マガジンのカバー画像

〘メインマガジン〙自由と開放を告げ知らせる【ヨベルの角笛】

89
このマガジンはメインのマガジンとなります。 千載一遇の聖書研究サイトへようこそ! 心理を探求するあなたの訪問を心より歓迎します。 先入観を捨てて、聖書を素直に、廉直な思いで読ん…
運営しているクリエイター

#クリスチャン

永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないという聖書的根拠

いきなり、センセーショナルというか、前代未聞のタイトルになってしまいましたが、このテー マは、キリスト教として知られる信仰の基本中の基本とも言うべきもので、ある牧師の言葉を借 りれば、「キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。 キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。」と表現されるく らいで、これを外したら、キリスト教は成り立たないと言われています。 しかし、(様々な宗派があるにせよ)ほとんどのキリスト

ー心ない人に煩わされている、全てのクリスチャンの方々へー

最近、「教会や牧師に躓いて、離れてゆく人は少なくない」という話を耳にしました。 また、日本人の場合、教会に来始めて信仰を持ち、「やっぱり行くのやめた」となるまでの期間、つまり「クリスチャン寿命」は、平均3年と言われているようです。 何がそんなに耐えられなかったのでしょうか。 おそらく、仲間からの仕打ちや軋轢(あつれき)でしょう。 いつの時代も同じです。 《あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くさ

クリスチャン女性は教会では黙っているべきですか

使徒パウロによる、ある部分が、男尊女卑的だという指摘や、質問が少なからずあるようです。 それらは、次の聖句です。 これらの聖句に関する解説としては、〘パウロの個人的な感覚から出ているものに過ぎないとか、・・当時のコリント教会への助言のために書いた手紙なので普遍的意味を持たない。テモテへの手紙も同様。パウロも古代の男尊女卑の影響を受けていたので止むを得ない〙などの見解が少なくないようです。 しかし、一見理解しがたいと思う聖句を、「聖書筆者の個人的意見、当時の特定の教会の問

ペテロに「天の国の鍵を授ける」とは何を意味しますか

イエスが「わたし【も】」と言われているのは、その前節で、「あなたがたはわたしを何者だと言うか。」という質問に対して ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたことに呼応したものです。 ではイエスは、ペテロの上に教会を建てると約束されたのでしょうか? いいえ、イエスが言われたのは「ペトラ(岩)」の上ということです。 この名前は使徒とされたシモンにニックネームとして与えられた名ですが、「ペテロ」(ギ語:ペトゥロス 男性名詞)は確かに「岩」という意味もありますが、

「天国」は未だ存在していないという聖書的根拠

※↓はこの記事の音声ファイルです。朗読を聞きながらお読みいただけます。 今回のテーマは「天国はいつから存在するか」というものですが、大昔から、「善人は死んで天国にゆく」という素朴な概念が日本にはあるようで、殆どすべての人にとって「天国」はなんとなく永遠の存在で、いつから存在するかなどという考えさえ浮かばない、時間を超越したイメージなのかもしれません。 「天国」に関する一般的に広く見られる誤解「天国とは」と検索すると、様々な説明がありますが、単語の意味としての説明を一例と

神のご意思と[キリスト教]の矛盾点? ー 人は死んではいけないのか。死ななきゃいけないのか。

※↓は、この記事の音声ファイルです。再生させながら、記事をお読みいただくことができます。 「現実がどんなに辛くても、死んだ後天国に召され、神のみそばで永久に過ごすことができる。」 そんな願いを言い表すクリスチャンの方は少なくないようです。 すなわち、そのひたすらな願いが叶うためには、当然、人は死ななければなりません。 では、逆に考えてみましょう。人が死ぬのを待って、天国に招くことが、神の願い、あるいは目的なのでしょうか。 ここで、「人の願い」と「神の願い」を比較して見たい

「天国」への憧れを抱く方々へ ー「裁き主」になる用意と覚悟はできていますか。

あなたクリスチャンとして、次のキリストの言葉にも留意しておられることでしょう。 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」マタイ7:1,2 言うまでもありませんが、これは、人を裁かないようにしていれば、世の法律上でも、神からの裁きも免れるということではありません。 自分勝手な基準で他人を裁定してはいけない。ということでしょう。 ともかく、「クリスチャン」たるもの、この態度は肝に命じるべき

あなたは、費用を計算しましたか? -ルカ14章の例えの真意

イエスと弟子たちの一行に後から付いて来ていた大勢の群衆に、ある時このような話 をされます。 《わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を 計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。 基礎を築いただけで完成できな

永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないという聖書的根拠part1

「救い」のシンプルな構造 基本的な概念として「救い、救済」とはどういうことでしょうか。 例えば「治療」とは病気の人を健康に戻すことです。 「元気」になるとは元々の気、活力を取り戻すことです。 結局の所、本来の姿、あるべき状態に「戻す」ことに他ならないでしょう。 これらはなんとなく聞いているだけなら、そりゃまあそうに違いない。という感覚で受け止めるでしょうが、深く考え始めると、どれもみな「程度問題」の関わる漠然とした、人の受け止め方で如何様にも判断され、こんなもんだろう。い