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短編小説 穴の闇から

「あのこと」があったとき、わたしは四歳だった。四十年ほど前、幼稚園に入ったばかりだった。

母に連れられて、父方の祖母の病室にいたのを覚えている。病院はどこも白っぽく無機質で、ところどころ不自然に明るく彩られていた。虹の色の順に並べられた千羽鶴、風合いもとりどりの組みひもでできた犬や鳥。家ではかいだことのないにおいがした。薬や病院の建築材のせいだろう。病んでいる人、死んでいく人のにおいだったのかもしれない。

祖母は寝たきりだった。心臓手術を繰り返すうち、何かの合併症で昏睡状態になったと聞いている。「たかちゃんが赤ちゃんの頃は、ずいぶんかわいがってくれたのよ」と母は言っていたが、覚えていない。話をした記憶すらない。

それでも幼稚園が休みのときなど、週に一度は母と病院にやってきた。祖母は「ふしぎな存在」だった。近くて、遠い。遠くて、近い。

母が花の水を換えに病室を出て行ったときのことだった。いまと違って病院が見舞いに花を禁じることがなかったので、わたしたちはいつも庭の花を切ってもってきていた。花はかつて祖母が丹精していたものだという。

わたしは時間をもてあましていた。売店で母が買ってくれた、ガラスびん入りのりんごジュースはとっくに飲んでしまっていた。ベッドの横に座ると、ピンクのキルティング地の手さげから画用紙とクーピーペンシルを取り出した。仕事が忙しくてなかなか見舞いに来られない父のために、祖母の絵を描いてもって帰ってあげようと思ったのだ。絵には自信があった。幼稚園でシクラメンの写生をしたとき「先生が描いたみたい」とみんなにほめられたばかりだった。

祖母はあいかわらず天井を向いて目を閉じたままである。肌はしわばかりだ。くちびるも乾き、たての筋が深く刻まれている。まぶたのあたりはくぼみ、髪の毛はまばらで、白っぽい地肌が透けて見えていた。「おとうさんのおかあさん」ということが信じられなかった。「わたしのおかあさんも、いつかこうなるのだろうか」 そう思うといやだった。そのときはまだ気づかずにいたのだ。それが、わたしが大きくなることと一対のものだということに。

じっと目を凝らしていると、祖母の耳の穴から細い煙のようなものがゆるゆると流れ出てきた。誕生日のケーキについていたドライアイスを水に入れたときみたいだった。

息をのんで見つめていると、煙は大人の親指ほどの大きさをした少女の姿になった。少女といっても十五、六歳ぐらいだったろう。当時のわたしから見ればずいぶんおねえさんだ。黒髪がふっくらと結い上げられ、花かんざしがゆれている。豊かなほお、紅をさした小さなくちびる。桃色の着物に、白や黄、赤の花模様が雲のように浮かんでいた。少し前に、七五三で着物を着たときの華やいだ気持ちがよみがえってきた。

少女はあたりを見回してふしぎそうにしていたが、しばらくすると祖母の枕もとで舞い始めた。その様子に、わたしはすっかり魅せられてしまった。つれてかえりたい。頭のなかはその考えでいっぱいになった。

その頃、「お人形」がほしかったのだ。幼稚園の友だちはみんなリカちゃんをもっていた。家に遊びにいくと、おとぎ話の舞踏会に出てくるようなドレスがたくさん目の前に並べられた。小さいのにどれもフリルやレース、真珠がついていて、それ自体が宝石のようだった。みんなが自分の人形を思いのままに着飾らせていた。母にねだっても、「お誕生日にね」というばかりでなかなか買ってくれなかった。

みんなもっているものがほしい。だけど、ただ同じものではなくて、もっと特別なものがほしい。目の前に出現した少女は、そんな望みをかなえてくれる人形に見えた。だって、みんなのものは洋服だけど、この子が着ているのは着物だし、なんといっても自分で動くのだ。

