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マリオンの帆船

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小さな小さなアリたちが
ただひたすらに土を運んでいます。
なぜそうしているのか
彼らには理解できません。
ですが、ずっとそうして来たのです。

……。

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▷ 0


 それはかさばった赤色でした。

 雨がぱらつく夕暮れの車窓にもたれかかり、イヤホンを耳に入れようとショルダーバックに手を伸ばした時、カサッと音を立てて何かに触れました。

 それは赤い包み紙でした。
 買ったばかりの海のように青いリネンのアトリエジャケットの、その左ポケットからはみ出したマリオンクレープの包み紙。

 赤と白のチェック柄で、それは定規を何度も交差して赤えんぴつで引いたようなあせた赤。

 反対のポケットには"写ルンです"が入っています。カウンターはすでに「0」を示していて、巻き上げダイヤルはジリジリと音を立てもう止まることはありません。

 雨がポツポツと窓に当たって、それは車内の静寂をより際立たせていました。

 私はイヤホンを耳に入れると、何を再生するでもなく静かに目を閉じます。両手をポケットに突っ込んで、中にあるそれらを優しく握ったまま。

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▷ 6


 海を観ました。それはとても小さな海でした。

 東京ゲートブリッジの遊歩道の上から、工業地帯に囲まれた大きいようで小さな海。白い羽毛布団のような雲が空を覆っていて、遠くに行くにつれ薄くなり彼方の空は昼過ぎの白い太陽光を透かしています。はるか先まで伸びるトラス橋の大きくて角張ったシルエットはその青白い光の下で途切れ、まるで得体の知れない未知のオーパーツが宙に浮かんでいるようです。

 橋の上には私を含め6人の男女がいます。それぞれが、じっと下を覗き込んだり、肩を並べて小さく笑ったり、遠くの空を眺めたり、ひとり身を引いてカメラを構えたりしています。

 彼らには2つ、共通点があります。一つは同じ時に同じ中学校で3年間をともに過ごしたということ。もう一つは、みな片手に"写ルンです"を持っているということ。

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 私は彼らの合間を縫って下をのぞいては"写ルンです"を構え、カウンターの「6」という数字を気にしてシャッターを押せずにいました。

 橋のふもとには海浜公園が広がっていて、ちょうど真下には海釣りをするための細長い桟橋があり多くの人たちで賑わっています。高さ88mから見下ろす桟橋の人々はまるで小さなアリの行列のようです。

 この巨大な橋もそんな働きものの「アリ」たちが作り出したものだとは、実際に自分の足で立ってみると、とても信じられません。宇宙から降ってきたと言われた方が、まだしっくり来そうです。

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 後ろを大きなトラックが通り過ぎ橋がぐわんと揺れました。怯んで思わず後ろに下がると彼らはまだ海を観ていました。

 まばらに並んだ5つの背中はそれぞれがすっかり他人同士で、同じ時同じ場所で過ごした時間があったことなど、これっぽっちも感じられません。

 私は彼らから離れ、その5つの背中に静かなシャッターを切ります。

 中学校を卒業してからもう14年が経ちました。


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▷ 27


 駅で集合してちょっぴりぎこちない挨拶を交わした後、近くのカフェで昼食を取りました。

 集まった5人の内2人に会うのは中学校ぶりでした。

 「あたしのこと覚えてる?昨日絶対卒アル見返してたでしょ」

 ひとりがそんなことを言ってみんなは笑いました。

 私は人見知りが災いして頭の中がぐるぐる。場を和ませようとしてくれた冗談に気の利いた返事もできず、困ったように笑っていました。

 カフェは薬膳料理が人気のお店。頼んだのは鶏肉とドライフルーツの赤ワイン煮込み。なんともおしゃれ。

 料理がテーブルに並ぶと、みんな"写ルンですを取り出して構えます。こいつでテーブルフォトを撮るのは思ったより難しいです。1m以上離れないとボケてしまうから、みんなちょっと立ち上がったり椅子を引いたりして料理を撮っていました。

 料理を一口、また一口。スパイスのいい香りが口の中に広がると、私の緊張も少しずつほどけ言葉数が増えて来ます。まさに妙薬。薬膳とはこういうことね。食事を終えると、すっかりおなかの中から元気になって、わくわくと楽しい予感がしてきます。

 カフェを出て次の目的地へ歩きます。一歩一歩と進むたび、"写ルンです"が入ったちょっぴり重い右ポケットが漕ぎはじめのブランコのようにフワッとはずみます。撮影枚数を表すカウンターはすでに2枚減って「25」を示しています。


