黒をはらふ(1)
ついに頭が落ちた。
重力に負けた瞼を引き上げると、滲んだ視界は輪郭をたどり世界を鮮明に映す。目下の資料に垂らした涎を拭いつつ辺りを見渡すと、黒い群衆に囲まれていた。幾何学模様を描くように規則正しく着席し、身を乗り出して話者を見つめている。無機質な白い壁から跳ね返る、冷ややかな声に耳を刺された。全てを言い終えたのか、その声の持ち主は決められた角度に口角を上げて停止した。それを合図に群衆は「ありがとうございました」と言い放ち背中を折り畳む。数多の部品が設計基準に則り、プレスされていく。不良品とされたくないのでわたしも慌てて背中を曲げた。
「あなたは誰ですか」と問われれば、「わたしは学生です」と言える。今だけは。数ヶ月後、「採用」の二文字を握りしめ、頭からつま先まで真っ黒い、この群衆の一部として社会に投げ出される。突然現れては床を這いずり回るゴキブリのように内定を求めてカサカサと動き回る。残飯漁って泥水すすって必死に生き延びたとしても、人目につけば殺虫剤を吹きつけられるに違いない。そうならば、外の世界を知らないまま、社会に自分を知られないまま、先の見えないこの床下の暗闇で、終えたい。すでにわかっているのだ。何も持たないわたしは、何にも成れない。
約二時間の会社説明会が終わった。
世間に言われるがまま購入したリクルートスーツに締め付けられ、靴擦れを我慢してパンプスを鳴らす。犇き合う箱の中、四十二階の大会議室から一階のロビーへ降ろされた。スカートの中が映りそうなほど磨かれた床が、全面ガラス張りの窓から射し込む夕陽によって反射している。降りかかる光芒の矢を遮るには、わたしの手の平の面積では足りなかった。逃げるように背くと、残りのゴキブリが別の箱から湧き出てきた。
「山本、説明会で寝落ちとか信じらんねぇ」
ゴキブリに扮した男に左肩を小突かれた。
「あれ、青葉は?」
「青葉は院進らしいよ」
「ふーん。さすがのお前らも進路は別なんだ」
わたしは今春、都心から離れた陸の孤島に立地する四年制大学へ編入した。今でもはっきり覚えている。授業初日、右側に青葉が座った。桜の花びらとともに髪が吹かれ、大きな瞳は潤み、長い睫毛が頬に影を作っていた。幼い頃、「買ってもらうまで帰らない」と泣き喚いて手に入れた人形に瓜二つだった。
「あの改札前の、青葉じゃん。お前らまた俺を除け者にしただろ。下山するなら誘えよ」
山や畑に囲まれたキャンパスから都心に出るには片道四桁を費やす。この男は東京へ行くことを「下山する」と揶揄する。何が面白いのかわからない。
「よし、せっかく三人揃ったし、このまま飲むか」
男は独り言を続け、駅前の青信号がカッコウの鳴き真似をするよりも早く、いの一番に白線を踏み込み、青葉の元へ駆け寄った。大学生の何があろうとなかろうととりあえず飲酒しようという習性を理解できない。さらに痛みが増した靴擦れを庇い、後を追った。
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