「天国」は未だ存在していないという聖書的根拠
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今回のテーマは「天国はいつから存在するか」というものですが、大昔から、「善人は死んで天国にゆく」という素朴な概念が日本にはあるようで、殆どすべての人にとって「天国」はなんとなく永遠の存在で、いつから存在するかなどという考えさえ浮かばない、時間を超越したイメージなのかもしれません。
「天国」に関する一般的に広く見られる誤解
「天国とは」と検索すると、様々な説明がありますが、単語の意味としての説明を一例として[Wikipedia]からの一節を引用しておきましょう。
「神や天使などがいて・・・」「信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所」という解説で、どこでも異口同音で、ほぼ同様な説明がなされていますが、まずこれが間違いです。
(キリスト教での用法)と断っていますが、確かに「キリスト教」ではそういうことになっているようです。
しかし、明らかに非聖書的です。
神や天使がいるところは「天」であり、天国ではありません。すなわち「国」ではありません。
この「天」と「天国」の区別が付いていないところが、決定的な誤解の第一歩なのでしょう。
更なる誤解に拍車をかける「天国」と「極楽浄土」の同一視
浄土宗や浄土真宗などの浄土系の宗派では、「人は亡くなると極楽浄土に行く」とされています。
浄土とは:「仏教において一切の煩悩やけがれの無い、仏さまや菩薩さまが住む清浄な国土のこと」
冒頭に挙げた「天国」の概念とほぼ同じと言って良いでしょう。しかし、聖書は「天国」の具体的なイメージについては何一つ語っていませんので、それらの一般的なイメージは、時代的に、キリスト教が浄土真宗をパクったのは明らかでしょう。
「極楽浄土」という概念は、「ゴータマ・シッダールタ」の時代にはなかったが、中国の天台宗の教えの中で浄土という考えが広まったことをきっかけに各地に広がったとされています。
そういうわけで特に日本では「天国」と「極楽浄土」はイメージとして同一視されていると言っても間違いではないでしょう。
違いと言えば、そこに居るのは「神様」か「仏様」の違いくらいでしょう。
「天」と「天国」の違い
「天」は神の住み家というか領域であり、永遠の過去から永遠の未来に亘る存在である神の居場所ということですから、「天」も同様にいつ造られたとか、という概念の外にあるものとして受け止める以外ないでしょう。
しかし「天国」、いわゆる天の「国」あるいは神の「国」と言った場合、それは政府であり、権威を行使する機関名です。
そしてそれは、特例措置として設けられた一定期間だけ有効な機関です。
その有効年数は1000年間です。
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さて、ここからがテーマに即した本題ですが、では「天国」はいつから存在しますか。 つまり地から召した人々のための「住み家」のことです。
それが完成したら、そこへ迎えられることになっています。待ち遠しく感じられますか? では「それはいつのことですか?
「あなた方のための場所」つまり天国が、居住可能になる時は、キリストが再臨される時です。つまり、天国は目下「準備中」で、まだ存在していません。
「天国」実現の正式発表のタイミング
では、天国完成の披露式の発表はいつ行われるのでしょうか。
「その時」とはいつでしょうか。サタンと悪霊たちが天から放逐された時です。
つまり患難期開始と同じタイミングです。
サタンと悪霊を追い出した故に、神の国は産声をあげます。
ですから、再臨時に「第一の復活」に与る(死なずに生きたまま変えられて挙げられる人々を含む)花嫁は出来たてホヤホヤの新居(天国)に迎えられることになっています。
それで「天国」は別名「千年王国」と呼ばれます。
ですから、当然それ以前、つまり現在に至るまでの全歴史上、これまでに亡くなったクリスチャンは誰も「天国」には入っていません。
そして同様に未だなお「救い」も「天国」も「キリストの権威」もまだ実現していません。
「天国」が消失するタイミング
「天国」つまり「千年王国」はキリストの再臨時に設立され、1000年後にその役割を終え、消失します。
冒頭で天国は「信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所」という辞書の説明を紹介しましたが、「永久」は完全な間違いです。
元々地に生まれて、召されたその天国の住人は1000年を経た後、つまり天国が消失した後、どうなるのでしょうか
心配には及びません。彼らは再び地上に戻ってきます。
どこまでいっても、人間の住み家は、永遠にこの地なのです。
「天国」は地上の人間の罪とその影響を取り払うために、設けられた救済施設ともいうべきもので、その贖われた人々の、リハビリテーションのために何と「千年間という長い年月を要しますが、それでも永遠というスケールから表現すれば、「召されたクリスチャン」にとっては臨時雇いの仮住まいにすぎません。
「キリスト教」と呼ばれる宗教の、聖書に関する無知さは、どこをとっても呆れるばかりです。
ついでながら、今回のテーマからは外れますが、千年王国の終わりに、み子イエス・キリストは「王」としての勤めを終え、「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」を神に返納し、元通り、み父に「従い」ます。
つまるところ、当然ですが「子」は「父」の支配下に喜んで入るということです。同等でも同質でもありません。
前回投稿した「神のご意思と[キリスト教]の矛盾点? ー 人は死んではいけないのか。死ななきゃいけないのか。」という記事中で
とお断りしておきましたが、これからその真相を明らかにしてゆこうと思います。
「天国」は人類を救う、すなわち「地上での永遠の命」を回復するための手段(「王また祭司」のための活動領域)であり、当初の神の計画にも、構想にありませんでした。
「死んで天国に入る機会を、神自ら、閉ざされました。」と記したのは、疑問点に注目していただくための一種の「詭弁(実際には誤っている論理の展開が用いられている「推論」)」の類です。
未だ「救われた」たクリスチャンは一人もいないと言える聖書的根拠
さて、少し前のところで【「救い」も「天国」も「キリストの権威」もまだ実現していません。】と、さらっと書きましたが、このことから、恐らくすべてのクリスチャンにとって、更に由々しいことと受け止めるであろうことが明確になります。
つまり「救い」も今のところ、まだ「ない」ということです。
現在のクリスチャンの「救い」は単なる「reservation、予約」でしかありません。
したがって、現在までに「救われた」と過去形で言える人は一人も存在していません。
これが、聖書が明確に伝えている事実です。
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