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あなたは本当に救われようとしていますか

キリスト教の教派(宗派?)は何千どころか、小さな違いを考慮すると3万ほどのそれぞれ異なる「キリスト教」があるとも言われています。
それぞれに他と異なっている故に、そうした状況が見られるわけですが、同じ教団、宗派の中でも違いがあるということは、厳密にいうと、聖書のメッセージは一つですから、そうした異なる教えの中に本物は1つしかないか、もしくは[0]という可能性もなくはないというのが事実です。
自分の属している、自分が教わったものだけが、誤りのない確かなものだと思いたいのは誰でも同じでしょう。
意図的に「騙そう」とする者は、一部にはあるかも知れませんが、それは極めて稀でしょう。
しかしサタンは、意図的に悪意をもってクリスチャンを自認する人を惑わそうと躍起になっているというのも事実です。
他人事だと思っていたことが自分の身に降りかかり「信じていた」ことが「誤り」であったということが分かった時の人の内に生じる、混乱、不安、憤りなどはいかばかりかと思います。
そうした「不都合な真実」を冷静に受け止められる人は、ほとんどいないだろうと思います。
それが、さほど重要な事柄でなかったとしても、少なからぬショックはあるでしょう。
ましてや、人生を懸けてきたもの、と言えるものの場合、物事を証明する「事実」よりも、自分が信じてきたものにしがみつこうとする思いはよく分かるような気がします。

さて、人情的には、そうした思いはよく理解できますが、クリスチャンとしての資質という観点から捉えた場合、必ずしも、そうとばかりは言っていられないようです。
というのは、例えば、次の聖句を考えてみてください。

「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」2テサロニケ 2:9‐12

最初の人間アダムとエバの時から、サタンは人々を欺いてきました。
さて、もちろん欺いたものと欺かれたものとでは、当然欺く者が悪者であることに間違いはないのですが、「欺かれた」方の者には何も責任がない、という考え方を聖書は容認してはいません。

サタンが主なターゲットにするのは、無神論者でも仏教徒でもありません。クリスチャンを自認する人に対して「偽り」を信じるようにされているということです。しかも、その偽りを信じ込まされている人の方が、圧倒的に多数なのです。しっかり見極めて、聖書の心理を掴んでいる人は、全クリスチャンのうち稀だと「保証」されています。

《滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。》マタイ7:13,14

ともかく「広い門と狭い門」「小麦と毒麦」「引網、カラシの種、パン種」のたとえなど多くの箇所で、すべてのクリスチャンの大半は、惑わされ、偽りを信じ込まされ、騙されているということ、「キリスト教」の殆どは偽物だという事実を聖書が保証しているということを、ゆめゆめ忘れてはなりません。
いわゆる「Christiandom キリスト教世界」のどこにキリストの精神が見られるのかを、ほんの少し確認してみるだけで、それは明らかでしょう。

《こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。》マタイ7:20

ところで、前述に引用したテサロニケの聖句にある「神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになる」というのは、神が意図的、積極的にそうするという意味ではないでしょう。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(1テモテ2:4)からです。
では、どういう意味かと言うと、各人に真理を知り、確かめる手だてが必ず与えられるということが保証された上で、何らかの事情で、その人が、それを意図的に退けてしまうことが現にあり得るということを示唆しているものと言えると思います。

そして、その保証の最も基本的なものが聖書です。それまで自分が神のご意志、聖書の真理だと堅く信じてきたものであったとしても、実際に聖書と食い違っていることが明らかになったとき、あるいは指摘された時、さてどういう態度を取るかということが問題なのです。

そうした事柄に現実に直面しない内は、「そんなの、聖書に書いてあることを受け入れるに決まっている」と [ 言う ] のは簡単なのですが、現実にはそう簡単にはいかないようです。
新たに提出された「事実」あるいは、「現状の間違い」というものは、検証してみなければ、果たして、そうなのか、全くのでたらめなのか分かりようがありません。
ふつう人の反応は「なるほど、じゃ調べてみよう」とはまずしません。
「あり得ない」「ばかげている」、更には「まさしく異端だ」「こんな怪しい話を聞くつもりなど毛頭ない」etc.
その他おおよそこうした表現、感覚しか出てこないというのが現実でしょう。

