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ソルティグランマレポート

※不快な内容を含みます

 その日は二つのものが燃えた。
 一つは家でもう一つは祖父だった。



2021年12月29日

ココロの相談室 
あずま様

はじめまして。
この度はお世話になります。

早速ですが、私は夫婦間の思い描く将来像の食い違いで悩んでいます。

妻はここ数年以内に子供が欲しいと思っており、私は全く子供が欲しくありません。しかし妻の意見を尊重したいと思っています。産まない選択をすれば、この先妻に罪悪感を抱き続けると思うからです。

ですが、どうしても子供を作ることに前向きになれず、また子供を育て愛情を注いで行ける自信がありません。そのことを考えると毎日憂鬱です。

将来像の食い違いと書きましたが、というよりも私自身がどうしたら「子供が欲しい」と思えるようになるのかアドバイスをいただきたいのです。

……。


2022年3月30日

 とても寒い日だったと思う。

 夜勤明けで長すぎる昼寝から目覚めた時、外はすっかり日が落ちていて、3月の終わりにしては空気がシンと冷え込んでいた。枕元に置いてあったスマートフォンを手に取ると、母から数件のLINEが来ていた。

 『おばあちゃん、ダメでした』

 全身が凍りつくようだった。ドクドクと音を立てる自分の心音を聞きながら返事を打つ。

 『ダメ?』

 そう返したのは、少しでも現実を遠ざけておきたかったからだ。本当はもう分かっていた。

 祖母が亡くなった。祖父の死からちょうど一年が経っていた。

 少し経ってから通夜と告別式のスケジュールが送られて来た。どちらもたまたま仕事が休みの日だった。

 『わかりました』

 そう返事をしたものの、私には端から行くつもりなどなかった。家族に会うのが恐ろしかったからだ。


……。

私には弟がいます。ADHDで中学2年生の時に不登校になりました。それまでは仲の良い兄弟だったと思います。ですが、その時期からほとんど会話はしなくなりました。

当時私は高校2年生で、恥ずかしながら思春期・反抗期であったこともあり弟を避けていたように思います。

その後私は大学に進学し家を出ました。弟は通信制の高校に一年遅れで入学しましたがそこでまた挫折、家に籠るようになりました。少しでも元気が戻ればと私は誕生日にプレゼントを送ったりしました。

ですが、今思えばこれは自分が可愛かったからです。本気で気にかけてはいませんでした。自分が幸せな人生を送るために、兄弟想いな兄であること、弟が幸せな人生を歩めること、それが必要だったのです。ゾッとします。

私が27になった今でも弟は社会復帰出来ていません。最後に連絡を取ったのは半年以上前なので、それ以降はわかりませんが。

……。


2022年4月5日

 昼すぎ、新松戸駅で降りる。

 4月になり桜もすっかり満開になった。第6波で感染は拡大しているものの、花見の自粛ムードは去年より弱まっている。みな未だにマスクを外せずにいるが、外に出て桜を見上げているそのマスクの下はきっと笑顔だ。

 駅から少し歩いたところにある斎場に祖母は居るとのことだった。連絡を入れ対面させてもらうことにした。葬儀が行われる前にせめて少しでも会いたかった。

 その斎場は一年前、祖父の葬式をした会場と同じだった。駅前の橋を渡り高架下を潜った時、ふと一年前の景色がフラッシュバックする。あの日もこの道を歩いた。ただ、あの時は祖父にありがとうを言って、少し涙ぐんだりして、久しぶりに会った親戚と食事をしたりだとか、そんなふうに一日が終わるとそう思っていた。


……。

勢いで書いてしまっているので時系列が前後します、すみません。

自分の高校時代は辛いものでした。特に思い出すのはいつも泣いている母の姿とそれに無関心を装うのに必死な自分です。父も苦しんでいたと思います。

母は元から過干渉なタイプでした。子供が周りからどのように評価されているのかをとても気にする人でした。「こんな人間に育って欲しい」という明確なビジョンがあったように思います。

