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永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないという聖書的根拠part1

「救い」のシンプルな構造
基本的な概念として「救い、救済」とはどういうことでしょうか。

例えば「治療」とは病気の人を健康に戻すことです。
「元気」になるとは元々の気、活力を取り戻すことです。
結局の所、本来の姿、あるべき状態に「戻す」ことに他ならないでしょう。

これらはなんとなく聞いているだけなら、そりゃまあそうに違いない。という感覚で受け止めるでしょうが、深く考え始めると、どれもみな「程度問題」の関わる漠然とした、人の受け止め方で如何様にも判断され、こんなもんだろう。いや何だか腑に落ちないといぶかる人など様々でしょう。
一つの問題は、そもそも「元々」がどういうものか、どの程度のものかはっきりしていないことにあります。

話が長くなるのでそろそろ本題に入りますが、これから考える「救い」は例えば「借金を肩代わりしてもらえた」とか「溺れそうな時浮き輪を投げてもらって助かった」とかそういう話ではありません。

大げさな表現を使えば「究極の救い」とでも言えるかも知れませんが、これから話す「救い」は至極シンプルなもので、「人の本来の状態」とは神が人をどのようなものとして造られ、どんな生活を想定し、どんな関係で神と一緒に過ごすことにしておられたのか、が確認できるなら、非常にスッキリ理解できるはずです。
つまり「神の目的」こそ「本来の人のあるべき状態」であり、「救い」とは単にそこに戻ることに過ぎません。

言い換えれば「救い」の基本は「振り出しに戻る」ということです。
(双六[すごろく]が廃れた現代、若い世代はにはすでに死語?  リセットかリスタート]の方が分かりやすいですね)
キリストの贖いによって「罪」を贖うということは、端的に表現すればそういうことです。

ネットで 「キリスト教 救い」で検索すると殆どのサイトで筆頭に、そして異口同音に 『「救われる」とは、「神の怒りから救われる」ということです』という内容のことが必ず出てきます。

ウィキペディア(Wikipedia)にはこうあります。
『罪の咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあって神の恩顧を得、永遠のいのちに与ること』
この説明の「超越的な存在世界にあって」という表現がいまいちよく分かりませんが、おそらく「神の国、天国」という意味なのでしょう。
クリスチャンは皆、これらの説明に同意されるのでしょうか。

「当たらずとも遠からず」という言葉がありますが、私の感覚では「遠からずとも当たらず」という思いがあります。

「罪」という語はとても重い響きですが、「罪」と訳されるヘブライ語「カーター」は、エラーとかミスという意味です。
一例: 「七百人のえり抜きの兵士・・・髪の毛一筋をねらって石を投げてもその  的をはずす (ヘ語:カーター) ことがなかった。」士師記20:16
同じところを「罪を犯さなかった」とも訳し得るということです。

アダムによってその後の全人類に「エラー」が生じたわけですが、では、その前の状態(振り出し)はどういうものだったのでしょうか。
「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」ローマ5:12 
「死」はエラーの結果であり、本来人間は死ぬことなくずっと行き続けるものとして創造されました。

ここで、だったら「命の木」など、要らないんぢゃないのでは? という疑問が浮かぶ方もいらっしゃるかもしれません。
(それをここで扱うと長くなるので、この点の詳細は「84 聖書的に言えば、人間の命は4種類」という記事を御覧ください。)
http://yoberu-t.com/pdf/84inochi4shurui.pdf

死も病気も神に対する恐れ、罪悪感などはすべてアダムの「エラー」によるものですから、心身の完全な健全さ、神との関係などを全部ひっくるめて、「救い」が実現した状態をもっともよく表す端的なフレーズが「永遠の命」と言えるように思われます。

これからしばし「本来、人間という存在は神にとってどんな存在なのか」ということに注目してみたいと思います。

ちょっと「話せば長くなる」んですが、どうしても訳あって神(父)がまだ、たったお独りだったところからスタートすることにします。
辛抱してお付き合いください。

まあ、他に誰もいなかったわけですから、父でもありませんし、崇拝する者もいないので「神」ですらありませんでした。
ただ、「エヒェ アシェル エヒェ "I am who I am" 神がモーセに現れた時、名前を尋ねられて自己紹介されたときの表現)であったということは、創造者としての最も的確な名前の通り「私は成る」という方でしたから、その後、父に成り、神に成り、裁き主に成り、救い主に成られました。

ところで「み子」はなぜ独り子なのでしょうか。
次の引用は「言葉」と呼ばれたみ子について、「知恵」を擬人化して述べているところです。

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったがわたしは生み出されていた。
大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いて境界とされたとき主が上から雲に力をもたせ深淵の源に勢いを与えられたとき」 箴言8:22-28 

まずはじめに注目しなければならないのが22節の「初めにわたしを”造られた"(ヘ語:カーナー) 」という訳語です。
これは誤訳というか、相当に乱暴な訳です。
[カーナー]は 「to get 得る, acquire 継ぐ、買う」という意味の語です。
他の使用例:
「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を”得た”(カーナー)」と言った。」創世記4:1 
「右の御手をもって”得られた”(カーナー)その山に」詩編78:54
「わたしの口が言いきかせることを忘れるな、離れ去るな。知恵を”獲得せよ”(カーナー)、分別を”獲得せよ”(カーナー)」箴言4:5