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30 to ▷ 27


 きっかけはいつだったか、カメラ好きの友達に

 『参加者全員"写ルンです"の写真会がしたい!』

という話をしたこと。

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  つい最近、30歳になりました。自分の歳の一の位のカウンターが「9」から「0」になって、十の位がひとつ繰り上がりった途端、それがまだ「2」だったころにやりたかったこと、やり忘れたことがたくさんあったような、そんな気持ちがふつふつと沸いてきました。具体的なあれやこれではなくて、頭の中じゃなくて、胸の内から。

 その形のないモヤモヤにとりあえず、「なんかエモいことがしたい」というペラペラの安っぽいPOPを貼り付けてみます。

 そしてふと思いついたのが、「写ルンです会」でした。

 14年前、私たちがまだ中学生だったころ。"写ルンです"は何の付加価値もないただの使い捨てカメラでした。スマホなんて当然みんな持っていなくて、携帯電話を持っていたごく少数の人たちが使っていたのはガラケーでした。修学旅行には必ず"写ルンです"を持って行きました。

 そんな使い捨てカメラに「エモい」という価値が生まれたのはいつのことでしょうか。それは同時に"写ルンです"が「古く」なったことを意味しています。

 手の中にあるのは14年前から変わっていないプラスチックレンズのカメラ。誰でも気軽に撮影出来るカメラ。けれども今は昔とは違って明らかな趣味性を持ったカメラ。数ある高性能なデジタルカメラを横目に見ながら、それでも誰かに選択される魅力を秘めたカメラ。私たちが変わったから、価値を持ったカメラ……。

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 話をしたカメラ好きの友達はあっという間に私を含め6人もの参加者を集めてくれました。それは結果として小さな同窓会のような集まりになったのです。

 さて、14年ぶりに集まる「古く」なった私たちは、それぞれどんなシャッターを切るのでしょうか。


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▷ 21


 カフェを出て植物園へたどり着きました。
背の高いドームの四方の窓から曇天のあわい光が滲んでいます。熱帯の植物は力強く青々と茂って館内に広く影を作っていました。


 流れる滝の音を聴きながら細くグネッと曲がった道を歩いていきます。ここは全体的に薄暗く光が差し込んでいるポイントを探してはカメラを構えます。

 気づけばみんなバラバラになってそれぞれファインダーをのぞいています。不思議と同じ場所でカメラを構えることはありません。

 "写ルンです"はシンプル故に使用者の「直感」を写すカメラだと思います。

 だって、画角を決めたらシャッターを押すしかすることがないんだもの。あとはせいぜいフラッシュを焚くか焚かないか。

 「直感」とはその人らしさを滲ませます。

 普段からデジタルカメラを使っているとこの潔さはとっても心地良いものです。カメラを構えたものの、背景をどれくらいぼかそうか、色味はどうしようか、露出は……?とりあえずシャッターを切ったものの思ったのと違う。もう一度設定をいじくってカメラを構えて……。なんてことがあります。

 気がつけばずいぶんと「作られた」写真になってしまっているのです。

 "写ルンです"は「撮りたい!」と思ってからすごく直線的。結果も現像するまでわからないから立ち止まることもない。その人のその目線の延長そのまま。


 今日集まった6人は実は中学時代に良くつるんでいたいう訳ではないのです。もちろん仲が悪かったということではないのですが、ほとんど関わりがなかった人もいます。6人の内、誰と誰はよく遊んでいたとか、今も交流があるとか、そういうことはあるけれど、当時からしたらとても奇妙な6人なのです。

 みんなバラバラにカメラを向けて、ファインダーの中に何を見ているのでしょうか。それはきっと鏡のようにその人を写すものです。

photo by @unmei_sen


 私はせっかくなのでみんなを撮りたいなと思いました。こそこそと後ろの方から。夢中になってカメラをのぞいている彼らにシャッターを切り続けました。


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 みんなから離れたところで一人の友達が下を向いて花壇を覗き込んでいます。彼女に近寄り目線の先を追うと、そこにはアリの巣がありました。

photo by @genta_y_

 アリたちは土をくわえて巣から出たり入ったりを繰り返しています。どうやら巣作りの最中のようです。

 「この巣ができるのにどれくらい時間がかかるんだろね。」

 彼女はポロッとそんなことを言いました。

 ふと、その言葉ごと写真に残したいような、そんな気持ちになってスッとカメラを構えます。

 けれども、近すぎる。アリを写そうとすると、このカメラでは近すぎてボヤけてしまいます。

 しばらくレンズ越しに、動く小さな黒い点をみつめた後、そっとカメラを下ろし、つぶやきました。

 「アリって一つの巣に何億匹とかいるんじゃない?意外とすぐかもね。」

 思い返してみればずいぶん品の無い返事でした。彼女はグッと前屈みになってその小さなアリたちにレンズを向けようと思ったのですから。

 アリたちはただひたすら土を運び続けています。彼らは完成した巣を想像してわくわくしたりするのでしょうか。いえ、そんなことはないでしょう。きっと何をしているのかもわからず、ただ黙々と土を運び続けているのでしょう。