悪く言えば我が子に理想を押し付けるタイプでした。私は母の自尊心を満たすために顔色を伺って育って来ましたし、私もそんな母が喜ぶのを見て満足していたことも事実です。

私はいわゆる"いい子ちゃん"でした。精一杯母の理想の子供でありました。中学校のテストでは常に上位をキープして、素行も良く先生や周りの親からも評判が良かったです。

話を戻します。弟が不登校になった時、母はそれを受け入れられませんでした。泣いて、痩せて、正直とても見ていられませんでした。だからなるべく見ないようにして自分を守っていました。

タイミングの悪いことに、ちょうどその頃私にも反抗期が来ていました。"いい子ちゃん"でいたことの反動でしょうか。私は勉強をしなくなり、授業をサボって映画を観に行ったりする様になりました。

その頃の私は「勉強=親のエゴを満たすこと」と端的に結びつけていたように思います。そのまま高校3年生になり受験シーズンが来て、今度は勉強をしない私は孤立する様になりました。そこに弟の不登校が重なり、両親は本当に辛かったと思います。本当に迷惑をかけました。しかし私自身もクラスでの孤立感や家の問題に両挟みにされ大きなストレスを感じていたのです。

ある時、私は一週間ほど高校に行かなくなったことがあります。そんな私を見て母は泣きじゃくりながらこう言いました。

「あなたまでそんな風にならないでよ!」

この言葉は今でも私の心に漂っていて、時折水面に顔を覗かせるのです。

『もし弟が不登校でなかったら?もし歳の離れた兄が居て、その兄が一流の大学を出て大企業で活躍していたら?もし兄弟があと3人くらい居て私と弟以外は"普通"だったら?』

私が鬱になり不登校になっても、"許された"かもしれないのです。状況が違っても、私が苦しんでいることに変わりはないのに。母にとって私はあくまで母の世界の一部で、私が自分の目で世界を見ていることに意味はありませんでした。私は母が主人公のゲームのNPCみたいだと感じました。

……。



 大通りに植えられた街路樹は桜ではないようだ。葉もほとんど落ちていて、淋しげな細い枝を透かした青空はまだ冬のものだった。

 急いで背負って来たリュックの中身は整理されておらず普段のままでずっしりと重い。その中に入れっぱなしの一冊の本があった。デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった:存在してしまうことの害悪』だ。

 この時、私は反出生主義という思想に取り憑かれていた。字面は物騒な感じがするが、極めて道徳的な思想だと思った。

 著者は、出産は悪だと考えていて、その理屈は驚くほど単純だ。

 まず、生まれてくる命は、その人生の中で「快」と「苦」を味わう。つまり出産は「快」と「苦」を生む。

 「苦」を生むのは「悪」だ。だが、「快」を生まないことは、別に「悪いことではない」。道端のゴミを拾うのは「善」だが、拾わなくたって「悪ではない」。「善」を成さないこと、生まないことは別に「悪ではない」のだ。

 出産は例え「快」を生んだとしても「苦」も生むから「悪」。出産しなければ「快」も「苦」も生まれないが、「快」を生まないことは「悪くない」。2つを比べると生まない方が道徳的だ。だから、生むな。

 私はこの本をいつも持っていて、暇な時に開いてはペンを引いたりしてじっくりと読んだ。それは、子供が欲しいという妻に対する幼稚な理論武装だった。

 でも本当は分かっていた。その理屈で固められた鎧の下にはただ恐怖があった。それは、自分が親として失敗するだろうということと、それによって生まれて来る子の人生に影を落とすことになるだろうという確信めいた予感だった。


……。

大学には祖父の支援がありなんとか進学することが出来ました。家から電車で2時間半くらいかかる遠方の大学でしたが、自分の関心があった芸術系の大学で、私は高校時代とは打って変わって勉学に励むようになりました。一年後には特待生に選ばれ授業料は全額免除、そこで出来た経済的な余裕から私は一人暮らしを始め家を離れることになります。

しかし、学生生活を満喫して無事就職した会社を私は半年で退職します。

それからしばらくは祖父の家に居候をしながら、公務員試験の勉強をしていました。祖父母は自分が困っている時にはいつも手を差し伸べてくれました。ですが、勉強は上手く行かず挫折。祖父母に合わせる顔がなくなり、私は実家に逃げ帰ったのです。

