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脳内会議録

先日、ひとつの短歌に大きな反響をいただくことがあった。
その短歌が自分的にセンシティブ系だったこともあり、それはそれは取り乱しまして(自分比)、
ことばの怖さ、いかに世の中に言葉を出す覚悟が無かったかということを思い知った。

わたしが短歌にはまって、短歌界隈に心地良さを感じるのは、そこにいる人々が考えすぎ感じすぎ人間だからだと思う。
歌を作る人々は自分のすべてが題材なので、自分の心で遊んだり向き合ったりすることにどこか慣れている。(痛くないわけではない)
そして多くの人はおそらく「ここから先は使わないゾーン」という線も持っていて、意識無意識にかかわらず自分の心を守り慣れているのではないかと思う。
しかも短歌の人はまず短歌を「短歌」として受け取るので、「鑑賞」というバリアで防御もできる。内容が良くても歌として気に入らなければ流してくれるだろう。

でも短歌しない人ってどうだろうか。
反響が大きくなるにつれて、短歌をしてなさそうな人からの反応がふえてきた。
こころの大切な部分を開けたり閉めたり守ることに慣れてない人の、つらい部分に自分の言葉が刺さってしまっているのではないか。
母娘問題の多くは代々続く永遠の呪いだ。向き合わない方がいい場合も多い。
わたしの言葉がだれかの開くべきでない箱を開けて苦しませてしまうのではないかと思って大混乱に陥った。

そんなわけで、歌意と祈りを添えたポストをした。それを全員に言って回りたいくらいだった。
それでも止まらないのでやけくそでお勧めの歌人を紹介して(これはまじでもっと早くやればよかった)、それでも止まらないので
翌日半日アカウントに鍵をかけた。

反応を強制的に止めたら頭も落ち着いた。
まずは覚悟なくあの歌を送ったことを反省。
取り乱したことを反省。
今後どうするかを脳内会議で整理。
その結果、
・これが短歌を作って世に出すということ
・これが人の心になにかを残すということ
・短歌だろうが言葉だろうが日常の言動だろうが人は傷つけあうことを避けられない
・ふれあわないこともできない
・自分は短歌で傷ついたとして読まなければよかったと思うのか→思わない
・私の言葉で傷ついた人に会って話せば相手を救えるか→救えない
・届くことが怖いならやめればいい→やめたくない
・なら覚悟を持って今後も歌を作り続ける
・おしまい
ということに落ち着いた。

そもそも、この歌はわたしの中の業の深い感情ベスト5に入るような思いをもとに作っている。
わたしが物心ついて以降全力で向き合って出した結論が歌になり、選者に届き、歌人に届き、コメント、反応をくださったみなさんに届いた。
届いたものをどうするかはその人次第。スマホの向こうだろうが、隣にいようが他人の心には入れない。

新聞等に歌を出すときも、どこかに強い思いがある歌がとられることがほとんどだ。普段から、ちゃんと届いているんだ。
受けとってくれる歌人・選者のいる短歌界隈に入ってよかったし、これからも「届く」ということに怯えずにぶつかっていこうと思う。











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