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「高校時代の先生には全部暗記しろって言われて辛かったんですけど,先生の授業で本質がわかりました〜!」と言う生徒に欠けていること

 こんにちは,ひとりごとです。塾講師とか予備校講師をしていると,往々にして「わかりやすかったです,高校時代は全部覚えろって言われてたんですけど,全然覚える必要ないっすね〜,マジありがとうございます」みたいなことを言われるものです。私もこういうことを生徒に言われて,悪い気はしません。むしろ,「ああそうか,キミは今まで暗記地獄に陥っていてかわいそうだったけど,そこから解放されて自力で考えられる身になったのだね」みたいに嬉しい気すらします(思いあがってんじゃねえぞ)。自分自身,誰かに手取り足取り教わることに慣れていないし,覚えなさいと言われると「なぜそうなるのか?」をしばしば自分で考えてしまう人だったので,その頃からの通常営業をしているだけなのですが,生徒の理解度や学習背景によってはそれが新鮮に感じられるようです。

 でも,ここで一つ,違和感が生じました。「自分なんか大学で化学や数学を専門に学んできたわけでもなく,あくまで中等教育+αレベルの化学や数学を,あくまで道具として使ってきただけなのに,片や大学で専門的に学んできて教職課程を一通り修めた(であろう)高校教諭が本質を教えていないわけがないのでは?」と思ったわけです。私なんかよりむしろそういう高校の先生方のほうが本質を学んでいるはずなので,より本質的なことを教えているのでは?と思うのです。

 今回は,そんな問題意識をもとに,実は高校時代にも,もっと本質がわかっている先生に教わっていたのだよ?それを引き出せていなかったのはあなた自身なのだよ?という話をしたいと思います。

予備校講師は,”本質をわかりやすく教えてくれる”という盲信

 世の中の予備校講師(あるいは塾講師)は,確かに比較的わかりやすい授業を提供していると思います。程度の差はあれど,授業が下手な予備校講師など私は一度も聞いたことがないし,もし仮にそういう人がいたとすれば,それは料理の下手なシェフとか字の下手な書道家のように存在意義が揺らぐと思われます。私自身,自分はそんなに授業がうまいわけではないと思っていますが,何というか生徒の求めるものがわかればそのニーズに的確に応える自信があり,そこをウリに仕事をしている傾向があります。(だから大教室でYゼミの亀○先生のような授業なんかできないし,映像授業で誰にでも等しくわかりやすいみたいな授業も,今後もおそらくやらないだろうと思っています)

 “予備校講師の授業が比較的わかりやすい”ことの要因はいろいろあると思いますが,主に,①授業内容で採用・査定されているかどうか(単純に授業の質の違い),②仕事の専門性や幅広さの違い(他業務に忙殺されていないか),③環境の違い(受講者の偏差値や目的意識の分散の違い)の3点に集約されるかと思っています。ネットを散策していると,そういった点を詳細かつ分析的にみている記事があり,今回は下記のシロクマさんの記事たなかくんさんの記事を参考に,私の視点も交えて考えさせていただきました。

要因①:授業内容で採用・査定されているかどうか

 学校教員は教育学部や各学問分野の学部に在籍しながら,教員養成課程を経て「教員免許」を取得していることが前提で,教師としての適性を評価されたうえで学校現場に立っています。教師としての適性,というのは,学問分野の専門性もさることながら,教師としての倫理観を持ち合わせているかとか,学級運営や校務分掌を滞りなく遂行できるかといった側面もあります。授業がめちゃめちゃ上手くても,保護者対応が全然できないとかになってくると,学校教員としては片手落ちになってしまい,評価はそれほど高くないでしょう。

 一方,予備校講師は,(受験から逆算した)教科教育の実力,ないしは生徒の受講満足度や合格実績が最重要とされ,その部分で大きく評価されます。すなわち,極端なことをいえば,その教科の本筋を生徒に理解させていなくても,授業を受けて生徒が満足して,いい大学に合格してくれればそれでいいのです。生徒が満足することを意図して授業をしていれば,そりゃ生徒は満足するだろうし,生徒が“わかりやすい”と感じるのは当たり前のことです。(もはや進次郎構文の域)

