んだり解したりするのか。
それは身体を本来の状態に近づけ、自然治癒の力を働きやすくするためです。不調というのは身体本来の状態ではない、自然治癒が完了していない状態。だから揉んで解してその働きを助けるのです。
多くの整体師はこのことを理解しています。各々さまざまな手法を用い整体し、自然治癒力を高め、不調を改善すると語っています。それは間違いではありません。
整体師がまず考えるべきはこの「自然治癒力をどう働かせるか」なのです。整体と自然治癒力は切っても切り離せない繋がりがある、ということから話を始めましょう。
自然治癒力について
では自然治癒力とは何か。もう少し深掘りしてみましょう。
自然治癒力とは、文字通り生き物の身体に生まれつき備わる自己治癒、自己修復能力のことです。車のボンネットが凹んでも勝手には直りませんが、動物の骨は折れてもまたくっつきます。これが自然治癒の力、生き物にしかない力。何らかの要因で異常をきたした部位、組織、細胞を自然に勝手に修復し治癒させてくれる力です。
医療も整体もすべてこの自然治癒力という大いなる働きの上に成り立っています。「俺が治してやった」と偉そうに言う整体師や医師がいたら心の中で笑って下さい。治した主役は自然治癒力であって、彼らは手助けした脇役なのですから。極論すれば医療や整体がなくともたいてい自然治癒しますが、自然治癒力なき医療や整体は全く無力です。
このように有難く偉大な自然治癒力ですが、あまりに控えめで自己主張しないので、好きなように語られすぎている気がします。
揉んで自然治癒力を高めるのだ。鍼を刺して自然治癒力を高めるのだ。姿勢を整えて自然治癒力を高めるのだ。整体師はそう言います。またそうしていると信じています。
しかし本当にそうできているのでしょうか。その整体で本当に自然治癒力の働きが高まっていますか?それは勝手な思い込みではないですか?と思うことがよくあります。
本当にその揉みは有効に働いているか。本当にその鍼は当たっているか。その姿勢は本当に正しいか。その整体は、ポイント、深さ、広さ、リズム、タイミング、これらについてどれだけ吟味されているだろうか。0.01ミリ、0.01秒の違いに吟味は行き届いているか。本当の本当にそれがジャストか。それ以上はないものか。
「本当の整体」とは、このようにひと揉みひと揉みに問い重ねて作るものです。これは本当に奥深いことで終わりがありません。それが分かってくると、安易に自然治癒力を語ることができなくなるはずです。
その反面、どのように触れようがそれなりに働いてくれるのも自然治癒力の特徴です。下手に揉んでもある程度の自然治癒力は働いてくれる。ただ注意しなくてはならないのは、下手に触れると同時に身体を傷めてもいる。それは忘れてはいけないことです。
逆にどれだけ上手く揉んでも、いくらか身体が傷むののも事実。揉んで解して傷みが完全にゼロという事はありえない。そういう難しさもあります。だから整体をする時は自然治癒力を引き出しながら、与える傷みを少しでも減じる努力も並行して進めなくてはならない。上手な整体師はそういうことを常に意識しているものです。
整体によるプラス。整体によるマイナス。常にその差し引きを考える。そしてどうすればプラスがより増え、マイナスがより減るかを探求し続ける。自然治癒力を語るにはまずこれをよくよく肝に銘じておくことです。
その点を理解した上で、さらにぐっと話を深めましょう。それは「自然の理法」について、つまり命の働きについてです。
自然の理法とは
「自然の理法」そんな言葉、聞いたことがないと焦る必要はありません。それもそのはず私の中から湧き上がってきた言葉ですから。しかしとても大事な認識ですので説明を試みたいと思います。
本当の整体を身につけたい、自分勝手な思い込みではなく実際に自然治癒力を引き出したいと本当に願うならば、自然の理法を理解しなくてはなりません。なぜなら自然治癒力は自然の理法に則って働く、その一部だからです。
「自然の理法」とは何か。なにから学び理解したらいいのか。
残念ながら西洋の医学書にその答えは記されていないでしょう。東洋の方には何らかの言及があるのではと期待しますが、いずれにせよ現代医学、整体の世界でこの自然の理法について書かれたものはほとんどないと思います。
しかし面白いことに整体の外側に目を向けると、自然の理法に触れていそうな人たちがいます。それは古のヨーガの聖者であったり、昆虫研究家であったり農家であったり、演奏家や武道家、舞踏家であったりします。