そして私は家族の現状を目の当たりにします。

弟は睡眠薬や精神安定剤に頼りきりになり、オーバードーズで倒れ頻繁に救急搬送されました。私も救急車を呼んだことがあります。「お兄ちゃん助けて。震えが止まらない。」不意に部屋の扉が開き覗いたのは死人のような顔でした。

一転して興奮状態になることもありました。ある時コンビニのバイトを数日で辞めてしまった弟が手がつけられないほど荒れたことがあります。

弟の部屋は2階にあります。上から弟が物を壊して回る音が聞こえてきて、1階で父と母と飼い猫と私は背中に汗をかきながら平常心を保つことに必死でした。

驚くことに母も父も現状に順応していました。あれだけ理想の高かった母は、「ありのままでいてくれたらいいの」と弟と私を受け入れました。

ただ、母は「弟のような人に対して寛容であることに病的な正義感」を持っているように思いました。

ちらっとテレビに映ったホームスクーリングをしている親子を見て「本当に素晴らしいことだよね。こういう人が増えてくれたら嬉しい…」などと過剰に反応したり、それに反対意見を述べたコメンテーターに対しては「こういうヤツがいるから日本はダメなんだ!」などと盲目的に批判したりするようになりました。

また、「あの時はごめんね」と過去の弟や私に対する親としてのあり方について、よく謝るようになりました。

ですが、性根腐りきった私の耳には「許してくれ。認めてくれ。」という保身のためにしか聞こえませんでした。

『昔の自分は間違っていた。今ようやくその間違いを認められるようになりました。本当にごめんなさい。この現状があるのは全て私のせいです。だから私はこの子の全てを受け入れ、この先も支えていきます。それが母としての勤めだからです』

母は悲劇のヒロインになることでエゴを満たし、承認欲求を満たし非難から逃れ安全地帯の市民権を得たように思います。

ここまで母を悪く書いて来ましたが、私は母が好きでした。自信を持ってはっきりと言えます。だからこそ今となっては関わり方が分らないのです。

四方八方に飛び散った文章ですが書くことで自分の感情や頭の中が整理されていくのを感じます。長く読みにくい文章で本当に申し訳ありませんが、もう少しお付き合いください。



実家に帰って就職をするまでの間、一度だけ弟と2人でディズニーランドへ行ったことがあります。真夏の蒸し暑い日でした。園内でどんなアトラクションに乗ったのか。何を食べどんな話をしたのか。ほとんど思い出せません。それでもあの時は幸せでした。とても満足していました。

ですが、何にでしょうか?「兄として引きこもりの弟を外へ連れ出した」ことに?

所詮蛙の子は蛙です。私は親になどなれません。なりたくもありません。


しばらくして、なんとか私は社会復帰をし障害者支援の仕事を始めました。
この業界はどこも人手不足で当時24歳だった自分はとても重宝されました。ただ人から必要とされたことが嬉しく、承認欲求のままに仕事をし、それから少しは冷静に自分を見れるようになり、前述した体験から来る潜在的な憂鬱感・不安感もお金と時間を全て好きなことに投資することで塗りつぶして来ました。結婚もし仕事も少しずつうまく行って来ました。

そんな今年の2月、祖父が亡くなりました。

……。



 斎場に着いた。入り口で検温とアルコール消毒をする。ディスペンサーに手をかざすと、指先に冷たい消毒液が飛び散った。両手を揉むように擦り合わせる。はじめはコロナに対する恐れから本当に祈るような気持ちでアルコールを両手に塗りたくっていたが、この儀式にももう慣れた。

 斎場には受付をしてくれた女性以外誰もいなかった。ガラガラの館内はハリボテのようだった。2階へつづく階段を見上げる。そして、その踊り場に一年前の母の姿を見た。

 母はずいぶんと痩せていた。喪服の黒がより母をか細く見せていて、私は胸の奥がギュッと痛んだ。それからその母に支えられて歩く祖母の姿。ずいぶんと弱ってしまったように思う。一段一段、ゆっくりと階段を登る母と祖母の後ろ姿は、夕暮れ時の影法師のように細く黒かった。