 また,学校教員(とくに公立学校の教員)は基本的に教諭として一度採用されたら,(余程の問題を起こさない限りは)定年まで仕事を続けることができますが,予備校講師は毎年の査定を受けて年度ごとに契約が更新されるかたちが多く,査定における評価および運営会社の経営状況次第で突然クビになることもあり得ます。したがって予備校講師は,クビになりたくないから,授業の質を高めて,評価を上げるための努力や工夫を欠かさない,ゆえに(職位が安定している学校教員と比較して)“わかりやすい”と感じられることが多い,という側面は大いにありそうです。

要因②:仕事の専門性や幅広さの違い

 前述の要因①と関連しますが,評価されるポイントが異なれば,当然仕事で重点を置くポイントも異なってきます。もっといえば,組織における役割が異なり,任される仕事が異なってくるわけです。(なんだか逆説的になってしまいましたが…)

 学校教員は,そのほとんどが授業以外にも校務分掌を担っており,地域の方々と接点を持ち会議をしたり,生徒指導を担当したりと忙しい。担任をもっていれば,保護者面談の準備や成績付けなども地獄の忙しさでしょう。学校教員はいわばオールラウンダーです。私も,とある派遣会社を通じて学校の先生と講演の仕事のやりとりをしたことがありますが,忙しさのあまり問い合わせ事項が1週間返ってこないとかザラにありました。(もちろん,そういった状況は先生によるでしょうが…)そういう中で,授業範囲の内容理解を深め,授業を面白くしようと工夫するなどのために使う時間は必然的に削られてしまうわけです。

 一方,予備校講師は,生徒の成績を上げるスペシャリストです。生徒の成績を上げること以外は基本的に何も考えなくてよいのです。実際,(もちろん模試問題作成や採点業務等はあるものの)基本的に授業以外で報酬が発生することはありません。裏を返せば,授業時間以外は何をしていてもいいわけです。だから各講師は,授業の満足度を高めるために綿密に授業準備をすることが可能で,毎年入試問題を詳細に分析して授業内容をアップデートさせていくのです。そりゃ,予備校講師の方が”わかりやすい”と言われて当たり前です。そもそも同じ土俵に立ってないですから。

 また,専門性に関しても,その特性に差異があると思われます。学校教員は(やや極端な言い方ですが)あくまで教育基本法にもとづく学習指導要領に沿って教育活動を行うプロフェッショナルです。したがって,その学習指導要領の枠組みを出ると実は専門性が低い,みたいなことも起こりうるわけです。

 それに対して予備校講師は,学習指導要領という一種の“しがらみ”にとらわれることなく教育活動ができます。ゆえに,大学受験を目指す生徒が満足するようなコンテンツを提供することに長けているし,大学合格というゴールから逆算して自在にカリキュラムを組むことができます。難関大学を目指す生徒であれば,入試問題の中に高校範囲外(教科書非掲載)の内容も含まれることがあるわけですが,そういったところも“入試に出るから対策しておこう”の一言で授業に組み込むことができるわけです。さらに,その学問分野を大学院博士課程までいって究めたような講師があちこちにいるわけですから,そりゃ教育学部出身の方々よりも圧倒的な強みを発揮するのも頷けます。

要因③:環境の違い

 最後に挙げる要因は,先述のシロクマさんのリンク先記事でフィーチャーされていて,私もなるほどと唸ってしまったものです。

 学校では,基本的にクラスごとに成績のばらつきがないように編成がなされ,そのクラス単位で授業を受けることになります。それゆえ,クラス内での成績の高低が必ず生じてしまいます。もちろん,私立高校などでは,「特進コース」とか「医学部コース」とかコース分けがされていることも多く,比較的同質な集団が形成されることもありますが,それでもクラス内で成績の高低は(進学校であればあるほど授業進度が速いので)大きく生じてしまうはずです。したがって,そのような集団の中にいる成績(相対的)下位の生徒は,授業についていけなくなり,どうしても当人のレベルに合った授業を受けることができなくなってしまいます。

 逆に,進学校でなければ,基本的に“落ちこぼれ”が生じないように理解度が低い生徒に合わせて授業を組むので,次第に進度が遅くなっていき,最終的に教科書の最後まで扱いきれないというような状況が生じます。そうすると,そのような集団の中にいる成績上位の生徒は授業を持て余してしまい,やはり当人のレベルに合った授業が受けられていないことになります。