思うに自然の理法の重要性に気が付き、関心を持つのは、大いなる自然を相手にする人たちです。大いなる自然をじっと見据え感じ、命の強さとその反面のはかなさを知り、やがて絶望し、それでも生きようとひたむきに自然の中に生きる人たち。そういう人たちは人並み外れた感性の深さを養い、常人とは違う見方で世界を見ています。
「自然の理法」とは、自然界を構成するあらゆる命たちの営みのメカニズムという見方もできます。どうして生き物は生長するのか。どうして老衰し死ぬのか。どうして子孫を残し生死を繰り返すのか。なぜこのような命の営みが存在するのか。これらすべての答えは自然の理法の中にあるのです。
同じ木を見ても人によって観るところ、考えるところ、感じるところは全く違うもの。葉を見る人。枝ぶりを見る人。舞い降りる鳥や虫を見る人。幹に触れる人。根を思う人。そんな中で一本の木という命の本質を見抜く感性を持つ人が、自然の理法の理解者と言えるかもしれません。そういう人が本当に自然治癒の働きを理解していくのです。
本当の整体への修行
話を整体に戻しましょう。
前述した通り、本当の整体とは自然治癒力の働きを引き出す揉み解しということになります。そのためには自然の理法に向き合う感性を育てなくてはならない。いや、育てようとし続けなくてはなりません。
多くの整体師が間違っているのは、解剖学などの知識や手技テクニックを学べば腕のいい整体師になれると考えていることです。そんなことでは街に溢れる大勢の整体師と何も変わらないし、本当に技が深まることは決してないものです。
本当の整体師になりたいのなら、技や知識などの訓練は当然のこととして、さらに自然治癒力について研究と修行を重ねなくていかなくてはなりません。整体は命を相手にする仕事。それは自然の理法に向き合うということなのですから。
普段の暮らしの中で接する自然、例えば肌に触れる風であるとか、空の雲や陽の光であるとか、近く遠くに聴こえる虫の羽音や鳥の鳴き声であるとか、水の跳ねる振動、広がる波紋の不思議にもっともっと目を向けなくてはなりません。より深く世界を見つめなくてはならない。そしてなぜそうなのかと関心を持ち、自問自答を重ねていかなくてはなりません。そういう人がだんだんと自然の理法に歩み寄るのであって、関心を持てない人は本当の整体師にはなれないものだと私は思っています。
本当の師
しかしなかなか自分の力だけ、自分の考えだけで自然の理法をひもとき、本当の修行を行うことが難しいのも事実です。よほど感性の深い人、なおかつ己に厳しく修行してきた人でないとそう簡単に「自然の理法」はその姿を現してくれないものです。(武道者や求道者が自然の中に身をおき厳しい修行をするのはこのためでしょう)
しかし誰でもそのような事が真似はできませんから、最も有効な、いや唯一の道は自分の修行に導きを与えてくれる師につくことです。自分で辿り着けないなら教えを乞うしかないのです。
もちろんそれは本当の人、本物の人でなくては意味がありません。実際にその人自身が修行し、自然の理法に触れ、体現している人でなくてはなりません。その師は進むべき方向も、進んでは行けない方向も知っているのです。
本当の師は、本当の修行を知っています。自らが辿って来た道そのものが本当の修行の道だからです。そのような本当の師を見つけ、一心に師事すれば、少しずつでも自然の理法が、自然治癒力の引き出し方が体得できてくるはずです。
本当の整体師
このように考えると「本当の整体」を習得するのは、遥か彼方の見えない世界を目指すようなものにも感じるでしょうか。しかし実際にそうなのです。決して簡単だとか、誰でもできますよとか、そんな気休めを言うことはできません。
しかし考えて欲しいのは、整体は何のためにあるかということです。整体とは人の痛みや苦しみを和らげ解消する仕事ではないでしょうか。時にお医者さんでも良くならない不調からその人を救わなくてはならない、そんなこともある仕事です。簡単なわけがないですね。ですから本当の整体をやりたければ本当の修行をするしかない。それは当たり前のことと理解できると思います。近道もエスカレーターも車もないのです。自分の足で一歩一歩進むしかないのです。
人知を超えた神さまが作った私たちの命、そして身体。その偉大なメカニズムに手を入れるのが整体。本に当たる手を入れれば必ず命は応えてくれる。自然治癒力が力強く働きだしてくれる。その実感はそれまでの苦労や苦しみを見事に昇華し快感に変えてくれます。私はその快感を求めて「本当の整体」を追い続けているようなものです。そして願わくばこの命が尽きるまでに、いく人かでもそれを伝え残せればと思うのです。
三宅弘晃