 たった一年前のことなのに葬儀のことはほとんど覚えていない。思い出そうとしたこともない。思い出したくもない。火葬場へ向かう車内でかかって来た一本の電話。そこから全てが狂った。

 その電話は父の携帯にかかって来た。父は電話を切ると急いでハンドルを切って駅へと方向転換した。

 父はなぜか笑顔で電話の内容を告げた。自分自身を落ち着けようとしていたのか、私を気遣ったのか、それともこういうことにもう慣れてしまっていたのか。私にはわからなかった。

 父は私を駅で下ろすと急いで家へと向かっていった。私はタクシーに乗り一人病院へ向かった。そこにいる弟を迎えにいくためだ。タクシーの車内で私は純粋に弟の心配をしていたと思う。あの後、その気持ちのまま弟に手差し伸べることが出来ていたら、今こんな後悔はしていない。

 受付の女性に案内され2階の部屋へ着いた。扉の向こうにはもう一枚引き戸があってその向こうに祖母が居る。一人になると静寂と私だけが残った。私は大きく息を吸い、その引き戸をゆっくり開けた。


……。

葬式に弟の姿はありませんでした。火葬場に向かう車の中で父の携帯に電話が入りました。警察でした。家が燃えたそうでした。弟が家にいました。弟は今日が祖父の葬式だと知りませんでした。亡くなったことも知りませんでした。病院に運ばれていました。薬を飲んでいたようです。興奮状態でした。自分がやったと言いました。私は祖父の最後に立ち会えませんでした。私は弟を殴りました。弟は私を殴り返しました。バス停で。落ちていた金属片やホースを使って殴ってきました。通行人は止めてくれませんでした。引きずり倒され暴言を吐かれました。目を集中的に狙われました。何も見えなくしてやると言われました。その他にも、文章に起こすことも阻まれる汚い暴言を吐かれました。妻を汚されるようなことを言われました。弟は終始ニヤニヤしていました。少し落ち着いた弟と距離をとりながら火事の事情聴取のため警察署まで歩きました。田んぼの中の道を歩きました。クワなどの農具が積まれているところで、弟はそれを取ろうとしました。私はそれを止めて先を歩きました。殺されると思いました。恐ろしかったです。走り出したかったです。足は震えて動きませんでした。警察署について簡単な事情聴取をして、実家まで送ってもらいました。家は中までびしょびしょでした。二階はほとんど全焼だったそうですが、よかったと思いました。ガラスが全て割れて床に穴が空いて雨戸が常に閉まっている不気味な、弟が暴れて壊してしまった部屋は無くなりました。父と母は先について中にいました。生気の抜けたような表情で立っている母の姿を直視出来ずに、ただ手を握って何か伝えたように思います。父が駅まで送ってくれました。私は泣いていました。「何も出来なくてごめん」。そう言うと父は、「自分の人生を生きて」というようなことを言いました。買ったばかりの喪服の膝のところが破けて血が出ていました。祖父のこと、残された祖母のことを思って帰りました。この日のことは二度と思いだしたくなくて、両親と祖母に連絡を取ることはほとんどしなくなりました。後日、父と母が心配で、「弟と離れて暮らして欲しい」と連絡をしましたが、それに対して返事が来ることはありませんでした。

……。


 祖母は寝ているように見えた。上を向いて少し微笑んでいるようにも見えた。肌はとても綺麗だった。死化粧をしてくれているのだろう。

 「おばあちゃん。来たよ」

 何か話し続けようと思ったが、言葉が出てこない。祖母との記憶が蘇らない。良い思い出ごと過去に蓋をしてしまったからだろうか。

 家が燃えた日。祖父が燃えた日。私が逃げて来た全てのものが牙を剥いた。あの日燃えたのは二つだけではない。私もだ。私はその人生ごと燃えカスになった。裁かれたのだと思う。見て見ぬフリをしてきた家族の憎悪や苦痛が形を成した炎によって。