わたしは息をつめて少女に手を伸ばすと、帯のあたりをねらい、バッタをつかまえるようにつまみあげた。少女の目が見開かれ、小さな口が「あ」のかたちになった。それを見なかったふりをして、ジュースの空きびんのなかに押し込んだ。少女はもがいたが、あえなくびんの底に落ちていった。ジュースがついてしまうけれど仕方ない。母に見つからないように、急いでびんを自分の手さげにしまった。

わたしはクーピーをふたたび手に取ると、ずっと祖母の絵を描いていたかのように画用紙にむかって手を動かした。汗で指がすべって、思うような線がひけなかった。

ちょうどそのとき母が戻ってきて、花びんの水滴をぬぐうとベッド脇の台にことりと置いた。そして画用紙をのぞき込むと、「じょうずね」と言った。わたしは母のほうを見なかった。耳の血管までどきどきいっているようで、気づかれないかと不安だった。だけど、母はそのまますっと離れていった。

病院からの帰り道、はやる気持ちをおさえるように手さげをおさえた。すぐにでものぞき込みたかった。「大好きなママ」にも言えない秘密を初めてもったのだ。こっそり手に入れたいいもの。本当は手にしてはいけないものであるとも、どこかで感じていた。だけど、というよりも、だからこそ期待で胸が高鳴っていた。家に帰ったらまっすぐに自分の部屋に行き、扉をしめてびんを取り出そう。早くあの子と遊ぶのだ。名前もつけてあげないと。

家に帰りついた途端、電話が鳴った。母親が慌てて靴を脱いで居間に走り、受話器を取った。「お世話になります」と、相手が目の前にいるみたいに何度も頭を下げていた。

突然、その動きが止まった。母はそれまで以上に深く頭を下げると、受話器をおいてしばらく遠いところを見ていた。はっとわたしに気づいたような顔をすると、わたしに向かい合って目の高さが同じになるまでしゃがみ込んだ。そしてわたしの両肩に手を置くと、告げた。

「たかちゃん、おばあさんが亡くなったの」

ひと呼吸おいて「死んでしまったの」と続けた。

「ナクナル」「シンデシマウ」。何もわからないわたしの頭で、あるイメージがひろがっていた。大好きなおもちゃがなくなって、いくら探しても出てこなかった日のこと。縁日ですくってきた赤い金魚がお腹を上に向けて水槽に浮かんでいた日のこと。おそらく、いままでそばにあった大事なものが、どこかにいってしまうことなのだ。

それから母は父や叔父などいろいろなところに電話をかけ始め、にわかに慌ただしくなった。わたしには「悲しい」という感情は起こらなかった。母が忙しくしているのを尻目に自分の部屋にむかい、息を荒くしながら手さげの口をひろげた。

びんを取り出したが、なかには何もいなかった。少女は消えてしまっていた。手さげをひっくり返してもむだだった。画用紙帳がばさりと落ちた拍子に、祖母の絵が折れ曲がってしまっただけだった。

葬儀の日のことはあまり覚えていない。

お寺の広々とした畳の部屋に親戚と並んで正座した。線香のにおいがした。目の前に大きな段々があり、祖母の写真が飾られていた。写真では目があき、こちらにむかってほほえんでいた。ほんとうはこんな顔だったんだ、とじろじろ眺めた。お坊さんの読経はいつまでも続くように思われた。足が痛くてしびれてきたが、勝手な動きを許さないような空気がたち込めていた。

こらえきれず、となりの母に「ママ」と呼びかけると、母はひとさし指をその唇にそっとあて、「もう少しね」とささやいた。黒い着物の衿からのぞく首もとは、前よりほっそりしていた。

やっと「もう少し」が終わり、大人たちは大人たちの時間が必要なようだった。子どもたちは「遊んでいなさい」と外に出された。いとこたちと縁側の階段から庭に下りた。玉砂利が敷きつめられた上に、たくさんの鳩がいた。