それこそがサタンの思うツボであり、「捕らわれた」状態に留まり続けることになります。
しかし、よく考えてみれば、初めて聖書に関心を持った日からこれまで、様々な事柄を調べ、吟味し、検証した上で、ある事柄を信頼に足ることとして受け入れてきたはずですが、ではそうした吟味はいつ止めてしまうべきだったのでしょうか。
神はそうした態度をどの時点で完全に止めてしまうべきと望んでおられるのでしょうか。

クリスチャンとしてのどの段階に来た時点でそれは、あってはならない態度だと思われるのでしょうか。
提出された「新事実」というものは、検証してみるどころか、見たり聞いたりすることすら、ふさわしいことではないという認識は、クリスチャンとしてどの時点で身につけるべきものなのでしょうか?
「すべてを吟味…しなさい」(1テサロニケ 5:21)という助言は、いつどの時点で無視するのがふさわしい態度なのでしょうか?

「すべてのこと」とは書かれていても、その中にも数多くの例外があり、とりわけ、今自分が信じていること、教えられてきたことと食い違っていると思える聖書の言葉は決して自分で確かめてみたりすべきではないというのが「知恵の道」であるとどこに示されているのでしょうか。

「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ 5:10)という言葉はいつ「自分で確かめるのではなく、信頼のある正式に任命されたとされる立場の人に確かめてもらいなさい」という意味に変わるべきなのでしょうか?

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という現実を常に意識すべきでしょう。
「招かれる者」とは、伝道の対象となる全人類ではなく、クリスチャンを自認する人々です。
招かれた人と選ばれた人の違いを生み出す要因はただ一つです。
自分の知識を聖書に照らして吟味したか否かです。

いずれにせよ「今更、この期に及んで一体わたしにどうしろと・・・」「何がどうであれ、今となってはとにかく、これまでどうり生きてゆく意外にない」ということで、何が真理なのかを確かめてみることを止めてしまった人は、神から見て「救われようとしなかった」人と見なされてしまうことだけは真実なのです。

この記事のタイトルである「あなたは本当に救われようとしていますか」に対して「救われようとは思わない。もう、救われているから。」と、コメントする方がおられました。
ここまで来るともはや救いようがないと言わざるを得ません。

《これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。》
1コリント10:11,12
《にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。》マタイ24:24

言い換えれば「すでに救われた」と確信している人は、滅ぼされる可能性を考慮すべき、すでに「選民(選ばれている者)」さえ惑わされるということです。
こうした警告というか、パウロの気遣いやキリストご自身の言葉を馬鹿にした態度では、救いは到底無理でしょう。
やはりクリスチャンたる者、常に真理の探究者であり続けなければ、本物のクリスチャンにはなり得ないということなのでしょう。


最後に幾つかの「たとえ話」を考慮しましょう。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタイ13:44-46

価値観の逆転が起きていることがわかります。
ある人は、これは聖書の音信、福音を初めて知った時のことで、あたかも人生に1度だけ経験することのようにイメージしている人もおられるかもしれません。しかし、決してそのように限定されているわけではありません。

むしろ、必要に応じて随時体験する可能性が高いと捉えるのが健全な見方でしょう。
それまで知った知識に基づいた価値あるものとして有している価値観、習慣、信仰などを手放して、それまで隠されていて気づかなかった「宝」(当然そうではない可能性も十分にあるわけですから)を入手するというのは、たしかに慎重を期しますし、勇気のいることなります。

ここで、面白いと思ったのが、「見つけた」後「そのまま隠しておく」というワンクッションがあるのは興味深いです。まるで「クーリングオフ」の一定時間を持つような、その間、よくよく吟味して、確認ができたら、行動に移すという感じがしないでもないです。
これこそが「すべてを吟味…しなさい」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」ということの実践なのでしょう。

この新旧の入れ替えに関して、ぶどう酒と革袋のたとえがルカ15章にしるされていますが、結びとしてこう言われています。
「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(ルカ5:39) 

これはキリスト特有の皮肉です。慣れ親しんだ習慣を変化させるにはすべてを一新するための識別力や知恵、まさしく英断が、時には必要だということです。

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