そして24と25の表現
「わたしは”生み出され”(ヘ語:クール)ていた」
他の使用例:
「 お前は自分を”産み出し”(クール) 岩を思わず、”産み”(クール)の苦しみをされた神を忘れた。」申命記32:18 
「あなたは最初の人間として”生まれた”(クール)のか。山より先に”生まれた”(クール)のか。」ヨブ記15:7
「産みの苦しみをされた神」という表現が興味深いですが、ともかく、み子は決して被造物ではありません。

神から産み出された故に「独り子」であり、その意味で唯一の存在だからです。

さて、今検討した箴言は、創世記の地の創造のまえから、み子はそこに居たとされています。
しかし、物質創造の前にいわゆる「神の子たち」と呼ばれる天使が創造されていたのでしょう。
すでに天において、大勢の子供を持っておられたのなら、なぜ、物質宇宙を造り、地を整え、動植物を造り、そこに人間を創造して置かれたのでしょうか。
当然のことながら、物を創り出すには、実際の物理的塑性だけでなく、それ以前に、多様なデザイン、全体の関係性や環境などのシステム設計など、膨大な時間の経過があったはずだと容易に想像できます。

そうした多大な準備は「人」を存在せしめるために他ならないでしょう。
ですから、み使いと人間が、時に同じ「神の子」と表現されるとしても、人間の創造はその目的も思いもまた、天使たちのそれとは全く異なるものでした。

まさに人間のために物質の「天と地」が造られたと言って良いでしょう。
とりわけこの「地」についての神の目的は明確です。

「主に従う人は地を継ぎいつまでも、そこに住み続ける。」詩編37:29 
「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、 『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』」 イザヤ45:18

ここで冒頭に紹介した、一般的なキリスト教の「救い」に関する定説を思い返して下さい。
「天国での永遠の命」はたしかに紛れもなく、クリスチャンに向けて約束された素晴らしい報いです。
しかし、それらを救いの本筋というか、それこそが「救い」という感覚は、ちょっとずれているように思います。
重大なものを見落としていると私が感じるのは、それは、天と地を造られた「神の本来の目的」という観点から言えば、異なっているということです。

元々、人が永久に住むための場所は「天」ではなく「地」あったということです。
いや、「あった」と過去形で表現されるものではなく、それは今でも、これから先も永遠に何も変わらないということです。 

例外はありません。どうしてそう断言できるでしょうか。
天に召されたクリスチャンたち、花嫁の住まいとしての天は期間限定の契約で、更新されるされることはありません。
千年が終わると全員、地に帰ってきます。 それは決して一時的な里帰りではありません。
「地」がその後の住まいとなります。 なぜなら、神自ら天から下られるからです。

「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示21:2-4

この聖句はとても不思議な文章です。
「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ」 この時点で「夫」はどこにいるのでしょうか。
夫に面会するためにおしゃれして天から降るということです。
天の神の元を離れ、地に下ると、神の幕屋が地上の人々の中にあってその中に住んでおられると言います。

この文脈を他の聖句と整合性をもたせる捉え方をするために、多少無理矢理に解釈してみました。
神(み父)のもとを離れ、一足先に地に下って幕屋に住まわれていた神(み子)と一緒になるために天から下ってきた。
そうでないと、花婿と花嫁は永遠の別居ということになってしまいます。
この記述が字義通りだと断言することはできませんが、それ以外の解釈を試みるほうがもっと大きな無理があるように思えます。

ともかく、これで、ようやく創造当初の目的が果たされ、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もなく、神と共に永遠に住む」ことになります。
「振り出し」に戻ったこれこそが「人類の救済」です。

サタンの影響でアダムの犯した罪により生じた人類のエラーを解消するために、贖いをなし遂げられたみ子(王の王であり大祭司)と共に「地のすべての国の民を祝福する経路となるべく選ばれた人々(王また祭司)、つまり異邦人からのクリスチャンと、メシアを認めたユダヤ人からなるグループは、アブラハムに約束された「あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福する。」創世記 22:18)という目的のために、例外的に天に召されることになったということです。

ですから、「永遠の命」の見込みは初めから、全人類に備えられたものであり、クリスチャンに限定されたものではありません。
というより、クリスチャンを除く全ての人々(歴史上生まれてすでに亡くなった人々と、終末期に生きている人々が本来の「永遠の命」を得られるように、助け導くために存在しているのがクリスチャンであるということです。

「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」・・・イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。」マタイ19:16-23

「永遠の命を得られる条件」を尋ねられた時、よく知っているはずの神の義の基準を告げられます。
男は「みな守ってきました」と述べましたが、持ち物を売って施すようにと言う提言に悲嘆して去ります。
結論は金持ちが「天の国に入る」のは難しい。というものです。

男は「天の国に入る」ことを尋ねたわけではありません。
イエスは彼の直接の質問には即時答えられ、その後のイエスの言葉は、今度はイエスの側から男に投げかけたもので、「完全になりたいのなら・・・」と続けています。
男が得損なったのは「永遠の命」の機会ではなく「神の王国に入る」見込みでした。

同様の記述ですが、

「『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」。ルカ 10:25‐28)

ここでも「永遠の命の条件」について、通常のユダヤ人に示されていることを勧めただけで、特にクリスチャンに求められていることは何ひとつ告げておられません。しかし、「正しく答えた」と言われ、実行すれば命が得られる。と保証されます。
ここで問題になっているのは「永遠」の命のことに限定されていますので、この「命」は当然「永遠の命」のことです。

明らかに「永遠の命」はクリスチャンになることに依存していません。



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