わたしが群れのなかに駆け込んでいくと、鳩はいっせいに飛びたっていった。その姿を見ながら、ふと「あのうちの一羽の背に、あの子が乗っているかもしれない」と思った。自分も一緒に飛んでみたかった。

後日、祖母の遺品を整理していると、小さな古いアルバムが出てきた。褐色がかり、角も崩れてしまっている。母がページを一枚一枚めくりながら、「おばあちゃん、きれいなひとだったのね」と言った。

のぞき込んだわたしは、「あっ」と息をのんだ。あの少女がこちらをまっすぐに見つめていた。何かの記念写真なのか、背筋をのばしてひとり椅子に腰かけている。白黒で着物の色こそわからなかったけれど、病室で見たときと同じものに違いない。

あの少女は祖母だった。いちばんきれいで、楽しかったときの祖母だった。そう気づくと心臓がいつまでも鳴りやまなかった。

結果的にあの日描いた絵は、祖母のさいごの姿をとどめたものとなった。落としたときについた筋がのばされ、額に入れられてずっと父の机の上にあった。隅には父の手でわたしの名前と描いた日付が記されていた。

「女の子をつかまえなかったら、おばあちゃんは死ななかったかもしれない」

絵が目に入るたびに自分がしたことと祖母の死の結びつきを思い、鼓動が速まるのだった。

ずいぶん古い思い出がよみがえってきたのは、いま自分が中心になって義母の身のまわりのことをしているからだろうか。義母もまた三年前に自宅で転倒して以来、寝たきりだ。可能な限りの介護サービスを利用しながら、夫や義理の家族とも力を出しあって、なんとかやっている。

義母はわたしによくしてくれた。夫に女きょうだいがいないせいもあってか、実の娘のように扱ってくれた。まれに厳しい声がかかったとしても、本当にわたしのためを思ってのことであり、いわゆる「嫁いびり」はなかった。わたしたち夫婦に子どもができなくても、面とむかって責められることもなかった。

それでも時折「どうして」という思いが胸をかすめて、はっとする。

「どうして」 母がそう言ったのを、幼かったあの頃に一度だけ聞いたことがある。病院から帰って自分の部屋にいたとき、階下から鋭く叫ぶような声がしたのだ。父は仕事で、一階には母ひとりだったはずだ。「どうしてこんなことに」なのか、「どうしてわたしが」なのか、「どうしてあなたは」なのかはわからない。そもそも祖母の件を指しているのかどうかもわからない。それでも、母は祖母のことを自分のこととしてまっとうした。

義母の横に腰かける。スケッチブックを開き、眠る姿を鉛筆で写しとる。その耳に顔を寄せ、穴をのぞく。乾いた粉のように浮いた耳垢が目に入る。はがれおちた義母のかけら。入れ替わりに新しい細胞が育っているのだとすると、義母がまだ生きている証ともいえるだろう。

義母の耳の穴のふちに、そっと指で触れる。「何かをひきずり出してしまったらどうしよう」と考える。だけど一方で「出てこないだろうか」とも期待している。義母のたましいはどのようななりをしているのだろう。もし目にしたら、わたしはどうするだろう。

もしかすると、あの日、祖母の病院でわたしがしたことは、母にとってはよかったのだろうか。思いをめぐらせかけてわれに返り、誰も見ていないのに、あわてて首を振る。

少しつかれた。夫の帰りは今日も遅い。開いたままの三面鏡に自分の姿が映る。いつ汚れてもかまわない、着古した服。最近は化粧もほとんどしていない。目の下の皮膚が黒ずんでたるんでいる。ほうれい線も深くなり、しみがあちこちに浮いてきた。

三面鏡に近づき、左右の羽根の角度を変える。合わせ鏡のなかに、いくつも自分の耳が映り込む。いくつもの、闇をたたえた穴が。

わたしは、じっと目を凝らす。




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