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ペテロに「天の国の鍵を授ける」とは何を意味しますか


「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる(オイコドメオ)。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」マタイ 16:18,19

イエスが「わたし【も】」と言われているのは、その前節で、「あなたがたはわたしを何者だと言うか。」という質問に対して ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたことに呼応したものです。

ではイエスは、ペテロの上に教会を建てると約束されたのでしょうか?

いいえ、イエスが言われたのは「ペトラ(岩)」の上ということです。

この名前は使徒とされたシモンにニックネームとして与えられた名ですが、「ペテロ」(ギ語:ペトゥロス 男性名詞)は確かに「岩」という意味もありますが、どちらかと言うと、小さめのもので、この語は聖書中に156回使用されていますが、全て使徒ペテロの固有名詞として使われ、普通名詞という扱いでははありません。

一方教会を建てるとされる「岩」(ギ語:ペトゥラ 女性名詞)は「岩棚、崖、洞窟、岩地」など巨大な、或いは広い場所を指しています。

イエスがご自分の教会を建てると言われているのは「ペトゥラ」であり、使徒ペテロとは全く別です。
ペテロが「岩」という意味の名であったため,彼に因んでそう表現されたただけで、ペテロが教会の土台となると言ったわけではなく、またそう意図されたわけでもありません。

これが、ペテロの名に因んだ一種の「比喩的表現」であることは次のことからもわかります。

「教会」(ギ語:エクレシア)は建造物ではありません。人々の集合体です。ではなぜ「建てる」(ギ語:(オイコドメオ)と表現されているのでしょうか。

「オイコドメオ」という語は、 「家」を意味する「オイコス」と「建てる」を意味する「ドメオ」という語の複合で、単に建てるという意味だけでなくこの語の中に「家」というのが含まれています。つまり建築に関する特定の用語で「家を建てる」という意味の単語です。

そして、このことを語られた時のイエスの思いのうちにあったのは、山上の垂訓の際に最後に語られたたとえ話で、そのことに暗に言及しておられるのでしょう。

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。マタイ 7:24-27

「岩の上に自分の家を建てた」 ここに見られる単語は「ペトゥラ、オイコス、オイコノメオ」です。

エクレシアを「建てる」という動詞で表現されているのは、硬い岩地の様な土台に家を建てることの永続性を示すためのもので、ペテロに対して語られたこの一文全体が基本的に比喩だということです。
実際、「教会を建てる」という表現がなされている所は、聖書中でこの1箇所だけです。

実際に教会の土台となるのは他ならぬキリストご自身に他なりません。決してペテロではありません。

「わたしたちの先祖は皆、・・モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩(ペトゥラ)こそキリストだったのです。」コリント一 1:1-3

さて、ではこの話のテーマである、続く「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」という約束は、何を意味するものでしょうか。

勿論これは、直接ペテロに投げかけられたものです。

まず「天の国の鍵」とは何なのか、を考える前に、その後に語られている、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という部分に注目してみましょう。

ペテロが関われるのは、「つなぐ」にしても、「解く」にしても、あくまで「地上」に限定されているということです。

つまりペテロが、人として生きている間だけ有効なもので、決して永続的なものではないということがわかります。

では、極めて限られたその間におけるペテロに与えられた、何某か特別なものに思える「天の国の鍵」とは何でしょうか。

この約束は、岩の上に私の教会を建てるという言葉に続けて語られているので、そのことと密接な関係があるに違いありません。

それはとりもなおさず、教会が発足することであり、キリスト亡き後、天の国に入るための鍵は「教会」の働きに依存することになりました。

すなわち「天の国の鍵」とは「Χριστοῦ ἐκκλησίαν(クリスチャン会衆)」をオープンさせる鍵であり、それはペンテコステの時に実現しました。

ですから五旬祭の日に生じたできごとに、戸惑っていた人々に向かって口火を切ったのが、他ならぬペテロだったわけです。

「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」。 使徒2:14

あたかも除幕式のテープカットのような、名誉ある役割を仰せつかったということです。

「あなたが、繋ぐ、解く」というのは、地上のエクレシアの役割のことであり、エクレシアこそ、天の国の出先機関というか、出張所であり、天国への道筋は、地上のエクレシアを介して可能になったということです。

さて「天の国の鍵」と表現されていますが、そもそも肝心の「天の国」そのものについては、イエスはこう約束されています。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ヨハネ14:2

「私の父の家」とはすなわち「天」そのもののことでしょう。
その「神の住まい」である「天」そのものにクリスチャンが入るわけではありません。
言わばそのエリア内に「あなた方の場所」という特別な備えを設える計画があるということです。

「あなた方のための場所」つまり「天の国」を「用意」しに行く、ということですから、少なくともその時点ではまだ、影も形もありませんでした。
そのためにはまず、イエスは昇天されなければなりません。
では、その「用意」はいつ、整うことになりますか?

「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:3

「用意」が整えられて、完成したら、イエスは召された者たちを迎えるために、再び地に来られると約束されました。
ですから、「天の国の鍵」は与えられましたが、それはあくまで、天の国への旅立ちと受け入れを可能にするパスポートの発行業務のようなもので、それさえあればフリーパスという事ではなく各人には当然、入国審査があります。
直接イエスに迎えられて(実際はみ使いたちがアテンダントするという趣旨のことが黙示録に書かれていますが)初めて入国できるわけで、その「鍵」で直接、天の国に入る入口を開けられるというようなものではありません。」

実際のところ、「天の国」に入れるのは、イエスの再臨時ということですから、まだ再臨は生じていない現在なお、準備中であり、「鍵」があろうとも、そもそも、「天の国」自体が今のところ存在していないので、誰一人入れるものでもなく、当然これまでただの一人も「天国」に召された人はおりません。

ともかく、ペンテコステで、せっかく順調なスタートを切ったエクレシアも、純粋な形で保たれたのはごく僅かな期間でした。
使徒たちが地上の舞台を去った後、教会はたちまち腐敗していったからです。

「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」
使徒19:30,31

いわゆる「小麦」が植えられた後に、毒麦が蒔かれ、結果的に、「エクレシア」は「小麦と毒麦の両方が入り混じった」ままの状態で、天国に収穫されるまで、保たれることになりました。

これはどの宗派であろうと、変わらず、多かれ少なかれ同様の状態にあります。このグループだけは例外的にその影響はないと主張できる聖書的根拠はありません。


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