 そう,いずれの場合も,学校現場では個々人のレベルに合った授業を受けるというのがきわめて難しい現状があるのです。小学校や中学校なんかは義務教育なのでこの困難の凄まじさは推して知るべしという感じですが,義務教育を終えて入試を経て学力的に同質な集団が集まる高校においても,あくまで同質なのは入学直後の数ヶ月だけであって,それからは各々の勉強への意識や習慣を反映してみるみる差がついていくので,レベルに合った授業なんていうのは幻想になってしまいます。また,教科ごとの教員数には限りがありますから,限られたリソースの中で進路ごとに必要な教科の異なるクラスを分けて,そのクラス単位で授業をしなければならないので,レベル別授業なんていうのは不可能と思われます。さらに,限られた教員数のリソースを適正かつ公正に配分する必要があるので,「この先生の授業を受けたい」とかいう要望に応えることは基本的にできないでしょう。そうして受けたい授業を受けられなければ,当然,生徒が“わかりやすい”と思うチャンスも希薄になってしまいます。(もちろん,そういった課題点を諸々の工夫で乗り越えた学校の事例もちらほら聞きますが,あくまで大半はこうでしょう…)

 一方,予備校では,大前提としてクラスレベル分けのための入学テストや実力テストの成績を踏まえたクラス振り分けがなされますが,極論を言えば,自分の実力に基づいて,事実上は上位生であればあるほど受講者が受けたい授業を選ぶことができます。受けたい授業を受けられるから満足度が高いというのは当たり前の話ですね。また,下位の生徒で授業選択の余地がなくても,それは入学年度ごと(あるいは学期ごと,1ヶ月ごと)に行われる実力テストを受けて基礎クラスの授業が割り当てられるわけですから,学校の授業よりも圧倒的に適切な(当人に適した)レベルの授業が受けられるはずです。ゆえに,イチから立ち返って丁寧に解説してくれるので,部活で忙しい時期に曖昧なまま終わらせていた単元がちゃんとわかった!みたいな,よくある授業評価エピソードに直結するわけです。上位・下位のいずれにせよ,自分のレベルに合った授業を,自分のレベルと同程度の集団で受講することになるので,学校よりも受講者の成績(実力)の分散が小さくなり,授業レベルとのミスマッチも最小化されるのです。そりゃ“わかりやすい”という評価が出てくるのも納得です。

 また,自ら授業料を払っていることで,”この授業は価値のあるものだ”と思いやすい心理的効果があるようです。私は心理学に詳しくないのですが,どうやらヴェブレン効果(Veblen effect)の一種と思われます。(本来は顕示的消費(見せびらかすために買うブランド品の購入など)に適用される効果のようですが,下記リンクでは広義にとらえられています)

 確かに,学校における“学費”は(予備校のそれと比べると)用途が多岐で不鮮明なため,この授業を受けるためにお金を払っているんだ,という意識は薄いと思われます。しかも前述のように自分で選ぶことができない。それらの状況と比較すると,確かに予備校の授業は“自分の欲しいもの”にお金を払っているので,感じられる価値も高く,相対的に満足度が高く,“わかりやすい”と思われる確率も高まりそうです。(無論,お金を払っているのは多くの場合において保護者ですが,論旨からズレるので“自ら”払うと述べています)

実は高校の先生も,本質を教えてくれるはず

 ここまで,予備校講師の方が学校教員よりも“本質をわかりやすく教えてくれる”と思われる要因を検討してきました。確かに予備校講師の方が,大学受験というゴールを想定して授業を行うという意味では圧倒的に有利で,わかりやすいと思われて仕方がありません。(実際,それを目指して我々は毎年工夫しているわけですし…)

 ただ,それが絶対的なものかというと,私は,どうもそうでもない気がするのです。先述でもちらっと触れましたが,高校1年や2年の時は部活をやっていて,そもそも勉強に専念していなかった。だから,学校教員はそういう状況を知っていて,その上で“お互いにとっての妥協点”として,「とりあえずまずは教科書の内容を知識として入れといてくれ(→そうすればとりあえずなんとかなる)」,とか,「覚えれば解けるから,まずは理屈とか後回しでいいから覚えてくれ(→それで解ける問題をテストで課すから大丈夫だ)」みたいなことを考えて実行しているだけなのでは?と思うのです。

