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ボーイフレンド

 いつもなら、夕焼け色の空が広がっている時間だった。予報外れの分厚い雲があるはずの光を遮り、今にもぽつぽつと降り始めそうだ。

 疲れ切った足を動かして、空気の入っていないタイヤを漕ぐ。きい、きい、と一定のリズムで音が鳴る。土手の上の、でこぼこのコンクリートをがたがた揺れながら自転車で走る。

 一つ下の道で、制服を着た男子高校生がブレーキの音を響かせてUターンした。なにか約束を思い出したのだろうか。

 陰鬱な気分で足を動かしていると、左耳にだけ付けたイヤフォンから突然華やかなイントロが流れ始める。たっぷりと盛り上げてから、その曲はスタートする。

 早く会って言いたい
 あなたとのいろんなこと
 刻みつけたいくらい
 忘れたくないんだと


 湿った風が吹く。川の水量もいつもより多い気がする。今の気分とは正反対の、aikoボーイフレンド。ずきずきと膝が痛む。籠の中で、財布とスマホだけ入った小さな鞄が小刻みに揺れている。

 唇噛んで
 指で触って
 あなたとのキス確かめてたら


 抑揚のついた声は色っぽくて、少しどきっとする。はあ、はあと息が切れる。汗が垂れて、耳の裏を伝う。

 雨が止んで
 星が溢れて
 小さな部屋に迷い込んだ


 軽快にリズムを刻みながら、サビに突入する。いつの間にか私の速度も上がっている。ああ、家に帰りたくないのに。橋のふもとで信号待ちをしている人たちが、みんなしかめっ面で俯いている。

 青く細い葉が一斉に風になびいている。向かい側からジョギングしてくる男性のサングラスが静かに上下する。

 哀れな昨日
 穏やかな今
 地球儀は今日も回るけれど
 ただ明日も
 あなたのことを
 限りなく想って歌うだろう


 右耳のそばで、風がびゅうびゅうと唸る。左耳には、私の大好きな曲。ずっと真っ直ぐ走った先には、くだらない理由で喧嘩をした彼の待つ明るい家。

 テトラポット登って
 てっぺん先睨んで
 宇宙に靴飛ばそう


 こんな曇り空じゃ、宇宙なんて見えないに決まってる。でも、この走っている勢いで靴を飛ばしたら本当に宇宙まで届きそうな気がするからこの曲はすごい。彼が一人で全部食べた、二時間並んで買った大きなモンブランタルトも、どうだって良くなってくる。

 あなたがあたしの頬に頬ずりすると
 ふたりの時間は止まる
 好きよ
 ああボーイフレンド


 道路を音を立てて走るバイクの上で、華奢な女の子が男の子にしがみついている。二人ともヘルメットを被って、こつんとぶつかっている。

 華やかで明るいまま、曲は駆け抜けていく。低い音も高い音も、合わさって強く背中を押してくれる。早く会いたい。抱きしめたい。怒っていたことなんて忘れて、そう願った。

 私は立って、一歩一歩体重をかけながら前へ進む。帽子が飛ばされそうになって、ちょっと俯く。それでも目だけは真っ直ぐ前に向ける。

 分厚い雲の向こうから、沈みかけの太陽の光が滲み出していた。

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