秋の淋しさに抗うために、手を動かして文を書く
先日、縁があって有吉佐和子記念館に立ち寄った。
そこで私は作家による生の原稿というものを初めて目にした。その分厚さ、誇らかなさま、そして潔さ。原稿の束が高波となり、襲いかかってくるかのような錯覚に陥るほどで、私は思わず立ち尽くした。原稿を見るだけでわかる。大作家と自らを比べるほど傲慢ではないと思っていたが、それでも〝敵わない〟と思った。文章を書くということの本質と、私は程遠いところにいるのだと。
ところで、解剖学者の養老孟司先生が仰っていたが、何かを覚えたり身につけるには、やはり手を動かす必要があるらしい。
有吉佐和子氏をはじめとする昔の作家の文章に気骨があるのは、やはり自らの手を動かして、一文字一文字を大切に綴っていたからなのだろう。スマホやパソコンで打つのとは訳が違う。一文字一文字の重みが違うといったところだろうか。私はどうも一発書きというか、修正がきかないという形式が苦手であるので、ついついスマホで文章を打ってしまうのだが。
そういえば、作家の江國香織さんは未だに原稿を手で書き、FAXで編集者に送っていると聞いたことがあるが、果たして本当なのだろうか? そうであればもの凄い胆力である。
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夜半、淡い洋燈の灯りをたよりに、文机の前でひたむきにペンを動かす。
昔の作家の様子を思い描いてみると、彼らは文章を書くことにある種の畏れを抱いていたような気がする。
それはやはり『手で書く』というひとつの美しい所作に起因するのだろう。
現在は一度書いた文章は幾らでも容易に修正してしまえるし、終いには然るべきツールに頼ればある程度は整えてもらえる。
しかし、そのようなものがない時分には、そうあっさりとはいかない。
書くことは地図を持たずには航海に出ることと同義だ。自分に備わった力、地力と勘、なおかつ美意識のようなものを携えて、辞書という舟に乗り、懸命に進んでゆくしかない。道中で難破してしまうかもしれないし、目的地まで辿り着くのも一苦労だろう。
それでも、信じて書く。その切実さ故に、昔の作品には身を焦がすような名作が多い。どれもがきりりと厳しく、高潔で、しかし優しい。だからこそ私は、昭和やそれ以前に生まれた作家が好きなのである。
繰り返しになるが、有吉佐和子記念館で直筆原稿を目の当たりにした際、私はその神聖さに驚嘆した。
打ちのめされるままに一階を後にし、二階の茶室に上がると、座卓の上に一冊のノートがある。近寄って膝を折りノートを覗き込んでみると、来館者のメッセージが記されていた。
とりあえず手慰みにめくってゆくと、これが存外おもしろい。
他県から念願の来訪を遂げ歓喜する人や、病院帰りに立ち寄り、病状が悪化していない安堵の旨を書き記す人。総じて年配の方が多く、さらには作家の記念館などに来るような人であるからか、文才に長けた人ばかりであった。粋な短歌を詠っている人までいた。
流麗な文字、几帳面さが滲み出すような文字から、達筆すぎて解読できない文字まで。様々な人たちの想いが、ノートを豊かなものにしていた。
物を書くこと、語ること。そしてそれらの終着である物語というものは、本来私たちの生活に根差したものであるはずなのだ。
しかし、現在はスマートフォンやパソコンなどで簡単に文字が打ててしまうが故に、生活や肉体と文章にまつわる全てが乖離しているように思う。
ご年配の方が綴られた文章を見て、私は自らの文章の至らなさを恥じた。
手を動かして物を書く人は、皆心に詩人を潜めている。普段それらは顔を出さないけれど、はっとした瞬間、残り香のごとく馥郁たる詩情が現れる。
私にもきっとちいさな詩人はいるのだろうけれど、それははりぼてだ。少々器用に言葉を切り貼りしているに過ぎず、高齢の詩人方の足元にも及ばない。
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以前目にした宮崎駿監督と吉本ばななさんの対談で、宮崎監督が若者の体験の乏しさについて嘆いていた。炎のゆらめき、木々の音、魚の体表のぬめり、豪快な食事の音。
これについての善し悪しを論じるつもりはない。ただ、肉体の感覚が希薄になったり、自分の「身」についてないことばかりをしていると、空疎になってゆくのかもしれない。それは私にとって、少し怖いことに違いなかった。
というわけで、この文章はおおむね手で書いた。
正確に言うと、手で書いたものを地道にスマホで打ち直したわけである。ただ、スマホ上で何遍も推敲したため、手書きの成分を含んだ文章とでも思っていただきたい。
真白い紙に走る罫線を前にすると、野心や虚栄心はたちまち霧散し、ただただ透明な心地で文を書くほかなかった。普段スマホでばかり文字を打っているからだろう。漢字を書くのが覚束ず、それ故にどこか謙虚な心持ちで書けたように思う。
ペンを置いた際、胸に湧き上がったのは何とも言えぬ不思議な達成感と静けさ。手で物を書くというのは、何と神秘的な作業だろう。ひやりとした洞窟の中で滴り落ちる、オパールのような粒を観察しているかのような幽玄さ。とても慎ましい作業だった。そして僅かながら、日々の思い煩いが慰められるような、そんな優しい体験だった。
これ読んでくださった方も、試しにノートを開き、自らの手で文章を書いてみてはいかがだろうか。私が提案できる、淋しい秋の夜長の処方箋である。
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