 学校教員は,あくまで自らの授業を受けた生徒に対して,自らが作成する定期試験や小テストを課すことで,その定着度を測り,一定以上の点数となれば“その課程での内容はしっかりと身についた”という判断がなされて,生徒は進級あるいは卒業できることになります。それゆえ,生徒集団のレベルや意識によっては,教員の頑張りや創意工夫は無碍にされてしまい,何をやっても本来の目標に届かないとわかれば,ハードルを最低限のラインにまで下げるという,お互いにとってのwin-winを達成するわけです。むしろ,定期試験前になると「化学はもう例題から出すと事前に言われてるし,覚えるだけでいけるから一夜漬けでなんとかなるから助かるわ〜。物理は範囲広いしどこ出るかも言われてないからマジ困る〜」みたいなセリフがそこらじゅうで聞こえてくるくらいですから,もう正義とは何か?みたいな問いになってきてしまいます…。

 そう,小中高でも大学でも,どこでも言えることですが,学習の目的意識の低い集団においては,ラクなことが良いことなのです。単位を取ることが目的,進級することが目的,テストでいい点とってママに褒めてもらうことが目的…,こうなってしまうと,よほど信念のある教員でない限りは,児童・生徒・学生側に迎合してしまいがちになるし,それで(少なくとも短期的には)問題ないわけです。こうしてハードルを下げにいった教員の方々も世の中には少なくないでしょう。しかし彼らの中にはきっと,かつては本質を伝えるべく教えようとしてきた方がいるはずです。残念ながらそれが見えない先生方も多いかもしれませんが,かつてはきっとそうだったのです。

 ここまで考えると,学校教員の授業が“わかりにくかった”とか“本質を教えてくれなかった”という不平不満は,結局自らの姿勢に起因する(かもしれない)ことがわかります。わかりにくかったのは,自分がそもそもわかろうとしていなかった可能性があるのです。(もちろん,学校現場にはマジで“無能”な先生もいらっしゃるかもしれませんし,100%そうと言い切るつもりはありません。ただ,多かれ少なかれ意志を持って,わざわざメンドクサイ教職課程を乗り越えて教員になった方々でしょうから,きっとポテンシャルを秘めているはずです)

そう,結局は授業も教師も,生徒の使いよう次第である

 一見すると“わかりにくい”,“パッとしない”教師であっても,それはあくまで授業だりぃモードで授業を受けているから,相互作用でそうなっているだけであって,もっと前傾姿勢で授業を受ければ“わかりやすい”のかもしれません。もちろん,小学校や中学校では,教員の力量次第でその教科が好きになったり嫌いになったりなど簡単に決まってしまうでしょうから,たとえサボっていたとしても身に付くor嫌いにならないように授業を進める必要があるかもしれません。しかし,流石に高校以降で“先生が嫌いだからこの教科が嫌い”は通用しないでしょう。

 そもそも,その先生の評価も,本当に自らが下した評価でしょうか。もしかすると,クラスのいわゆる声のデカい,いつも集団の中心にいる(いたがる)ような連中が,「〇〇先生の授業って声小さくて眠くなるわ〜,5限にそれは勘弁してほしい…マジ寝不足解消タイムでしかない,〇〇先生のせいで物理嫌いになった」とか「△△先生の板書って文字が小さすぎて読めない〜。教室の真ん中より後ろだともう無理無理〜」とか言っている連中の話を聞いて,「確かにそうだな…」くらいのスタートだったりするのではないでしょうか。世論というのは大抵そういう流れで形成されるものです。私は公立進学校の出身ですが,そこでもフツーにそうでした。(雑談ですが,“文字が小さすぎて読めない〜”のくだりでハ○キルーペやハリウッドザ○シショウを連想した方は病気ですので私と友達になれます)

 雰囲気に流されて先生の評価をしてしまって,本当は(部分的には)すごくいいことを言っていたり本質的なことを教えていたりするのに,簡単に切り捨ててしまう。私の妻も,前述のような,声も板書の文字も小さくて授業も一見“わかりにくい”数学の先生に,放課後に質問しに行くことがあったようなのですが,質問してみると,自身のわからなかったところを的確に見抜いて見事に紐解いてくれた,という経験をしていました。一見した評価で“わかりにくいからNG”,これはもったいないことのように思われます。どんな先生であったとしても,それはそれとして,使える部分を使えれば良い。結局は生徒側が教育リソースとしての教師や授業を,生徒がどこまで上手く使えているかこそが重要だと思うのです。