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▷ 9


 植物園を出ると誰かが、

 『海が見たい』

 と言いました。

 どうやら植物園の裏手が海に面しているようなのでそこまで歩いてみたのですが、そこはたくさんの船が停泊している船着場で私たちが思っていた、「これぞ海!」ではありません。

 駅まで戻ろうと振り返ると、レンタサイクルが目に留まりました。

 『せっかくだからこれで海まで行かない?』

 曇り空でしたが風はやさしくあたたかく、サイクリングにはとても良い春の日でした。

 埋立地の海浜公園へ続く道は広くまっすぐ平坦で、電動モーター付きの自転車はぐんぐん先へ先へと進んで行きます。

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 私は昔から内省的な性格でした。クラスでは目立たなかったし、読書が好きで運動が苦手でした。つまり、弱い立場の人間でした。だからこそ承認欲求は強くて、ちっぽけな自尊心を守ろうと変に格好をつけたりして、失敗して、恥をかいて、苦い思いもたくさんしました。もちろん、楽しいこともたくさんありました。

 それでも苦い経験の方がよく覚えているもので、私は楽しかった思い出ごと記憶に蓋をしてしまっていました。

 『昨日絶対卒アル見返してたでしょ』

 中学の卒業アルバムはもうありません。少し前に実家が火事で半焼した時、燃えてしまったはずです。ですがそれ以前に、卒業してから開いたことがあったかどうかもあやしいのです。私は19の時に実家を出ましたが、その時の荷物の中に卒業アルバムを入れることはありませんでした。

 中学校の友達と気兼ねなくお酒を酌み交わせるようになったのはつい最近のことです。もちろん当時のこともよく話に上がります。私は記憶力が良い方ではありませんが、悪い訳でもありません。

 『そんなことあったっけ?』

 『誰だっけそれ?』

 本当にわからない時もありますが、嘘をつくこともあります。本当は覚えていることもたくさんあります。嘘をつくのは、その思い出に釣られて嫌なことを思い出したくないからです。

 そういえば、今日6人で集まってから昔話をしていません。中学校の同級生という一番の共通項を話題にしないのは、なんだか奇妙なことのように思えて来ます。

 今どこに住んでるの?何か趣味とかあるの?
 14年ぶりにあった2人に、私はまるで今日初めて会う人にするような質問をしています。向こうも同じです。顔や名前だけ知っていて他は何も知らないみたいな。いや、実際そうなのです。みんなとそれぞれ距離が生まれて、わからないことだらけになったから、なんとかもう一度ピントを合わせようとしているのです。

 私はそんなぎこちない会話に居心地の良さを感じていました。みんな変わっていないけど、なにもわからなくなった。だから今のことを知りたい、話したい。なんだか昔のことなんて、もうどうでも良いや。

 私はずいぶん「古く」なったけど、みんなはずいぶん「新しく」なった。みんなから見ると、たぶん私も「新しく」なってる。

 あの時のあの場所を。同じ中学校で同じ3年間を過ごしたお互いを見て来たから、あの時より「古く」なって生まれた「新しい」価値を見つけられる。

 そんな些細な気づきに私の身体は軽くなります。

 どんどんペダルを漕ぐ足は速くなり、その青いジャケットを蹴り上げて、右ポケットのブランコはいよいよ天高く跳ね上がります。

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photo by @unmei_sen

 誰もいない平らなどこまでも続く道を、風を切って、先へ先へ。春の風の匂い。かすかに潮の香り。髪が後ろにそりかえっておでこが全部あらわになって、ヒュルヒュルと音を立てて車輪は回ります。

 先頭を走る私の横をものすごいスピードで自転車がすり抜けます。普段おしとやかな彼女は満面の笑みを浮かべてペダルをグンッと踏みつけています。

 追いついて並走して、そのプラスチックのレンズを彼女へ向けます。転びそうになりながら。ペチッと安っぽいシャッター音が鳴って、私は思わず笑い出しました……。

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 気がつけばあっという間に海浜公園へ着いていました。この先には東京ゲートブリッジがあるそうです。

