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あなたは、費用を計算しましたか? -ルカ14章の例えの真意

イエスと弟子たちの一行に後から付いて来ていた大勢の群衆に、ある時このような話 をされます。

《わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を 計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。》
(ルカ 14:26‐33)

これはキリストの弟子となると決めたら、それなりの覚悟ができていなければならないということでしょう。
肉親や命まで全てを捨てて、さらに自分の担うべき重荷を、負いつつ、絶えずキリストの後に従う者でなければクリスチャンになれない。
と諭され、そして二つの例えを挟んで、結論として、「そういうわけで([同じように]新共同訳)、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは・・・」とその点を繰り返しています。
この結論に入る接続詞に注目してください。「そういうわけで、同じように」

さてこの2つのたとえ話と、結論のどこが「同じよう」なのでしょうか。
たとえの前後で繰り返されているように、この二つの例えは、クリスチャンを志したら、文字通りすべてを捨てるという覚悟がなければ弟子にはなれない、と言うことを教えることがその話全体の目的でしょう。

しかし、「例え」から「吟味の必要性」は分かりますが「すべてを捨てる」という適用に直接つながることは何も述べられていません。
それどころかむしろ正反対のことが話されていると言ったほうが良いでしょう。「捨てる」どころか、前者は新たに「塔」を設けようとして、自分の資産で足りるかを 計算します。
当時「塔(やぐら)」を立てる目的は、火事や泥棒などの敵から財産を守るために建てられました。
後者では、兵力の違いなどを腰を据えて吟味し、結果、計画そのものを取りやめ、別の選択肢を取る方が懸命という結論になっています。
そのようにして「和睦を求める」理由は、自分自身を含め兵士や国民の命や財産を保全するということに他ならないでしょう。
どう読んでもこれらの例えは「吟味の必要性」だけに注目していると言えます。

最初の例えは、その吟味をしないまま、手を付けてしまって失敗した場合の最終結果の話しです。
「塔」も建たず、財産も無駄に浪費してしまうということになるでしょう。
二つめの例えは、吟味の結果、別の選択肢があり、そしてそっちの方が賢明な道であるという、道理に適った一般的な見方を示しています。
この王の戦いの例えを塔建設の例えに当てはめてみますと、計算した結果建てる費用が全く足りないと判断されたら、その計画そのものを断念するのが懸命と言うような結論になるのだろうと思います。

それで「例え」そのものは、決して「初志貫徹」を励ましているわけではないのです。

しかし端的に言って 「すべてのものを捨てる」 このフレーズこそ話の要点であり「クリスチャン」として成功するための必要絶対条件と言っていいでしょう。

仮に、このことを無理に「例え」に当てはめて見ようとしますと、ひとつ目は、親族から借金までして、自分の全財産を売りさばいても、塔を建てる費用を捻出するという覚悟をもって事に当たれば、成功する可能性があるという考えが導き出されるかもしれませんが、これでは、何も捨ててはいませんし、全く意味を成さないように思います。
二つ目の例えは、半分の軍でも勝てるように、神に祈り求めるとか、そうした信仰を働かせるとかいうようなことは何も示されません。
あくまでも、自分の力、自分の持てる範囲でできるかどうかを判断するというのが前提になっています。
そして、今の自分には一万の軍勢しか、持ち合わせがありません。そうなると、全財産をつぎ込んで、あと、一万の軍勢+αを雇ってまでも、それに打ち勝つ覚悟があるかどうか、というのなら、話しはわかりますが、しかし、そうではないのです。 志したが、吟味した結果、とうてい無理だと分かったら、別の解決方法、別の取るべき道があり、そうして構わない、というより、そうあるべきという話しになっているのです。
キリストにとって本来、そうあるべき、望ましいことは、万人が全て 1人残らず、何が何でもキリストの追随者になってもらいたい。ということでは無いのでしょうか。

この話に限って、クリスチャンになるよう強く励ましているというより、こうしないと「なれない」ことに重きが置かれています。
実際、全体の殆どが「否定的」な表現で構成されています。
「・・憎まない者は、弟子になることができません。・・ついて来ない者は、弟子になることはできません
・・計算しない者が・・完成できなかったら・・見込みがなければ・・財産全部を捨てないでは、・・なることはできません。」

この話を誰に向かって話されたか今一度思い出してください。
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。・・」

ですからこの例えの意味するところから言えば、キリストの弟子になることは絶対命令ではなく、むしろクリスチャンとなる以外の別の道を選択することも想定内であり、いわばそれも尊重されているという考えが言外に示されているように思えます。

(キリストを認めること、愛すること、信じることと、弟子となるというのは別問題ということなのでしょう)
最後の締めくくりとしてこう付け加えられています。 

《ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに 味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞 きなさい。》(ルカ 14:34,35)

弟子になりたいと願うのは良いことだが、それを貫き通すことができない人もありうるわけですから、憧れや好奇心、あるいは誰かに勧められたり脅されたりして、十分な覚悟を持てずにいるなら、成り行き任せてしまって、途中で悲惨な目に遭ってしまわないようにという、キリストの哀れみから話されたたとえなのでは無いでしょうか。

伝統的なキリスト教のイメージとして、悔い改 めてクリスチャンにならなければ地獄に落ちる というような、いわゆる「絶対要求(ねばなら ない思考)」として捉えられているようですが、 そうした「All or Nothing(オール オア ナッ シング 意 : すべてか無か。妥協を許さない立場や決意をいう)」的な思考は歪んだ心や、葛藤 やストレスを貯め込む要因となりかねません。

キリストの弟子になるという勧め、あるいは招待は喜ばしく、文字通り無限の可能性 を秘めていますが、しかしそれは「絶対要求」ではないということも覚えておきたいと思います。

天国か地獄か



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