 しかし,予備校で仕事をしていると,はじめに述べたような生徒にたくさん出会うのです。もちろんそれはお世辞やリップサービスの類であって真に受けるな,という話もあるのですが,でもよくよく話を聞くと,“もしかするとその先生は無駄に生徒の労力をかけさせたくないから丸暗記プリントを作ってくれて,逆に生徒想いなのでは?”というのもあったりします。それが空回りして生徒の低評価を食らってしまっているとしたら切ない話ですが,それも生徒側が上手く工夫できる素地があれば大いに活用の余地があったはずなのです。

 そういうところを勘違いし,短絡的にものを見ている生徒が少なくないように思われるんですよね。昨今は“わかりやすい”こと至上主義的になっていて,実はわかるようになるための努力が必要だということが可視化されない場面が増えてきました。「30秒でわかる!」ネット動画,「ひと目でわかる!」テレビ番組,「1週間で完成!」の参考書…,世の中にいわば“ファスト・ラーニング”が氾濫していて,それが当たり前になっています。しかし,実はそこにも一定程度の努力が必要で(その努力の程度は各々のそこまでの人生の経験や能力に依存するが),その努力を経て,本質的に“わかった!”という状況に至るわけです。

 私自身も,大学在学時は(サークルやバイトを優先しがちでサボり意識があったことを差し引いても)難しくてわからなかった気象学とか大気科学を,地学教えるからということで改めてウンウン唸りながら式をいじったりグラフ・図表を見比べたりすることを通じて,なるほどそういうことだったのか!とわかった時には嬉しかったし,その過程があったからこそ楽しく深められています。もしそれが簡単にわかってしまうことだったら,程なくして飽きて,簡単に手放してしまうでしょう。

“わかりやすい”こと自体は良いことなので,全人類は良識をもって上手く使いこなすことが重要

 もちろん,“わかりやすい”ことは良いことです。類まれな言語センスと要点捉えた板書でもって生徒を魅了する授業は,世の中にどんどん増えたほうがいいし,それが次世代に伝わっていくことは,学問の発展の文脈においてもたいへん好ましいことだと思います。私は決して「わかりやすいことは悪いことだ,若い頃はわかりにくいものを苦しんで学ぶ経験をしなさい,それが大人になった時に役に立つんだ」みたいな前近代的スポ根クソマインドを押し付けたいわけではありません。前近代的スポ根クソマインドはさっさと滅んでいただいた方がいいです。(痛快ワードが爆誕してしまったので楽しくて二度言ってしまいました…すみません)

 ただ,必要以上に“わかりやすい”ことに慣れてしまう,あるいは行きすぎて“わかりにくいのは受けても意味がない”という価値基準になってしまうと,その先の人生がみるみる豊かでなくなってしまうし,自分のためになるものも自らの独善的な判断によって捨てられ,使えなくなってしまうと思うのです。例えるなら,「肉は脂身があるから食べない,効率よくタンパク質だけ取りたいからホエイプロテインを水に溶いて飲むだけで十分。野菜はすぐ腐るし調理もめんどくさいから食べない,ビタミンを取るのが目的だからサプリメントだけで十分」みたいなことでしょうか。(まあ,それもそれで目的意識の明確な人生でいいのかもしれませんが…)

 書きたいことを書いていたらいつも通り長くなってしまいました。予備校で仕事をしている私としては,高校で授業を全然聞いていなかった(自分が悪い)くせに,高校の授業や先生を否定するような浅はかな生徒が一人でも減ってくれたら嬉しいな…という思いです。高校の先生も実はすごいんやで,それを上手く使えていないのはあなた自身が未熟だからかもしれないんやで…という視点が少しでも広まったら嬉しいのです。本来,予備校講師はこういうことを言わないのですが,そんなに経験のない私があまりに評価されるのはおかしいのでは?と逆に不思議に思ったことから,こういう考察をしてしまった次第です。ひとりごとのくせに”広まったら”なんて矛盾していますが,今回もお付き合いいただきどうもありがとうございました。ひとりごと on noteでした。

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