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ケアの世界をつくる

久しぶりに娘と喧嘩をした。
夜寝る前に素直に歯を磨かないなど、面倒なやりとりに痺れを切らしたのだ。
私は当たり前のことを当たり前に言うことしかできず、それで動かないともう面倒になってしまう。こんなことやっていられるかと思う。結局は自分のことで頭がいっぱいになっているが、悪循環をやめることができない。

子供はとにかく素直じゃない。面倒なことが大好きだ。自分の気持ちを理路整然と言えるはずもなく、素直になれず、面倒なやりとりに巻き込もうとする。気持ちが収まらないのだ。面倒だけどやろうなどと、自分の気持ちに嘘をつくことはしない、できないのだろう。気持ちが満たされているときしか動かない。それが子供だ。

こうして書いてみて、私は子供のときそのように満たされなかったのだろうなと思う。いや、満たしてもらった記憶もあるような気もする。母は私よりもずっと常識的な母らしく我慢強かったような気もするし、早く大人になるように急かされていたような気もする。
ほしいものを諦めて、我慢して、やらないといけないことをやって。正直そうだったと思う。大人の言うことを受け入れて暮らすのは、慣れてしまえば案外楽だったけど、結局今になってもそのしっぺ返しは終わっていないとも言えるのだ。人の言うことを聞いて、自分の気持ちを聞けなければ、何の意味もないのだ。

やりたくないことはやれない。気持ちが満足していなければやれない。そんな子供の姿を私は初め理解できなかった。こんな喧嘩、娘に当たることはしょっちゅうだった。それが少し久しぶりだと感じたのだから、前よりはうまくやれるようになったのだろう。娘が子供らしく生きることを、理解できるようになってきたのだろう。

他の人と比べるとき、あるべき姿をどこかに求めるとき、今ある姿を受け入れられなくなる。こんなんではだめなんじゃないか、と思ってしまう。
思えばその言葉は、これまで長い間私を苦しめてきた言葉だ。世間の常識を参照して生きること、誰かに恥ずかしくないように生きることを求めるたびに、自分は遠くなった。ずっと違和感があった。それなのに、娘にもそれを求めて不当な要求をしてしまう、今ある姿を受け入れないという。自分自身の悪循環に嵌っている。

夫と結婚したとき、私は世間に求められる生き方をすることから降りた。彼は家族の喜ぶ結婚相手ではなかったし、社会的に何の身分もなかったが、そのことを私のこれからの生き方として選ぶことは私にとって自然で、最も求めていたことで、私のために思わぬところから与えられた必然だった。そういえば全てはそこから始まったんだ。この生活を続けている限り、あの時与えられたものが私を見捨てることはない。


世の中に感じる違和感、周囲から感じるプレッシャー。慣れきった生活も少しずつ変化していく中で、自分は何がしたいのか、私に何ができるのか分からないと思うが、本当はやりたいことがあると気付く。もうとっくに持っていたのだと。
私は私が見つけたこの世界を守る。世間や常識、求められることのために生きるのではなくて、目の前の愛する人一人のために生きる。そのことで幸せを築く。ケアによって誰かと繋がれたとき、それに勝る喜びは私にはない。やりたいことも別にない。
ケアの世界は、杓子定規とは真逆だ。一人一人にオーダーメイドで、トップダウンでなく、目の前のその人から出発する。そこに全てがある。そういう暖かさを目にしたとき、触れたとき、本当はそのことのために生きたいのだと打ち震えている自分は、気付けば10年前から変わっていない。その夢を実現できる場所で、生きていけますように。




要求

私の望むような
姿であれよと言う
困らせないでと言う
周りと同じようにあれと
世の中の求めるように
将来困らないようにと

あなたのことを愛してるといっても
それは嘘になる

本当に愛している人に
求めることができるのは
あなたはあなたであれと
たった一つそのことだけ

そのためになら
私はどんなことでもするという
愛することには意志がいる
(2023.8.12)


1年前にも、娘と喧嘩してこういった詩を書いていた。


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