 『橋まで歩いて行ける距離みたいよ。上まで行けるみたいだから行ってみない?』

 私たちはうなずいてバラバラに歩きはじめます。

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▷ 6


 海を観ました。それはとても小さな海でした。

 眼下の人々はアリのようでした。巨大な橋は未知の世界から来たもののようでした。

 さっき見たアリの巣を思い出しました。何もわからず土を運び続けるアリたち。

 クロオオアリの巣は深さ30cm、横幅1mにもなるそうです。それが出来上がったとして、地中に掘られたその大きな巣の全貌を、アリたちが知ることはありません。

 私たちはたくさんの誰かが時間と労力をかけて作ったその巨大な橋を見上げ、その上へ来ました。そして、そこから海や空を観ました。それを観る友人を視ました。

 14年の歳月はとても長くあっという間のものでした。

 私は30歳になりました。

 私は30年間何か積み上げてきたのでしょうか。14年を通して何か変わったのでしょうか。ただひたすらに何もわからず土を運ぶアリのように時を過ごして、結局私自身には何も視えないのです。

 ですがその積み上げた何かは、他の誰かの目を通した時にわずかに写って視えるものなのかもしれません。そうであってほしいと思います。

 私が今日彼らを視て、そこへレンズを向けさせたように。そんな何かが、自分にもあってほしいなあと、切実に思います。

 私は彼らから離れ、その5つの背中に静かなシャッターを切ります。

 離れているからピントが合う今があります。

 私は今、この瞬間がとても楽しいと感じています。

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 8……7……6……。下向きの矢印と減っていく数字のカウントをみんな黙って見ています。

 一階に着くまで誰も口を開きませんでしたが、その沈黙は決して居心地の悪いものではありませんでした。


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▷ 5


 バスで駅まで戻り、電車に乗って隣駅の臨海公園へ行きました。

 私が撮影できる回数は残り5回。中にはもう撮り切ってしまって、ちゃっかり持ってきたデジカメに持ち替えている人もいます。ずるい。

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 『ちょっとお腹が空いたね』

 と、話していると駅の高架下にマリオンクレープがありました。

 小腹を満たすにはちょうど良いねと、みんなでクレープを食べることにしました。

 私はシンプルなバターシュガー。写真もクレープも素材の味が楽しめるものがいいのです。なんて気取っていたら6人中3人がバターシュガーを選んでいました。

 一口かじると、バターの香りとほんのりとした甘さが口の中に広がります。私はその時、なぜだかバターと砂糖に向かって続くアリの行列を想像していました。

 それぞれがクレープを手に持って展望台へ向かいます。赤と白のチェックの包み紙はイチゴがはみ出していたり、生クリームでパンパンに膨らんでいたり。私みたいにぺったんこだったり。

 海を透かした透明な展望台へ向かう6つの赤と白のチェックは、大海へ漕ぎ出す小さなヨットの帆布のようだと思いました。

 私はそれをペロッと。いち早く食べ終えてしまうと、そのチェックの包み紙を折りたたんで左のポケットへ入れました。

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 『間をつめて!』

 と左手を仰いでジェスチャーを送ってみます。ですが彼らには伝わりません。

 みんなで展望台へ上って行く途中にこっそり抜け出して、あらかじめ目星をつけていた撮影ポイントでひとり、ファインダーをのぞいていました。

 何度も左手をグーっと真ん中へ。ジェスチャーを繰り返しましたが全く伝わらないのであきらめました。

 現像された写真には不自然な隙間。ですが、その人ひとり分くらいの隙間に、勝手な嬉しさと安心感を覚えている自分がいました。

photo by @genta_y_


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 日が少しずつ傾いて来ました。

 いつのまにか"写ルンです"のカウンターは「1」を示しています。


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▷ 1


 男友達3人で大観覧車に乗りました。女性陣の中に観覧車が苦手な子がいたので、他2人も残るようです。

photo by @kao_rusg

 乗り場前でスタッフさんが記念撮影をしてくれました。

 『はい!チーズ!』

 私は照れ臭くて控えめにピースをします。ひとりは慣れた様子で笑って、もうひとりは真顔です。私たちは、前からこんな感じです。

 観覧車はなんと17分もあると、アナウンスがそう告げます。てっぺんにたどり着くまで8分30秒。

 てっぺんについたらシャッターを切ろうと思っていました。最後の一枚。最後なんだから特別な一枚にしようと息巻いて、観覧車に乗り込んだのです。


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 観覧車の中からプールのようなものが見えました。それは東京オリンピックでも使われたカヌーの競技場なのだと、友達が教えてくれました。カヌーの体験も出来るそうです。

 はるか上空から見下ろすその競技プールは水が抜かれているように見えました。緑がかった青色をしたプールの底。私はこの色がとても好きです。この色を見ると夏のはじめのワクワクとした気持ちが、塩素の香りと共に漂ってくるようです。