 あの日病院で弟は自分が火を付けたんだと言った。祖父との別れを蔑ろにして駆けつけた私に向かって。ニヤニヤと笑いながら。今思えば嘘だったと思う。こちらを試していたんだと思う。それか、取り返しのつかないことをしてしまって混乱していたのだと思う。それに私は気付けなかった。悲鳴を上げていた弟の心に。私は怒りが抑えられなかった。手を上げてしまった。そして弟の中で憎しみが燃え上がった。

 弟が道を外れた時から、私は「自分だけ幸せになっていいのか?」と自問し続けてきた。だが、心の底では「いいんだよ」と言ってもらえると思っていた。甘えていた。そんな自分勝手な私に弟が向けた言葉は「殺してやる」だった。

 あれから弟とは連絡を取っていない。両親とも連絡を取る機会は減った。実家にも帰っていない。

 怖かったのだ。弟と接点を持つことが。あの日からしばらくは、本気で弟が殺しに来るのではないかと怯えていた。それから、弟と離れろと言ったことが両親との関係性にも傷をつけていた。今思えばとても身勝手だった。父も母もどれだけ苦労して弟を見てきたか。そこに手を差し伸べようともしなかった私が何を勝手なことを言えるのだ。

 弟が私を恨むのは当然だった。私は弟を気遣うフリだけしてきたのだ。私は自分を守るために家族を蔑ろにしてきたのだ。全て自分のせいだった。

 祖母はそんな私たちを見てどんな風に逝ったのだろうか。どんな思いをさせてしまったのだろうか。ここに今私一人しかいないこと。そして明日の通夜に私と弟がいないことを空の上から見てどう思うだろうか。

 祖母の顔に触れた。ピンと張った肌は冷たく滑らかで少し粉っぽいような気がした。例え温度があってももう生きている人の感触ではなかった。

 私は音のない空間でしばらくじっとそうしていた。


……。

いろんな人が話を聞いてくれて私は少しずつ元気になりました。しばらくして弟から、「迷惑かけてごめん」とLINEが来ましたがすぐにブロックしました。今、弟に思うことは早く◯んで欲しいということです。なんで生まれてきてしまったんだろうと思います。私も弟も父も母もみんな。


長くなってしまいましたが、今までの自分の人生について書きました。私は生きているのが辛いと思うことが多いです。それを忘れていられることが幸福です。死にたいと思うこともあります。しかし、それをするつもりはありません。

ただ、死ぬことで記憶や意識や感情が全てなくなるのならそれが唯一の救いのような気もします。だから、とにかく自分が正しく死ねるまで、楽しいことや嬉しいことで自分の人生・不安を塗りつぶして生きたいのです。

今の気持ちでは子供を持つことは難しいです。それが、自分の人生を楽しいことで塗りつぶす余裕を奪って、不安の底に突き落とす気がします。また、生まれてよかったなあと自信を持って言える親にはなれません。

それでも妻は子供が欲しいみたいです。なんとか子供が欲しいと思えるようにならなければ毎日苦しいです。妻は本当に素敵な人です。自分の負の部分に巻き込みたくないので本音で話すことも出来ません。なんとか変わってしっかりしたいです。

でも、その"しっかり"するために子どもを持つというのもまた違うと思うのです。堂々巡りで本当に疲れてしまいました。どうにかご意見いただきたいです。

長文になってしまい本当に申し訳ありません。
お返事お待ちしております。

夜明かしのカルアミルク



 家の最寄り駅まで帰って来た。朝から何も食べていなかったので空腹だった。とりあえず駅の近くにあるマクドナルドに入ることにした。

 新型コロナウイルス騒ぎは収束しつつあったが、店の入り口にあるディスペンサーにみな当然の様に手をかざして入っていく。

 私もそうしようとして、やめた。私の指先が触れた祖母の感触を思い出したからだ。その指を消毒するということが、とても残酷で人でなしのすることだと思った。

 空いている席につきスマートフォンからフライドポテトを頼んですることもなく待つ。

 私はまた一年前のことを思い出していた。本気で命を断とうと考えたのはこの時が初めてだった。メールフォルダを遡って数ヶ月前にカウンセラーに宛てたメールを探す。あった。読み返してみると、それは少し大袈裟だなと思えるほどには回復していた。メールでのたった数回のやり取りが劇的な変化をもたらすことはなかったが、言語化することで自分の気持ちを整理することは出来た。

 あっという間にポテトが運ばれて来た。脂っこい匂いが空腹を刺激した。私はそれをつまみ口へ放り込もうと顔を上げ、そしてテーブルの向こうに祖母を視た。ポテトやハンバーガーに齧り付く祖母。そういえば祖母は結構ジャンキーなものが好きだった。ケンタッキーとか。野菜より肉が好きでいつも贅沢な牛の一枚肉なんかをステーキにしてむしゃむしゃ食べていた。

 ひとつ、思い出した。冬のとても寒い日だった。祖父母の家に居候をしていた時のこと。夕方だったと思う。ダイニングの机に窓から差し込む金色の陽が落ちていた。音は何もしなかった。私は椅子に座っていた。祖母はダイニングテーブルの向かいに座っていた。祖母は幼い子供のような笑顔で何か言った。その言葉はもう思い出せない。思い出したかったけれど、思い出せなくてもいいと思った。その静謐な空間に火の手はなかった。泣きたくなるほど美しい時間だった。

 私は揚げたてのフライドポテトをつまんで口に入れる。熱くて塩辛い。指先はまだ祖母に触れていた。私はそれを頬張った。冷たくて滑らかで少し粉っぽい。一瞬吐き気がして涙目になりながら飲み込んだ。不衛生という言葉がふと頭をよぎって自分を殴りたくなった。

 祖母に触れた。話しかけた。「ごめんね」「ありがとね」。何を言ってももう聞こえなかった。何も伝えられなかった。

 口の中にポテトを押し込んだ。その指先で触れた祖母ごと詰め込んだ。咀嚼した。テカテカになったその指を舐めた。しょっぱかった。指ごと口に押し込んだ。ふれた。祖母の死化粧。構わず押し込んだ。今はもうそんなみっともないことでしか証明できなかった。おばあちゃんが、大好きだったって。

 祖父の顔が浮かんだ。私の知らないところで燃えてしまった大好きな祖父。頑固で厳しくて孫には甘かった私のおじいちゃん。

 二人ともきちんと送ってあげられなかった。最後に安心して逝かせてあげられなかった。本当に、ごめんなさい。

 両親にも会いたかった。弟を本当は許したかった。許して欲しかった。きっと一番辛かったのはあの子だ。でももうそれはできなかった。怖かった。実家に帰りたかった。私が長い間過ごした家。父と母と弟と。幸せだったはずだ。なんで。どうして。もう私の部屋は燃えちゃったのかな。涙が溢れて来る。口にポテトを押し込んだ。しょっぱい。吐きそうになった。我慢して飲み込んだ。父さん、母さん、Kちゃん、私。家族なのに。

 妻の顔が浮かんだ。家でソファに寝転んで今も私の帰りを待ってる。大好きな人。自分の一番大切な人。家族。家族ってもうなんだかわからなかった。呪いのようなものかも知れなかった。それでも幸せになりたかった。妻は子供を欲しがった。子供を産むのが正しいか悪いかなんて、本当はどうでもよかった。妻と私が幸せでいられればよかった。例えそれが悪でも妻を幸せにしたい。生まれて来たその子が例え辛い思いをすることになっても。恐ろしくたって進むしかない。妻の隣にいるのはこの私なんだ。この先何十年と月日が流れた時、今日みたいなお別れは絶対に嫌だ。私が前を向かなきゃいけないんだ。

 残った数本のポテトをまとめて口の中へ突っ込む。涙も鼻水もいろんな思いも悔いも罪も愛もまとめて咀嚼する。しょっぱい。とてもしょっぱい。脂っこくてギトギトして冷たくて滑らかで、鼻の奥がツンとする。

 祖母はとてもしょっぱくて悲しい味がした。


2024年7月15日

 それから更に2年が経った今
 妻の腹から心音が聞こえる。

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