 私たちは他愛のない会話をしました。地上117mのはるか空の上から、水のないプールを眺めて。

 塩素のにおいがします。小さな夕暮れのゴンドラの中で。思い返せば、けさ目が覚めてからすでに漂っていたような気がします。微かに、遠くの方で。それは少しずつ近づいてきて、今私たちの周りに満ち満ちています。

 てっぺんを通り過ぎました。私はその特別でありふれた時間に、シャッターを切りませんでした。


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 17分後、私は最後の一枚を残したまま観覧車から降りて来ました。

 降り場には記念写真売り場がありました。売り場のお兄さんは私たちの写真を見て、

 「なんだか修学旅行みたいですね」

と言いました。

 私たちはその写真を見て、「たしかに!」と笑いました。

 私たちはその写真を買いませんでした。

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 地上で待ってくれていた3人と合流し、駅へ向かって歩き始めます。

 曇り空の向こうの太陽は沈みかけていて、潮の香りがする春の空気は淡いオレンジ色を帯びていました。みな駅へ向かっています。わたしはその後ろを歩いています。

 強くなる塩素の香り。気だるい午後の陽気。

 ふいに、思い出の中から放課後のチャイムの音が飛び出して来て、それは胸の中にじんわりと響き渡りました。

 私はスッと"写ルンです"を取り出すと、なんの躊躇いもなく自然とシャッターを切っていました。

 夕暮れの空に響いた小さく乾いた音は私にしか聞こえませんでした。

 巻き上げダイヤルを回します。「0」という数字がジリジリとせり上がって来て、それから、そのダイヤルはいつまでも回り続けました。


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▷ 0 to 30s


 ジリジリ、ジリジリ。

 小さな雨の気配と電車の揺れを背中に感じながら、ポケットにつっこんだ右手で意味もなく役目を終えたカメラのダイヤルを回します。

 電車はすっかり日の落ちた降車駅へたどり着き、ガタガタとドアが開きました。

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 近すぎるとボヤける。一歩離れてピントが合う。扱いづらくて愛おしいプラスチックのレンズ。

 私たちはあの中学時代よりもずっと離れています。それは期間であったり距離であったり、卒業後にそれぞれがたどった14年分の文脈であったり。

 それでも私たちは今日同じ時同じ場所に集まってお互いにカメラを向け合いました。夕暮れの駅のホームで、「またね」と言いました。

 私たちはこれからどこへ向かうのでしょう。それは誰にもわかりません。

 それでも、ふたたび顔を合わせた時に、またその甘いピントの先で、どうか、笑っていられますように。

▧ ▦ ▤ ▥ ▧


 改札をくぐると雨は止んでいました。

 イヤホンを外し、傘を持たなくて良くなった片手をジャケットのポケットに突っ込みます。青い海のような色の、細波のようなヘリンボン織りのジャケット。その海に抱かれて、「0」を示した使い捨てカメラのダイヤルは、いつまでも回り続けるのでした。 


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小さな小さなアリたちが
ただひたすらに土を運んでいます。
なぜそうしているのか
彼らには理解できません。
ですが、ずっとそうして来たのです。

すると突然、海の方から
やさしい甘い香りが漂って来ました。
彼らは土を運ぶのをやめ、
海に向かって行進を始めました。

他の巣からも
たくさんのアリたちが列をなして
続々と集まって来ています。

その中には昔の知り合い同士もいて、
彼らは再会を大いによろこびました。

甘い匂いに潮の香りが混ざり、
だんだんと濃くなって来ました。

ついに海が見えると、
その手前の船着場には
赤と白のチェックの帆を立てた
いくつもの帆船がありました。

帆船には
バターや砂糖やイチゴや
生クリームが積まれていて、
アリたちはそれぞれの好物が
積んである船に続々と
乗り込んで行きます。

海はとても小さな入り江でした。
入り口には大きな大きな橋がかかっています。
アリたちは小さな船の上からそれを見上げます。

するとどうでしょう。
なんだかとても幸福な気持ちに
なってきました。

アリたちは
バターや砂糖やイチゴや
生クリームを一口かじると、
そのベタベタになった小さな手で
船の舵を握りました……。

photo by @kao_rusg


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 ジリジリ、ジリジリ。
 使い捨てカメラのダイヤルを回します。小気味良い音が薄闇の帰り道に響きます。

 ジリジリ、ジリジリ。
 使い捨てカメラのダイヤルは回ります。それは赤と白のチェック柄の、その帆船の舵のように。

 さあ、私たちの30代へ。面舵いっぱい!


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